ちくちくの森から~

シュバルムの森への熱き思い。

初ブラウス

2007-03-23 | 大好き!
先生のデザインで、初ブラウスです。
作成初日は手が震えました。
日によって、刺し始めと終わりで、
微妙に手が変わってきます。
そんな調整に気を使いました。

天の川のデザイン。
3種のステッチのみ。
ステッチ自体はシンプルなので、
どのくらいの針目で、どのくらいのボリュームを出すか、
糸の引き具合は、、
など、立体物に刺すのも初めてだったので、
これまたお勉強になりました。

天然光でないと、きれいに刺せないので、
午前中に2,3時間
集中力の続く限りで作成しました。

人の目を気にした刺繍。
(どう見えるか、を意識して刺したので)
心地よい緊張感をもって作れました。

麻のシャツ。
早く暖かくならないかな~!!

前はこんなカンジです。

       

シュバルム刺繍と女性

2007-03-22 | 大好き!
1910年3月10日にエリザベス・ベルンハルトはシュバルム(正式にはKleinroppenhausen村)で、小さな農家の次女として生まれました。1927年9月23日を境に彼女の人生は一転します。この日、脱穀機の事故で左脚を失ってしまったのです。医師達は彼女の命を救うべくあらゆる手を尽くしました。彼女そして家族にとって非常に辛い時期でした。3ヵ月後、クリスマスの直前に、漸く彼女は家に帰ることを許されたのでした。

ゆっくりと彼女は歩くこと、自分の新しい人生を軌道に乗せることに取りかかりはじめます。重度の障害のため、農作業をすることはもはや無理になってしまいました。その為、新しく職業訓練を受けることを考え始めます。そしてついに、シュバルム刺繍を身に着けようという結論に至ります。彼女はティールマン夫人に師事し彼女のもとへおよそ2年通います。1929年と刺されたボロボロになったサンプラーを見ると、この年に修行期間が終わったこと、そして彼女の力量が分かります。彼女の初めての大きな注文はOttrauer教会の祭壇用の敷布でした。この教会は1930年にその地域の少女協会が設立したものでした。その後60年に渡り、近郊・遠方の教区民や刺繍愛好家の為に数え切れないほどの刺繍作品を作成していきます。彼女の作品を見ると、如何に細心の注意を払い忍耐強く刺していたかが分かります。その上、いつも彼女のデザインには自然のかたちを取り入れる工夫がなされていたのです。

障害は彼女の人生に重くのしかかりました。若い女性なら誰もがしたいと思うこと、例えば、サーカスを楽しんだり、ダンスパーティに行ったりといったことは諦めなければならず、また生涯独身を貫くことを余儀なくさせられました。その時の彼女の心の内を想像するだけで、誰もが悲しい気持ちになるでしょう。

戦時中都会から戦火を逃れてきた家族がベルンハルト家に身を寄せました。
その後、他の土地からも避難してきた人が娘と義理の息子とで又借りをしてベルンハルト家に住みました。こうして見知らぬ、生まれも故郷も違う人たちと生活を共にすることで、エリザベスの気持ちは変化していきました。彼女は思いやりのある、心の広い、偏見を持たない人でした。

事故の重い後遺症によって彼女の人生は決して容易なものではありませんでした。家族そして近所の人たちが常に彼女の支えとなりました。1989年2月2日に脳卒中で帰らぬ人となります。

シュバルム刺繍を通して、彼女が強い信念をもって生きることで、その人生は安らぎあるものになったのでした。

その2 刺繍・仕事

2007-03-13 | 大好き!
1930年代まで刺繍は、生計を立てる重要な仕事でした。
小さい農家、手工業者、日雇いの家庭では、
夫人や娘が“Naherinnen”(お針子)として働きました。
彼女たちは、服やリネン類を縫うのと同時に、“上縫い“をしました。
これは、出来上がったものに刺繍を施すことを意味しています。
シュバルムの女性たちは、縫い子であるのと同時に刺繍指しでもあったのです。

縫い子のほとんどは、0.25~4haの土地を所有する家庭の婦女子でした。
農業だけで家計を支えることがままならず、女性の労働力は必要不可欠でした。
当時の女性にとって、裁縫以外に職の可能性はほとんどありません。
縫い子は裕福な農家から仕事を請負、服・リネン類を縫い上げ、
婚礼用の装飾などを施しました。
農閑期には本職として、または夜なべ仕事として
こういった裁縫仕事をして収入を得ました。

縫い子になる為に訓練をするということはありません。
裁縫や刺繍に興味がある若い娘たちは、寒い季節に熟練した縫い子の仕事を見て、
分からない事は聞き、忍耐強く練習を重ね、やがて一人前として仕事をします。
必要な道具は、刺繍針、3種類の大きさの刺繍枠、指貫、縫い針、はさみです。
最終的には、ミシン(手押しもしくは足踏みミシン)も必要となっていきますが。

製作時間は状況によって色々です。
良い作業環境で、熟練した縫い子が作業をするとします。
日照時間の長い夏に、週6から7日。
朝6時もしくは7時から夜10時もしくは11時まで。
食事などの短い休憩を挟んで約16時間。
冬は、日照時間が短くなるので、製作時間も短くなります。
刺繍には天然光が利用され、石油光で他の縫い仕事が行っていました。
副業としての縫い子の作業時間は他の仕事次第でした。

刺繍と縫い物の催しのための、豪華に刺繍を施した男性用のシャツに
4~6週間を費やしていたという1950年代の記述が残っています。
幅広の刺繍を施した女性用のコルセットにも
同程度の時間を費やしたとありました。
試しに、ベッドカバーを刺し上げるのにどれくらいかかるのか
概算を試みた人がいます。
コルセット両袖の縁飾り刺繍は合わせて60センチの長さがあります。
そして、ベッドカバーは480センチで8倍の長さになります。
60センチに5週間かかるとすると、480センチには40週必要です。
ベッドカバーのへり飾りはコルセットより大概広幅に刺繍されているので、
40週以上にわたる仕事が必要ということになります。


       

1853年に作成された男性シャツ。
画像が小さくて見づらいですが、
開き部分、衿に豪華な刺繍が施されています。


刺繍刺しの仕事は時間給ではなく刺し給(歩合制)で、
現金もしくは現物支給でした。
その当時の刺繍刺しの女性の言葉があります。
「時間給で算出すれば、稼ぎは悪くないでしょう。
もちろんそんなことはありえないけれど。」
「時間をかけて刺すと、大して稼げません。
手早く刺せば、少しはまともに稼げます。」
「小さなソーセージや干し肉のかパン、
またはわずかばかりのバターかスモモのジャム
または穀物などが、仕事の対価として渡されます。」

今日、刺繍刺しの多くは、誰にも邪魔されず楽しみながら刺繍を
満喫することができます。
シュバルム民族博物館に展示してある1930年代以前の刺繍作品は
どれもオリジナル性が高く、刺繍へのひたむきな情熱と愛情にあふれています。
時間に追われ生活に苦しみながら刺したという、現在とは逆の条件にも関わらず、
それらの昔の名も無い刺繍刺しの作品には時代を超越した手仕事の美が宿っています。

シュバルム刺繍の第三時代以降 その1

2007-03-01 | 大好き!
刺繍は女性の分野でしたが、
20世紀初頭Karl Rumpfという男性がこのテーマを熱心に研究し、
1937年に“Alte baeuerliche Weissstickereien“
(昔の農村白糸刺繍??)という本を出版しました。
古い刺繍芸術が今生き生きとして受け継がれていると、
彼は記述しています。

Alexandra Thielmann(1881-1966)夫人
1924年に著名な画家である夫を亡くした後、
“シュバルムの農村刺繍のための工房”を開きました。
1927年には17人がその工房で刺繍を学び作業していました。

こうして古い刺繍技術は生き続け受け継がれていきました。

Ziegenhain村(現シュバルムシュタット)では
1941年からGombert Thekla夫人が郡立技術学校で
芸術技術教師として働いていました。
シュバルムの白糸刺繍の理論と実践について教鞭をとっていました。

彼女の授業や著書“ヘッセン刺繍シュバルム”や“シュバルムの白糸刺繍”
を通して生徒たちに知識や能力を教授することで、
古い芸術的技能であるシュバルム刺繍に
新しい刺激を与えることになったのです。

今でも、シュバルム村のミュージアムには、
Gombert夫人の作られた教材用(多分)サンプラーを見たり
彼女の著書を購入することができます。




小さくて見えにくいですが、ステッチの見本とその名前が刺繍で示されています。
切れていますが、実際は右下にGombert夫人の名前と刺した年代が
またもや刺繍で示されています。


今までは実地での技術伝承のみであったシュバルム刺繍が
Gombert夫人によって、本・教材としてまとめられました。
彼女の存在は現代のシュバルム刺繍を考えるうえで
非常に大きな存在といえると思います。


これらの女性の活躍により、
この地の白糸刺繍はシュバルムから派生して多くの地域で定着しました。

地域の婦人協会、市民学校、教会の教育センターなどで普及していきました。
近年では、ドイツ大手の手芸雑誌“ANNA“ がシュバルム刺繍の特集を組んでいます。

シュバルム村のミュージアムにも世界から問い合わせが来ています。
アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本などからです。
多くの人たちが、シュバルム刺繍を新たな挑戦、有意義で価値ある趣味と
捉えているようです。