木造校舎を訪ねて

私が訪ね歩いた木造校舎を、写真と文章で紹介していきます。

№32都留市・尾県学校

2009-11-18 15:49:21 | 旅行

都留市は昭和29年、南都留郡谷村町・宝・禾生(かせい)・東桂・盛里の一町四村が合併して誕生した市である。中心地の谷村(やむら)地区は文禄三年、浅野重氏が勝山城を築き、谷村藩(またの名を郡内藩)の政治・文化の中心となった。
創立は明治6年、谷村学校の分校として発足。現校舎は同11年竣工の二階建て、宝形造り、赤色トタン葺、外壁は漆喰塗りである。校舎竣工に当たっては、山梨県令(今の県知事)藤村紫朗が建設を推奨し、時の戸長・小俣民右衛門を筆頭に、村中総出で工事に取り組んだという。この藤村紫朗が推奨した建物は俗に「藤村式校舎」と呼ばれ、現在山梨県内に尾県学校を含めた五棟が保存されている。
尾県学校の校名には逸話があり、この周辺が小形山という地区名から、当初は「小形学校」という字にしようとしたそうである。しかし関係者から“その字体では校名に相応しくない”との意見が出て、「尾県」に改められたという。
昭和16年、尾県学校は閉校となり、同45年に移築保存され資料館として今日に至る。藤村式校舎を山梨の人たちは、その姿がインクの壺のように見立てられたことから「インキ壺学校」などと俗称されたという。山梨県人が藤村式校舎に、いかに愛着を持っていたかと思わせる話である。

所在地 山梨県都留市大字小形山1565
撮影年月日 平成15年5月25日(日)

 


№31大月市立宮谷小学校

2009-11-18 12:24:24 | 旅行


「猿橋」

山梨県東部に位置する大月市は、「大菩薩峠」や甲州街道随一の難所といわれた「笹子峠」など、山岳風景を見渡す盆地の中にある。そのような厳しい自然環境にも関わらず、縄文時代の遺跡が90基余り出土し、古くから人々の営みがあったことを今に伝えている。日本奇矯の一つに数えられる「猿橋」は、いわずとしれた観光名所である。

創立は明治6年、正覚寺を仮校舎に当て始まる。現校舎は昭和31年竣工の二階建て、切妻造り、桟瓦葺、外壁は下見板張りである。宮谷地区では、毎年夏に「春日諏訪神社」「富士浅間神社」の二つの神社で祭が行われ、祭の前夜祭は宮谷小の校庭で行われるという。地域に根ざした学舎の姿は、まさに“おらが村の学校”という存在であり、いつまでも存続してほしいと願わずにはいられない。

所在地 山梨県大月市富浜町宮谷915
撮影年月日 平成15年5月25日(日)


№30大滝村立光岩小学校

2009-11-17 12:57:31 | 旅行

荒川村との境近くにこの学校はある。現在、大滝村は秩父市に合併されたが、元は埼玉県の市町村では最大の面積を有し、人口密度は一番少なかった。村域の96%を山林が占め、2000m級の高山に囲まれている。
創立は明治30年「大滝小学校光岩分教室」として開校。現校舎は昭和9年竣工の二階建て、寄棟造り、赤色桟瓦葺、外壁は白色下見板張りである。平成13年3月、大滝小に統合され閉校となる。

このような秘境の地に都会の学校顔負けの校舎が建っていることに、私は改めて日本は教育熱心な国柄だと思った。白い板張りと赤い大屋根、その上に載る三角の通風口がリズミカルで明るい雰囲気を創りだす。

上の写真は校舎の側に置かれたタイムカプセルである。卒業生の顔が彫られ「2020年にまた会おう」という文字が刻まれている。今日本国内はもとより、世界に羽ばたいているであろう光岩の子供たち。彼らの母校は永遠にこの光岩小であり、消えることの無い心の拠り所であると思う。皆が再会できることを、木造校舎も待ち望んでいるような気がした。

所在地 埼玉県秩父市大滝町大字大滝4783
撮影年月日 平成15年4月29日(火)


№29飯能市立南川小学校

2009-11-17 12:04:53 | 旅行

「天を目指す峠」と書いて天目指(あまめざす)峠と読む難所に至る県道と、秩父市街に至る国道の交わる場所にこの学校はある。
創立は明治7年、正蔵庵を仮用して「南川学校」として始まる。現校舎は明治37年竣工の平屋建てと、昭和12年竣工の二階建ての二棟が離れて建つ。平成5年3月、吾野・北川の両校とともに統合し閉校となる。

閉校以来、明治校舎の一部を料理教室として使用されている以外は、ほとんど使われていない。しかし保存状態は極めて良好、廃校につきものの不気味な雰囲気は微塵も感じられない。

校庭でキャッチボールをする親子の姿が、木造校舎ととてもよくマッチしている。それを静かに見守る卒業記念のモニュメントが印象的だった。

所在地 埼玉県飯能市大字南川154
撮影年月日 平成15年4月29日(火)


№28飯能市立北川小学校

2009-11-16 21:14:18 | 旅行


全昌寺(北川小寺子屋時代の学舎)

飯能は昔「判乃」と書き、これは武蔵七党の判乃氏の統治下に置かれていたことに由来するという。西武秩父線「西吾野駅」から山手の道を上ったところに、この学校はある。
創立は明治7年、全昌寺衆寮を仮用し「北川学校」として始まる。全昌寺は北川小学校の手前に今も荘厳な佇まいをみせる。現校舎は明治37年竣工、大正10年増築のいずれも平屋建て、寄棟造り、スレート瓦葺、外壁は下見板張りである。平成5年3月、吾野・南川の両校と統合し閉校となる。閉校からちょうど10年が経った平成15年に、私は北川小を訪ねた。まるで時が停まったかのようにひっそりとし、辺りの雰囲気だけでなく敷地及び校舎の保存状態も、現役当時さながらであった。
地域の人たちの学校に対する思いは、現役の頃よりも閉校してからの方が“学校を守らねば”といわんばかりに強くなっているような気がした。

所在地 埼玉県飯能市大字北川623
撮影年月日 平成15年4月29日(火)