2014年3月14日(金)日帰りで京都への旅をしました。毎度おなじみ「青春18きっぷ」で、金沢から京都を往復して、交通費は2300円ぽっきりした。
訪問先は以下のとおり。
【五龍閣】『夢二式美人画展』
清水寺下の、国指定有形文化財・五龍閣で。
【久御山町役場】≪夢二が逗留、円福寺≫
京都南部の久御山町に夢二の絵が残る。
【宇治・花やしき】≪山宣資料館≫
夢二と深い交際が有った、市民派の労農党代議士・山本宣治は、右翼に暗殺される。
《旅の始まり》
3月14日(金)06:18。北陸本線金沢駅。上り、普通一番列車に乗り込む。福井県敦賀で乗換え、滋賀県近江今津で乗換えして、京都駅10:58着。
今回は、大阪の岸田準二さんご夫妻が旅に同行くださり、岸田さんのお車で京都を案内いただきました。移動時間のロスがなく、感謝、感謝です。
岸田準二さんは、「民芸協団大阪支部理事」の方で、昨年末に新潟県阿賀野市の「夢二展」に関する記事を協団の機関誌に掲載されたことから、ご連絡を取るようになったものです。
【五龍閣】(ごりゅうかく)
五龍閣は清水寺参道の途中に有り、90年前に建てられ、国指定有形文化財に登録された素敵な洋館です。清水焼で財をなした松風嘉定(しょうふうかてい)氏の迎賓館で、設計は有名な建築家武田五一です。
現在の持ち主は、湯豆腐の老舗「順正」で、一階は「夢二カフェ」として営業しています。
その二階の大広間で「夢二式美人画展」が、「京都・花灯路2014」に協賛した形で開催されていました。五龍閣さんでは、こんな東山地区の企画に協賛する、無料の展覧会を時々開催されます。会場では、軸装された肉筆画や版画がたくさん並べられ、ミニ夢二美術館のようです。
順正経営者の祖父・近藤義次さん(1889~1978)は、「宵待草」初演の折に歌った歌手です。その縁で夢二と交流が有り、作品もたくさん所有されています。
企画された、上田闊三郎さんも順正経営者ご一族の方で、夢二に関する知識、思い入れもすごいのです。
一階の「夢二カフェ」は通年営業で、広い店内の壁中が夢二作品(版画が多い)展示室です。ここだけでも大変見ごたえが有ります。
また、カフェの「メニュー」は、確かに「コーヒーはいくら」等と書いてあるのですが、何ページも有り、圧倒的面積は夢二作品が載っています。厚紙で大変きれいです。「これ欲しい!」と言いましたら、「そんな方が多いので原価を無視して1000円でお分けしています」とのお話でした。
【久御山町(くみやままち)役場と円福寺】
清水から30分くらいの移動で、京都と大阪の府境の町、久御山町役場に到着です。
役場近くの田井町の円福寺(えんぷくじ)は夢二がしばしば逗留して絵を残したお寺ですが、現在は住職不在です。
そして京都の円福寺の話は、夢二解説本にもあまり出てこない希薄情報なのです。
円福寺門前には、「竹久夢二旧跡」の立派な石柱が有ります(1991年建立)。
いろいろ調べてみましたら、円福寺、ならびに久御山町にも夢二情報の蓄積は無く、その昔(20年ほど前?)、久御山町郷土史家会(元)会長・阪部五三夫さんが調べられて、「町史」「広報」に記されたのが唯一の資料であることが判りました。
その阪部五三夫さん(85歳)も病気入院中で、会って話をするのは無理だと、ご本人からご連絡いただきました。
そこで町役場にお願いし、「町史」と「広報」を拝見したいと、訪問したものです。
伺いましたら、すでに関連部分をお調べいただき、コピーまで取っていただいて、一式頂戴いたしました。調べるのに一時間以上かかるかなと思っておりましたのに、5分の面談で用が済みました。お世話になった社会教育課の片田様、お調べくださった専門員の西脇様、大変ありがとうございました。
ちょっと残念なのは、久御山町では「夢二」に関して、観光資源として活用する計画は無いとのことでした。多くの市町村におかれては、そんな情報を最大限に利用して、「夢二コーナー」「夢二ルーム」「夢二ギャラリー」、究極的には「夢二美術館」等を設けておられますのに。
当時の住職の釜屋了貫(かまやりょうかん:1884~1953)さんは、山形県米沢市出身で夢二と同い年。神奈川県逗子で青年時代を過ごします。その頃に夢二と知り合い、交友が始まります。宇治平等院でも修業され、後に円福寺の住職になります(大正初期)。
その平等院の廃材を了貫さんから貰った夢二は、それで二つ折りの小さな屏風(83㎝×53㎝×2枚)を作り、漢詩を書いて、人を送る絵を描きました。その見事な、『送別図屏風』と名付けられた作品は、大正中後期の作とされ、どんな歴史が有ったか判りませんが、現在は金沢湯涌夢二館に大切に収蔵されています。
今回判ったのは、
① 夢二が一番長く円福寺に滞在しのは、1928(S3)年5月から6月頃。この時期は、世田谷の「少年山荘」に居を構えていた頃です(夢二満43歳)。次男不二彦(満17歳)も同行していたそうです。
② また年号不明ながら「前夫人のたまきを連れて来たこともあり」と有りました。
・・・これは確認が必要です。たまきと旅をする可能性は1916(T5)年頃までで、了貫さんが住職になるのは、その年、あるいは翌1917(T6)年2月なので。
③ 何度かにわたる夢二の円福寺滞在によって、そこに残された作品はたくさんあったらしいのですが、了貫さんの死後、散逸してしまったそうです。20年ほど前の調査では、田井町の複数の旧家には9点の夢二作品が確認されました。
④ 夢二が僧衣を着ている写真を見ることが時々ありますが、これは了貫さんから貰った(なるべく着古したものが良いと注文して)もので、米欧への外遊折にも持参しています。(これは夢二書簡集に関連情報あり)
【宇治・花やしき・山宣資料館】
≪花やしき浮舟園≫
山本宣治(やまもとせんじ)は夢二より5歳若く、神戸中学の後輩に当たります。そして、両親が興した料理旅館「宇治・花やしき」の若主人です。
宣治は、カナダで園芸(生物学)を学び、東大で動物学を専攻した生物学者で、京大や同志社で教えていました。やがて、貧しい労働者や農民の暮らしを良くするための活動に身を投じます。
後に「労働農民党(労農党)」の代議士になりますが、治安維持法に一人反対し、右翼に暗殺されます。1929(S4)年3月5日の事でした。毎年の命日にはお墓の前で「山宣墓前祭」がひらかれています。人々は親しみを込めて「やません」と呼んでいます。
夢二(満28歳)と宣治(満23歳)が出会ったのは、1912(T1)年11月です。共通の友人の紹介で、京都の『夢二作品展覧会』の会場でした。以降親密交際がはじまります。翌正月、夢二は宣治の招きで「花やしき」に一週間ほど滞在します。
1916(T5)年11月、一人京都へ引っ越した夢二は親友・堀内清宅に滞在していました。そこへ「たまき」と暮らしていた次男・不二彦が、友人のつてで送られて来ました。そこで、「二寧坂の家」(家の前には「夢二寓居跡」の看板が)を見つけて移り住みます。隣のぜんざい屋さんへ宣治が連れてきたことから見つけた様です。
≪山宣資料館≫
宇治平等院・鳳凰堂(10円玉の裏の絵)の近くの「花やしき浮舟園」は、宣治の両親が開業して、現在は宣治のお孫さんが経営する老舗高級料理旅館です。そこの土蔵が「山宣資料館」(通常非公開)です。
『宇治山宣会』(薮田秀雄会長)が整理した各種資料を展示しています。内部は3間×3間程度の二階建てで、展示は一階部分のみ。写真や説明文、山宣蔵書、デスマスクなど狭い所に整然と展示してあり感心しました。
≪山宣の墓≫
花やしき近くの丘の上。お寺の集団墓地のど真ん中に、一ヶ所だけ垣根の有る、大きな自然石の立派なお墓が「花屋敷山本家之墓」でした。裏には『山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから』の文字が刻まれています。
夢二が京都で世話になった、「堀内清」さんと、「山宣」さん、年齢は山宣が一歳上で、この二人の関係が気になります。二人とも熱心なクリスチャンですが、二人が関連が有ったという情報は有りません(見出せません)(有ったのではないかと言う推測をして、調べています)。
ここまでずっと、岸田さんの運転で回りました。JR宇治駅まで送ってもらってお別れしました。ありがとうございました。
おしまい
訪問先は以下のとおり。
【五龍閣】『夢二式美人画展』
清水寺下の、国指定有形文化財・五龍閣で。
【久御山町役場】≪夢二が逗留、円福寺≫
京都南部の久御山町に夢二の絵が残る。
【宇治・花やしき】≪山宣資料館≫
夢二と深い交際が有った、市民派の労農党代議士・山本宣治は、右翼に暗殺される。
《旅の始まり》
3月14日(金)06:18。北陸本線金沢駅。上り、普通一番列車に乗り込む。福井県敦賀で乗換え、滋賀県近江今津で乗換えして、京都駅10:58着。
今回は、大阪の岸田準二さんご夫妻が旅に同行くださり、岸田さんのお車で京都を案内いただきました。移動時間のロスがなく、感謝、感謝です。
岸田準二さんは、「民芸協団大阪支部理事」の方で、昨年末に新潟県阿賀野市の「夢二展」に関する記事を協団の機関誌に掲載されたことから、ご連絡を取るようになったものです。
【五龍閣】(ごりゅうかく)
五龍閣は清水寺参道の途中に有り、90年前に建てられ、国指定有形文化財に登録された素敵な洋館です。清水焼で財をなした松風嘉定(しょうふうかてい)氏の迎賓館で、設計は有名な建築家武田五一です。
現在の持ち主は、湯豆腐の老舗「順正」で、一階は「夢二カフェ」として営業しています。
その二階の大広間で「夢二式美人画展」が、「京都・花灯路2014」に協賛した形で開催されていました。五龍閣さんでは、こんな東山地区の企画に協賛する、無料の展覧会を時々開催されます。会場では、軸装された肉筆画や版画がたくさん並べられ、ミニ夢二美術館のようです。
順正経営者の祖父・近藤義次さん(1889~1978)は、「宵待草」初演の折に歌った歌手です。その縁で夢二と交流が有り、作品もたくさん所有されています。
企画された、上田闊三郎さんも順正経営者ご一族の方で、夢二に関する知識、思い入れもすごいのです。
一階の「夢二カフェ」は通年営業で、広い店内の壁中が夢二作品(版画が多い)展示室です。ここだけでも大変見ごたえが有ります。
また、カフェの「メニュー」は、確かに「コーヒーはいくら」等と書いてあるのですが、何ページも有り、圧倒的面積は夢二作品が載っています。厚紙で大変きれいです。「これ欲しい!」と言いましたら、「そんな方が多いので原価を無視して1000円でお分けしています」とのお話でした。
【久御山町(くみやままち)役場と円福寺】
清水から30分くらいの移動で、京都と大阪の府境の町、久御山町役場に到着です。
役場近くの田井町の円福寺(えんぷくじ)は夢二がしばしば逗留して絵を残したお寺ですが、現在は住職不在です。
そして京都の円福寺の話は、夢二解説本にもあまり出てこない希薄情報なのです。
円福寺門前には、「竹久夢二旧跡」の立派な石柱が有ります(1991年建立)。
いろいろ調べてみましたら、円福寺、ならびに久御山町にも夢二情報の蓄積は無く、その昔(20年ほど前?)、久御山町郷土史家会(元)会長・阪部五三夫さんが調べられて、「町史」「広報」に記されたのが唯一の資料であることが判りました。
その阪部五三夫さん(85歳)も病気入院中で、会って話をするのは無理だと、ご本人からご連絡いただきました。
そこで町役場にお願いし、「町史」と「広報」を拝見したいと、訪問したものです。
伺いましたら、すでに関連部分をお調べいただき、コピーまで取っていただいて、一式頂戴いたしました。調べるのに一時間以上かかるかなと思っておりましたのに、5分の面談で用が済みました。お世話になった社会教育課の片田様、お調べくださった専門員の西脇様、大変ありがとうございました。
ちょっと残念なのは、久御山町では「夢二」に関して、観光資源として活用する計画は無いとのことでした。多くの市町村におかれては、そんな情報を最大限に利用して、「夢二コーナー」「夢二ルーム」「夢二ギャラリー」、究極的には「夢二美術館」等を設けておられますのに。
当時の住職の釜屋了貫(かまやりょうかん:1884~1953)さんは、山形県米沢市出身で夢二と同い年。神奈川県逗子で青年時代を過ごします。その頃に夢二と知り合い、交友が始まります。宇治平等院でも修業され、後に円福寺の住職になります(大正初期)。
その平等院の廃材を了貫さんから貰った夢二は、それで二つ折りの小さな屏風(83㎝×53㎝×2枚)を作り、漢詩を書いて、人を送る絵を描きました。その見事な、『送別図屏風』と名付けられた作品は、大正中後期の作とされ、どんな歴史が有ったか判りませんが、現在は金沢湯涌夢二館に大切に収蔵されています。
今回判ったのは、
① 夢二が一番長く円福寺に滞在しのは、1928(S3)年5月から6月頃。この時期は、世田谷の「少年山荘」に居を構えていた頃です(夢二満43歳)。次男不二彦(満17歳)も同行していたそうです。
② また年号不明ながら「前夫人のたまきを連れて来たこともあり」と有りました。
・・・これは確認が必要です。たまきと旅をする可能性は1916(T5)年頃までで、了貫さんが住職になるのは、その年、あるいは翌1917(T6)年2月なので。
③ 何度かにわたる夢二の円福寺滞在によって、そこに残された作品はたくさんあったらしいのですが、了貫さんの死後、散逸してしまったそうです。20年ほど前の調査では、田井町の複数の旧家には9点の夢二作品が確認されました。
④ 夢二が僧衣を着ている写真を見ることが時々ありますが、これは了貫さんから貰った(なるべく着古したものが良いと注文して)もので、米欧への外遊折にも持参しています。(これは夢二書簡集に関連情報あり)
【宇治・花やしき・山宣資料館】
≪花やしき浮舟園≫
山本宣治(やまもとせんじ)は夢二より5歳若く、神戸中学の後輩に当たります。そして、両親が興した料理旅館「宇治・花やしき」の若主人です。
宣治は、カナダで園芸(生物学)を学び、東大で動物学を専攻した生物学者で、京大や同志社で教えていました。やがて、貧しい労働者や農民の暮らしを良くするための活動に身を投じます。
後に「労働農民党(労農党)」の代議士になりますが、治安維持法に一人反対し、右翼に暗殺されます。1929(S4)年3月5日の事でした。毎年の命日にはお墓の前で「山宣墓前祭」がひらかれています。人々は親しみを込めて「やません」と呼んでいます。
夢二(満28歳)と宣治(満23歳)が出会ったのは、1912(T1)年11月です。共通の友人の紹介で、京都の『夢二作品展覧会』の会場でした。以降親密交際がはじまります。翌正月、夢二は宣治の招きで「花やしき」に一週間ほど滞在します。
1916(T5)年11月、一人京都へ引っ越した夢二は親友・堀内清宅に滞在していました。そこへ「たまき」と暮らしていた次男・不二彦が、友人のつてで送られて来ました。そこで、「二寧坂の家」(家の前には「夢二寓居跡」の看板が)を見つけて移り住みます。隣のぜんざい屋さんへ宣治が連れてきたことから見つけた様です。
≪山宣資料館≫
宇治平等院・鳳凰堂(10円玉の裏の絵)の近くの「花やしき浮舟園」は、宣治の両親が開業して、現在は宣治のお孫さんが経営する老舗高級料理旅館です。そこの土蔵が「山宣資料館」(通常非公開)です。
『宇治山宣会』(薮田秀雄会長)が整理した各種資料を展示しています。内部は3間×3間程度の二階建てで、展示は一階部分のみ。写真や説明文、山宣蔵書、デスマスクなど狭い所に整然と展示してあり感心しました。
≪山宣の墓≫
花やしき近くの丘の上。お寺の集団墓地のど真ん中に、一ヶ所だけ垣根の有る、大きな自然石の立派なお墓が「花屋敷山本家之墓」でした。裏には『山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから』の文字が刻まれています。
夢二が京都で世話になった、「堀内清」さんと、「山宣」さん、年齢は山宣が一歳上で、この二人の関係が気になります。二人とも熱心なクリスチャンですが、二人が関連が有ったという情報は有りません(見出せません)(有ったのではないかと言う推測をして、調べています)。
ここまでずっと、岸田さんの運転で回りました。JR宇治駅まで送ってもらってお別れしました。ありがとうございました。
おしまい
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます