夢二を歩く

竹久夢二プロムナード

夢二の恋(4)

2018-08-11 19:36:35 | 夢二の人生
≪夢二の恋 6 佐々木 カ子ヨ=お葉≫
 佐々木 カ子ヨ(かねよ、あるいは兼代。本名・永井 カ子ヨ)、1904[M37]. 3.11~1980[S55].10.24 秋田県河辺郡和田村出身。

 母親と共に秋田から上京後、満13歳の頃には東京美術学校の着衣モデル、ヌードモデルとして画学生からも人気があり、藤島 武二(洋画家)、伊藤 晴雨(攻め絵師)らのモデルもつとめた。カ子ヨは夢二より20歳若い。

 1919[T 8]年 4月、彦乃と会えない寂しさに創作意欲が湧かない夢二を見かねた友人・久本DON(信男)が、トップモデルの佐々木 カ子ヨ(満15歳)を世話し、夢二の筆が甦る。本郷の菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲。専属モデルとなる。
 カ子ヨは妻となることを望んだが、夢二は入籍を拒む。夢二は「お葉」と呼んだ。
 夢二の心の中には療養中で会うこともできない彦乃が有り、お葉は美しいただの恋人だったのでした。

 お葉をモデルとした絵もたくさん描かれ、いずれも大評判を呼ぶことになる。菊富士ホテルを訪れた人は、絵とそっくりの夢二式美人に驚いたとか。
(ちなみに他万喜37歳はこの頃、若き音楽評論家・服部19歳と同棲していた。)

 2年後、1921[T10]年 7月、お葉の願いで、渋谷町宇田川に家を借りて住まう(現在の商業ビル・渋谷ビームの裏手に「夢二住居跡」の石碑あり)。友人の石川県出身の歌人・西出 朝風の紹介で西出家の隣だった。入籍は無い。
 そのうち、お葉は一児をもうける(誰の子か判らないと夢二)が夭折。
 1924[T13]年 8月、お葉は、西出 朝風宅の書生・小原 晴次と駆け落ちして家出。しばらくして関係を清算して戻る。夢二は駆け落ち相手が小原とは気付いていない。

 1924[T13]年12月には、夢二が設計した世田谷の自宅「少年山荘」にお葉と一緒に移り住んだ。東京府荏原郡松沢村松原790(現・東京都世田谷区松原)。小原 晴次を書生として家に入れる始末であった。
 少年山荘の住人は、夢二(満40歳)、長男・虹之助(満16歳)(九州の枝光から呼び寄せた)、次男・不二彦(満13歳)、お葉(満20歳)、書生・小原 晴次、女中・お静(彦乃の友人・高橋 しず ではない)の6人であった。

 1925[T14]年 4月 4日、体調を崩したお葉は、病後療養のため金沢市郊外の深谷(ふかたに)温泉の、能舞台がある石屋(いしや)旅館に3週間逗留。
 次男・不二彦が送って行ったのだが、 8日朝「突としてかへりくる。」(日記より)「金沢は良いところだった」と夢二に報告する。8年前、彦乃を伴って夢二と金沢、湯涌温泉に旅した折は6歳であったため良く判らなかったと思うのだが、13歳になって、母の生まれ故郷を垣間見たのであった。(深谷温泉は現在、石屋旅館一軒宿。そこは私の家から比較的近く、行って訪ねてみたが、その事実は間違いないが、記録は一切ないとの事であった。)

 1925[T14]年 5月には、新進作家・山田 順子(ゆきこ)(後で詳しく)が、お葉の留守の間に少年山荘へやってきて夢二と交渉を持つ。
 1925[T14]年 6月 1日、一年ほど前からすれ違いを感じていたお葉は、自殺未遂を図り、再び金沢でおよそ2ヵ月にわたって静養し、夢二との別れを決意する。(前回の病後療養も金沢で、自殺未遂の後も金沢だった。渋谷時代隣に住んでいた、夢二の友人の石川県出身の西出 朝風の紹介だったのかも知れないが不明。)
 山田 順子はお葉がいないことを知ると、山荘に居座る。
 お葉は、その半年後に夢二と別離する。しかし、時々山荘を訪れるのであった。後に、大輪 善治と結婚するも、夢二の新聞に発表した私小説『出帆』のお葉の行状から、離縁に至る。それから3年後、正木 不如丘の紹介で、医師・有福 精一と結婚し主婦として穏やかな生涯を送り、76歳で亡くなる。


≪夢二の恋 7 須磨 哲子≫
 須磨 哲子(すま てつこ)、1900[M33]. 4.25~1979[S54]. 2.25

 秋田県横手市の農家の出身だが、横手の置屋・月の家の養女となり、若くして主人兼芸者になる。そこで夢二と知り合う。18歳でミス横手にもなった美人。哲子は夢二との結婚を夢みたが実らず。後に結婚した農民運動家・川俣 清音(かわまた せいおん)氏は後に代議士となる。

 1919[T 8]年、満34歳の夢二は画家として絶頂期に有りました。 4月にモデルとなったお葉を、 7月には専属モデルにし同棲し始めます。夢二の絵にそっくりの美しいお葉は、夢二の絵の完成度を上げるのに大いに役立つのでした。しかし同棲をしていても入籍はしませんでした。同棲の1ヶ月後の 8月上旬、お葉の故郷・秋田市へ一緒に出掛けます。宿は秋田市・小林旅館。
 同月 8月11日、会津若松で知り合い友人となった長尾 純一が安田銀行横手支店に転勤していることを聞いていた夢二は、お葉を一人秋田に置いて横手(秋田の南東約70km)へ行くのでした。伝統の横手の花火を見たいと思ったのかも知れません。
 その夜、横手の精霊流しと花火大会に純一が連れてきたのが19歳の須磨 哲子です。哲子は大農家に生まれましたが、父が鉱山業に出資し失敗、生家の没落により、幼いころ子供がいない親戚筋の須磨家の養女となります。そして、若くして家業を継ぎ、主人兼芸者となっていました。夢二は10日間横手に滞在します。
 夢二は1年半後の1921[T10]年 2月17日にも横手を訪れ、長尾 純一に再会し、須磨 哲子とも再会する。その前、 1月の純一宛の手紙には「横手の花火の夜と哲子の横顔を思い出している」と書いています。
夢二は床を同じにし、寝物語にも結婚の話も出した様なんです(推測ですが)。哲子はその気になってしまって、恋しい気持ちを夢二に投げかけます。夢二はその気は無かったので、諦めてくれるよう純一に手紙を書いています。
 ?哲子にはすこし愛情に似たものを示しすぎたやうです。立ったあとで薄情だと云っても私に責任はないとおもふのですが、どんなものでせう。あなたを非常に信用してゐますから、どうかよろしく。 長尾雅兄 机下?消印 弘前10. 3. 1

 その後の哲子は、自らも農家の出身であり、苦しい生活の農民の運動を支援します。そこで、社会運動家・農民運動家の川俣 清音(1899[M32]. 5.15~1973[S48].12. 7)とめぐり逢い、結婚します。清音氏はやがて、社会党の代議士になります。
 清音・哲子には子供が無く、清音の甥を養子に迎えます。その子は川俣 健二郎(けんじろう)(1926[T15]. 7. 5~2016[H28]. 1.24)と言い、清音氏の後を継いでやはり代議士になります。引退されましたが、昔の社会党(右派)の実力者。
 清音・哲子の伝記には、哲子は秋田県田沢湖畔に類い希な美しい娘「辰子像」を作る時のモデルとあります。辰子像が作られた時、哲子は60代であり、種々取材しましたが確認できず。

夢二の恋(3)

2018-07-28 19:36:19 | 夢二の人生
≪夢二の恋 5 笠井 彦乃≫
 笠井 彦乃(かさい ひこの、本名・ヒコノ)、1896. 3 29~1920. 1.16
 山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町西島)生まれ。別名に山路しの。

【彦乃との出逢い】
 1914[T 3]年10月 1日、東京は八重洲口近くの呉服橋交差点に「港屋絵草紙店」が開店した。多くの若い娘さんがやって来たが、近くに住む紙問屋の娘、画家志望の女学生・笠井 彦乃(かさい ひこの)(満18歳)もその一人。彦乃は夢二に絵を見て欲しいと申し入れ、絵の手ほどきをすることから親密交際が始まります。彦乃は夢二(満30歳)より12歳年下。
彦乃の父・笠井 宗重は二人の仲を許さず、彦乃の外出時には見張りを付けるなど夢二との接触を禁じます。そこで二人は友人を介して手紙のやり取りをします。それも名前を変えて。夢二は「河または川」、彦乃は「山」と。二人の往復書簡は多数残されています。また、見張りをかいくぐって、何度も逢っています。二人が結ばれるのは、半年後の1915[T 4]年 5月22日と言われています。この時は他万喜とは別居中で、羽仁もと子の婦人之友社の編輯局絵画主任として挿絵を描き始めて、婦人之友社の近くの、府下落合村丸山370に次男・不二彦と住んでいました。

【夢二の旅 修善寺温泉「疑雨来館」(ぎうらいかん)、他】
 東京から単身京都へ活動拠点を移した夢二は、恋人・彦乃を東京に残したままです。その頃、彦乃との交際は大変親密になっていましたが、彦乃の父に反対され、簡単に逢う事もできず、手紙でやり取りして、途中の修善寺で落ち合うことにしたものです。夢二は1917[T 6]年 1月 4日、京都から沼津に向かう途中、日記に?もしも山(彦乃)の来ない此夜はどうしてすごすのであろうかと考へて見る。さう考へない方が好いので。やはり来ることを想像する。さう信じると案外平気でゐられる。?と書いている。
 実際彦乃がやって来たのは5日目の 1月 8日でした。三島で落ち合って宿へ引き返し、久しぶりの逢瀬です。一緒に風呂に浸かって××したことも日記に書いています。
1月 4日は「疑雨来館」に泊まる。 5日以降は「菊や」となっているが、これは確認できない。5日、6日、7日と修善寺で何をして過ごしたのかも情報は得られませんでした。どこかに絵を残していないものか・・・。

【夢二の足跡を訪ねる旅 修善寺温泉の「疑雨来館」を探す】
 2013年12月23日、夢二が最愛の恋人・笠井 彦乃と束の間の逢引をした修善寺温泉に、何がしか夢二の足跡が残っていないものかと、行って見た。
 ・・・結果、何も情報がない事が確認できた。残念。

 東京に住んでいた夢二は、1916(T 5)年11月、他万喜と、子供2人(次男・不二彦、三男・草一、共に他万喜が生んだ)を残して、単身京都へ活動拠点を移します。その理由は諸説ありますが、他万喜は晩年こう書いている。
?10日前に起こった、神近 市子(かみちか いちこ)(※)が三角関係のもつれで愛人の大杉 栄を刺す事件を受けて、自分も(他万喜に)刺されるのではないかと恐怖心で逃げ出した(関係が相当悪化していた)。?
※ 神近 市子 他万喜が九州枝光の八幡バプテスト講義所で出会ったクリスチャンの女性。英語勉強のため上京し、一時夢二宅の家事手伝いとして住み込んでいた。ジャーナリストを経て戦後は国会議員に(左派社会党)。(第二章参照)

 夢二は、東京にいる彦乃と逢うため、「山」と「川」の合言葉で手紙を交わし、途中の修善寺で落ち合うことにしたもの。
 夢二は、1917[T 6]年 1月 4日沼津に向かう途中、日記に
 「沼津へ着くと、エキドメ電報が来ていないか訪ねる。」来ていた。そこには「二三ニチノビマス ヤドヲシラセテ。」とあったと書いています。
 その日は修善寺温泉「疑雨来館」(ぎうらいかん)に泊まる。この名はその昔、尾崎 紅葉が「川のせせらぎが雨が降っているかのようだ」として付けたものだそうです。調べたら旅館名は「のだや」です。
 ところが「のだや」は40年ほど前に廃業し、「渡月荘金龍」(とげつそうきんりゅう)がその建物を買い取って旅館を営業していました。その「渡月荘金龍」も10年ほど前に焼失してしまいます。
 「渡月荘金龍」は場所を移して「宙SORA 渡月荘金龍」として再出発します。写真では、広大な日本庭園がご自慢のとても素敵な高級旅館です。
 事前に、「宙SORA 渡月荘金龍」に種々照会のメールを入れて見ました。若旦那・原 啓之輔さんから大変親切な回答をいただき、修善寺散策に大変役に立ちました。紙面を借りてお礼申し上げます。
 焼失した旧「のだや」の跡地は渡月荘金龍の経営になる有料駐車場になっている。その駐車場に立って見た。修善寺温泉の真ん中を流れる桂川のほとりだ。
 なんと、奥の方に素敵な感じの古い建物が残っているではありませんか。聞けば「のだや」時代から有った「離れ」だと言うのです。唯一焼け残った建物で、川から離れています。昔は賓客をもてなす別棟として使われていたのかも知れません。明治、大正期から有ったと言うことで、夢二が泊まった頃には有ったようです。夢二が泊まった部屋かどうかは確認できません。雰囲気は似たようなものだったのでしょうか。現在は倉庫として使われているとか。

 1泊目は「のだや疑雨来館」に泊まりますが、2泊目からは宿替えしています。理由は判りませんが、日記には、「菊や」へ行くと書いています。ただしその後に、「あんまりものものしいから、やめてちんまりした日あたりの好いところにきめる。」とも書いています。宿替えしたところはどこだったのか。
 「菊屋」という旅館は現存します。現在では一泊4~5万円する超高級旅館です。「ものものしい」のは、「疑雨来館」だったのか「菊屋」だったのか、はたまた違うところだったのか結局判りませんでした。「菊屋」さんや、観光協会や主要旅館に聞きまわったが、情報皆無でした。

 彦乃は、父の監視の目が厳しく、なかなか東京を出ることができず、やってきたのは夢二が修善寺へ着いて5日目の 1月 8日でした。それも日帰りです。
 三島で落ち合って、修善寺の宿に引き返し、久しぶりの逢瀬です。
 その日のうちに宿を引き払って、彦乃は東京へ、夢二は京都を通り越して岡山へ。
 夢二は、岡山駅近くの、医師で友人の大藤 昇宅を訪ね、次いで玉野市の鳴滝園に星島 義兵衛宅を訪ねます。星島へは借金の申し入れに行ったようです。急に京都に居を移すことになったため懐がさみしかった。
 その後いろいろやり取りが有ったのでしょう、彦乃は、同年 6月 8日には京都の高名な日本画家に入門すると言う理由で、京都の夢二の許へやってきて同棲します(一応下宿先は別に有ったのだが)。

【夢二、彦乃の京都時代】
 夢二は1916[T 5]年11月、単身東京を離れ、京都の友人・堀内 清の家に身を寄せる。
 翌1917[T 6]年 1月には、彦乃と修善寺で逢瀬。
  2月には、清水の二年坂(山本 宣治と汁粉を食べに行った際、隣の家を見つけた)に家を借り、友人のつてで送られてきた次男・不二彦(満5歳)と二人で暮らし始めます。京都でも創作活動に励んだのは言うまでもありません。
 さらに同年 4月には二年坂を降りきった高台寺南門鳥居脇(現・東山区桝屋町)の借家へ移り、彦乃を迎える準備をします。そして 6月 8日に彦乃を東京から呼び寄せることができたのでした。(最近、その地は一年坂といわれる)
 夢二の京都転居後は、女子美術学校の学友や長唄の師匠などの取りなしで、遠く離れた夢二と連絡を取っていた彦乃でしたが、高名な画家に入門し日本画を修業するためと称し、父親の目を欺いて京都にやってきたのです。別行動ながら女子美の友人・高橋 しず(※)と共に京都に下宿するということだったようです。
 そして、八坂の塔と京都の町並みが見渡せる風情ある家での、夢二、彦乃、不二彦、3人の、1年半にわたる短いながらも幸せな生活が始まりました。

 この頃、彦乃の創作活動は、雑誌「少女の友」や「新家庭」に口絵が掲載されるなど本格化していて、絵の勉強をしたいと父・宗重を説き伏せて京都へ行ったのも嘘ではなかったのだ。あこがれの夢二との生活。そして絵の勉強。彦乃は期待で胸がいっぱいだった。京都へ来て間もないころの彦乃の日記には、「一生のうちまたとない日。こんないい日はかつて覚えがない。自由でしかも責任のある一日一日を、よりよくより幸福に暮らしていくことが一番大切なことだと思う。」とある。

※ 高橋 しず  長崎県諫早市出身。18歳で上京、女子美に通う。ここで彦乃に出会い、友達になる。京都行きに同行し、絵の修業をする。後の別府行きにも同行し、病気の彦乃を介助する。

 北陸旅行の翌年、1918[T 7]年 8月、長崎の南蛮研究家・永見 徳太郎氏の招きで九州各地に遊ぶが、病気の彦乃を置いて、次男・不二彦との旅だった。
 同年 9月、待ちきれなくなった彦乃は九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核が重症化、動けなくなる。夢二も別府に駆けつけて看病するのでした。彦乃の九州行きは友人・高橋 しずに伴われてのことでした。
9月末、岡山を経由(友人の大藤 昇医師に診てもらう)して京都に戻り、彦乃は東山病院に入院する。しばらく後、京都に来た彦乃の父・宗重によって京都府立病院に転院。夢二の面会を拒絶する。

 絶望した夢二は京都での生活を諦め、不二彦と共に東京へ戻ります(彦乃はまだ京都の病院)。1918[T 7]年11月 8日のことだった。まずは府下中野町の友人(弟子)・恩地 孝四郎宅、他に世話になる。しばらく後の11月25日、本郷にあった文化人御用達の高級下宿「菊富士ホテル」に落ち着く。偶然か事前の情報があってのことか、12月26日に彦乃が転院してくるお茶の水順天堂病院はほど近居場所にあった。宗重が夢二の面会を拒絶したのは言うまでもない。
 この間不二彦は、九段の他万喜の兄・岸他丑の家に預けている。12月末からは、恩地 孝四郎宅に預かってもらっている。

【夢二の指輪】
 彦乃が亡くなった時、数え年夢二37歳、彦乃25歳でした。
 夢二が終生離さなかったプラチナの指輪の内側には【ゆめ35 しの25】と刻まれています。実際の歳の差は12歳で、
【ゆめ35】とは、彦乃に会えなくなった夢二の年齢。
【しの25】とは彦乃のことで、亡くなった年齢。
・・・夢二はそこで自分の齢が止まったと感じており、以降年齢を書くときは、いつでも「35」と書いたという逸話も。

夢二の恋(2)

2018-07-22 19:15:16 | 夢二の人生
≪夢二の恋 3 長谷川 カタ≫
  名曲『宵待草』誕生の地、千葉県銚子市海鹿島(あしかじま)を訪ねる。
  2015年11月 9日~10日、千葉県内の夢二の足跡を求めて旅をしました。
  ①銚子市犬吠埼近くの「海鹿島」と、②成田市田町です。

①11月9日、名曲『宵待草』が生まれた、銚子市海鹿島へ。

 1910[M43]年5月に起こった「大逆事件」で夢二の多くの友人たちが逮捕されます。首謀者とされる幸徳 秋水と密接な関係にあった夢二にも尾行が付き、煩わしさから同年8月、海鹿島へ避暑に行った訳です。
 海鹿島を選んだのは、3年前の読売新聞記者時代の『涼しき土地』取材旅行で、銚子周辺を歩き回り、愛着があったからのようです。
 離婚したが同棲している元妻・他万喜(たまき)(夢二の父親から無理矢理離婚させられたと他万喜)と、しばらく前に引き取った九州の夢二の父親に預けていた長男・虹之助(2歳5ヶ月)を伴ってのことでした。
 夢二一行は、海鹿島の海岸近くの「宮下旅館」に逗留します。旅館なのか民宿の様なものなのかは、はっきりしません。
 友人の相馬 御風には「私はここに引っ越しました。遊びにいらっしゃい。」と言う趣旨の絵手紙を送っています(糸魚川市、相馬御風記念館で絵手紙発見)。長期滞在を考えていたようですが、実際は1ヶ月弱の滞在でした。
 先生格の渡辺 英一氏はこの間二度ばかり夢二一家を訪ねて海鹿島の夏を楽しんでいる。

 その内、旅館の隣の「長谷川家」の三女「カタ」(賢子とも、1890(M23)~1967(S42)年、76歳で没)を見初め、他万喜に長谷川家に絵を描かせて欲しいと頼んでもらい描きにいった様です。描いている内に夢二(満25歳)とカタ(満19歳)は互いに恋心が芽生え、手に手を取って海鹿島の海岸を散歩する姿を住民たちに目撃されています。住民たちは「宮下旅館の隣には夢二のお目かけさんが住んでいる」と噂したそうです。

 長男・虹之助は、海鹿島から戻ってから1年後の1911[M44]年9月(3歳半)に再び九州に預けている。・・・虹之助かわいそう。

 さて、秋田出身の長谷川家(夫婦と三姉妹、年の離れた生後間もない長男)は、夢二が訪れた前年の1909[M42]年12月、北海道の松前から海鹿島へ転居しています。その理由は判りませんでした。父親は元海軍大佐。
 当時この一帯は伊勢路浦と言ったらしい。
 転居の翌年1月、長女のシマは成田山女学校(成田市、新勝寺経営の学校)の教員になり、作法・国語・地理・歴史・英語を教えていて、学校の寄宿舎に住んでいました。三女のカタ(松前生まれだが、父親の故郷・秋田高等女学校1909[M42]年 3月卒業)も姉の寄宿舎に同居。カタさんは夏休みで海鹿島の実家へ帰省していて、隣家の宮下旅館に滞在する夢二に巡り逢ったという訳です。
 夢二は「カタ」という名を知らず、ずっと「Iさん」とか「おしまさん」と言う名で夢二日記に登場します。最初に出てくるのは 8月21日。初めてモデルにして絵を描いたのは 8月24日。カタさんが、成田へ戻るため別れたのが 8月29日。約10日間の淡い純愛でした。カタが去った後、夢二は渡辺 英一に手紙を書いている。

 『松並木のかげに、月見草がほのかににおふて居りました。別れる晩、おしまさんは私の胸にこの花をさしてくれました。そして、だまってゆきました・・・』

 しかし夢二は諦めきれません。12月に成田へ会いに行き再会し、翌 1月にも海鹿島で再会し抱き合う、そして出逢って1年後の翌 8月に海鹿島へ行ったがカタには会えなかった。いくら待っても会えない。・・・自らの失恋を知り、海岸に咲く花・待宵草(マツヨイグサ)を見て、名歌『宵待草』を発想したのでした。

 『宵待草』の原詩は、1912[M45]年 6月に雑誌「少女」(時事新報社)に発表されます。一年半後の翌1913[T 2]年11月、今の3行詩の形で絵入り小唄集「どんたく」(夢二の処女出版詩集:実業之日本社発行)に掲載されます。

   「宵待草」原詩 
  遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が
  あれあれ風に吹かれて来る
  待てど暮らせど来ぬ人を
  宵待草の心もとなき
  想ふまいとは思へども
  我としもなきため涙
  今宵は月も出ぬさうな

宵待草
【作詞】竹久 夢二(一番)【補作】西条 八十(二番)
【作曲】多  忠亮
1.待てど暮らせど 来ぬ人を
  宵待草の やるせなさ
  今宵は月も 出ぬそうな
2.暮れて河原に 星一つ
  宵待草の 花の露
  更けては風も 泣くそうな

②2015年11月10日、長谷川カタが姉・シマと住んでいた成田町田町十九番地へ。

 千葉県成田山新勝寺の近くの田町に、田町商店会が建てた「『宵待草』のヒロイン長谷川カタの住居跡地」の看板が有る。住居跡はそこの路地を入って80mのところに有った。成田山女学校(成田山経営)の寄宿舎だが、現在は取り壊され、個人の住宅になっている。坂を登り切った崖の手前右手のところだ。
 成田から出したカタの手紙には、宮下旅館あて(夢二だけが東京へ帰った事を知らないため)に次のように書かれていて、海鹿島に残っていた他万喜より東京の夢二に転送されています。

 『いまだ海の人にておはしまし候や
  御淋しく渡らせらるる御事ならんと推し上候
  月の下にそぞろ歩きし真砂路 涼風に相語りし松原
  忘れがたうのみ過居候
  ことしはおもひもかけず御陰さまにてたのしき夏を送り申し候
  とくより御たより申上べきを 今日までのびのびに相成候こと
  は何卒あしからず御免下され度候
  何時頃御帰京に候や
  また折もあらば御目にかかるを得べきかなど存じをり候
                       かしこ
    九月四日     賢子
  御両方様
  母姉よりもよろしく申出候 おひまもおはし候はば御手紙いた
  だき度候。
 (封筒裏書)成田町成田十九(現在の田町) 長谷川賢子(カタコ)』

とあり、カタも夢二に思い入れが有ったようです。

 夢二が翌年1911[M44]年夏に海鹿島を訪れた時にカタに会えなかったのは、カタの父が2人の関係を知り、他の人との結婚を急がせた事によります。実際は翌1912[M45]年 4月に和歌山県新宮市出身・材木商の次男、音楽教師・須川 政太郎(すがわ まさたろう)と結婚し、しばらく東京で過ごした後に鹿児島へ赴任しています。

 政太郎、カタの2人は鹿児島・京都・彦根・半田(愛知県)などで生活し、1男3女に恵まれ、穏和な日々を送ります。カタさんは、1967[S42]年7月26日に愛知県知多郡美浜町の次女・滋子宅で亡くなりました。76歳でした。政太郎の出身地・新宮市南谷墓地(集団墓地)で夫とともに眠っておられます。

 なんと、その墓の隣(すぐ近く)には、大逆事件の新宮ルートの犠牲者・大石 誠之助の墓があります(印刷物で発見。まだ行っていない。)。・・・大逆事件で尾行がつき、煩わしくて海鹿島へ避暑に行って知り合った娘が長谷川 カタ、そのカタさんが結婚した相手が新宮出身で、墓は、大石 誠之助の墓の隣(すぐ近く)なんて、夢二繋がりの因縁を感じるのは私だけでしょうか。新宮市に照会しましたが、「偶然でしょう」との回答でした。須川 政太郎は大石 誠之助を尊敬していたとか。

おまけⅠ
カタの兄弟は、長女・シマ、次女・カオル、三女・カタ(1890[M23].10.22生まれ)で、カタから19歳離れて長男・貞吉(1909[M42]. 8. 1生まれ)がいます。
 長女・シマさんは生涯独身(晩年も東京に在って公職でした)でした。
 長男・貞吉さんの出生の秘密も伺いましたが、確認が取れませんので割愛。
 なお貞吉さんは秀才で、京大を出て、後には三井セメントの社長になりますが、就任2年後に急逝します。貞吉は短歌に親しみ、社内報によく投稿し、親しまれる社長だったようです。逝去を悼む遺稿集には、何百と言う自作短歌と共に、戦争中、社命により北朝鮮に赴任しており、その脱出記も80ページにわたり書かれている。敗戦1年後に博多に上陸し、故郷の銚子へ帰っています。
 貞吉さんは独身の姉・シマさんを大変気遣っていましたが、東京大空襲の火傷によりその年の暮れに亡くなります。遺骨は叔父が預かっており、帰国して初めて姉の死を知ったのでした。

おまけⅡ
意外な事に気が付きました。
 「関東大水害」と呼ばれる関東の大きな被害は、明治末期と大正初期に起こり、共に夢二の活躍した時期と重なります。ところが偶然でしょうか、この2件の大水害共に夢二は経験していないのです。・・・記録によれば、
 ① 1910[M43]年 8月11日の台風による集中豪雨で利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって堤防が決壊、関東地方において死者769人、行方不明78人を出した。この大洪水での東京の被災者は150万人にも上る。
 ② 1917[T 6]年 9月30日の台風により高潮災害が発生し、東京、千葉の沿岸部では所によって4m以上の潮位に達し、多くの人が溺死した。死者・行方不明者数1,301人に達した。被災家屋数24万戸に及ぶ。

 今でも語り継がれるこの2件の水害は、東京中心に関東地区に大被害をもたらしました。交通も寸断されました。ところが夢二は、人生のキーポイントになる旅先でした。夢二日記には、新聞で読んで、東京を気遣う記述が有ります。
 災害とは直接関係ないが、この後、夢二の世に残る傑作が生まれています。
 ① の後、名曲『宵待草』が生まれます。
 明治の大水害の時は、千葉県海鹿島へ1ヶ月ばかり出かけていました。その後半には「お島さん(長谷川 カタ)」に出逢い、恋をし、失恋し、やがて名曲『宵待草』を発想します。
 ② の後、名画『黒船屋』が生まれます。
 大正の大水害の時は、石川県湯涌(ゆわく)温泉にいました。湯涌に3週間、北陸全体では2ヶ月強の旅。笠井 彦乃との思い出深い時期、場所です。
 その後彦乃とは、彼女の父親によって引き離され思慕の念から代表作、黒猫を抱いた黄八丈の着物の女性の絵『黒船屋』(夢二の最高傑作)が生まれます。


≪夢二の恋 4 舞鶴 あい子≫

 1914[T 3]年 7月、夢二満29歳は、福島市へ行った折は友人となった杉山 秀次(助川 啓四郎の後輩)が経営する「福島ホテル」を定宿にしていた。

 福島ホテル別館・松葉館のお手伝いさん舞鶴 あい子(山形県酒田生まれ)と親密交際。あい子は夢二が恋しくて仕方がないらしく、夢二が福島から郡山へ宿を移した後、「あなたが福島を出たあと、長い長い日を夢うつつに暮らしております」と手紙を書いている。(まだ彦乃に出会っていない)
 あい子は、母親と小さい娘と借家に住んでいたようです。大家の息子は学生で、あい子を見るのが恥ずかしかったそうです。それほどの美人だったとか。
 夢二との間が、その後どうなったか、資料が無く判りませんでした。
 ただし、あい子のその後は、宇都宮へ行き「夢二」の名で芸者に出て、さらに前橋に行ったようです。

==以下は調査中です==
 時を経ること19年後の1933[S 8]年 9月 3日付の前橋の芸者・ぎん助から、郡山の太田屋旅館の夢二に宛てた手紙があると言います。そこには?・・・停車場でお別れした時のことを思ひだしになったとの事、私はいくたびか、いくたびか、くりかへして思ひだして居ります。松しまの皆さんがよろしく申しました。榛名へおかへりの日を心まちにお待ちして居ります。ぎん助 先生様?とあるそうです。文面全体は情感を漂わせ、立派な敬語や手紙の形態など、教養のあった芸者さんだと思う(ふくしまの夢二紀行・内海久二著)。
 ここで一つの疑問です。1933[S 8]年 9月上旬と言えば、2年4ヶ月にわたる米欧の外遊を終えて、ナポリから神戸に向けて帰国の船上なのです。
 ひょっとして大正 8年 9月 3日(あい子に会って5年後)であれば、夢二は福島での「夢二抒情画展」のため福島、郡山を行き来していました。この年の初夏、初めて?榛名湖、伊香保を訪れて気に入ったのは事実です。さて、芸者「ぎん助」は「あい子」なのでしょうか。この手紙の消印を確認したいと思いますが、現物がどこにあるか不明なので、ここで断念です。



夢二の恋(1)

2018-06-24 19:00:02 | 夢二の人生
夢二の恋                    楠 英介

 前項でご紹介した『夢二の恋、友、旅』から「夢二の恋」を次の順にダイジェストで掲載します。


 ≪夢二の恋 1 小竹 幾久栄≫
 ≪夢二の恋 2 妻・岸 他万喜≫
 ≪夢二の恋 3 長谷川 カタ≫
 ≪夢二の恋 4 舞鶴 あい子≫
 ≪夢二の恋 5 笠井 彦乃≫
 ≪夢二の恋 6 佐々木 カ子ヨ≫
 ≪夢二の恋 7 須磨 哲子≫
 ≪夢二の恋 8 山田 順子≫
 ≪夢二の恋 9 岸本 雪江≫
 ≪夢二の恋 10 小出 秀子≫


≪夢二の恋 1 小竹 幾久枝≫
 金沢出身の小竹 幾久枝(おだけ きくえ)、(5歳年上)に片思い?

 茂次郎(後の夢二)は詩人を目指して家出します。東京へ出て最初の住まいは定かではありませんが、やがて、加賀藩士族・土岐 僙氏(とき こう)宅の書生になります。土岐氏は国策銀行・第一銀行の監査役でした。
 満18歳の茂次郎は、土岐家の使いで同じ加賀藩士族の末裔で東京に出ている小竹母娘に出会います。何度か行き来するうちに、その娘・幾久枝に恋心が芽生えたようなのです。小竹家は、夫の死亡と借金がかさんだのが理由で金沢に住めなくなり、幾久枝と妹・近を伴って上京したのでした。

 車夫をしながら学校に通う茂次郎を見て、幾久枝と母の春生が愛しく思い、時には家に遊びに来るようにと声をかけたのでした。小竹家の人には互いに助け合って生きなければならないという思いがあったのです。茂次郎より5歳年上の幾久枝(教師だったという資料もあるが、未確認。生け花の免許も所有)は、時には金縁の細い眼鏡をかけ、中退ながらも師範学校へ通っていた知性的な美人であった。僕ちゃん僕ちゃんと可愛がってもらっていた。
 幾久枝と茂次郎の間には、想像するしかないが、年下の少年が年上の女を思いやるような、または憧れの視線があったと思われる。茂次郎が幾久枝に贈った「姉様へ」と題した自画像写真付き手紙には(写真の裏に本文)、

 『生後僅かに十九年、長いやうな短いやうな、岸にさくさへ
  ままならず、沈で見たり浮ても見たり、沖べに漂ふ木の葉
  舟、吹かば東へ吹かば南。
  吹けよ暴風西から東、捲けよ竜巻大空万里、芋でつなげる
  安価の命ならば天へも登って見せる。妻があるでなし子が
  あるでなし、若しも破れりゃそこが墓。
    姉様へ        僕より』

と記されている。この写真付き手紙は何枚かあるようで、各地の夢二美術館で見ることができる。幾久枝に宛てたものは「金沢湯涌夢二館」にある。小竹家の子孫の方が寄贈されたもの。
 偶然だと思いますが、4年後、同じ金沢出身の同じ加賀藩士族の娘、金沢美人で2歳年上の、岸 他万喜(きし たまき)と結婚する。夢二は他万喜と知り合う前に、金沢のことを幾久枝から聞いていたことであろう。

私家版【夢二の人生】7.【榛名山美術研究所建設(計画)と洋行】 by楠 英介

2013-10-19 19:12:48 | 夢二の人生
7.【榛名山美術研究所建設(計画)と洋行】(満45歳から49歳11ヶ月半で亡くなるまで)

お断り:この文は、『夢二を歩く』の中に「月別の夢二」として掲載いただいたものを、年別に並べ替えて、加筆修正したものです。数回に分けて掲載していただきます。    楠 英介

◆1930(S5)年5月 『榛名山美術研究所建設につき』宣言文を発表

 満45歳の夢二は、群馬県榛名山のふもとの榛名湖のほとりに、若き芸術家達の研究機関として『榛名山美術研究所』建設の構想を練っていた。今で言う「生活に根ざした美術工芸品の生産のための担い手作り」のイメージである。その宣言文の賛助人には、多くの文人、画家、政財界人が名を連ねていた。
 楠のひとり言:この頃の夢二は、「画家」を越えた「文芸評論家」的な活動も多くなったと思える。

◆1930(S5)年末 群馬県榛名湖畔にアトリエ完成し、ここで越年

 満46歳の「夢二」は、『榛名山美術研究所』建設の第一歩として、榛名湖畔にアトリエを建築したのです。
 結局は、翌1931年5月、アメリカ、ヨーロッパへの外遊に出たため、その意思を継ぐ者がなくなり、計画は中断し、夢二帰国後は病臥してしまい、『榛名山美術研究所』構想はそののまま終わってしまいます。
 このアトリエは後に取り壊されますが、現在同湖畔には、写真と関係者の証言を基に復元された「夢二アトリエ」が建てられています。

◆1931(S6)年3月25日~29日(満46歳) 『渡米告別展』開催

 新宿三越で『渡米告別展』を開催。洋行のための資金集め。

◆1931(S6)年4月10日~29日 洋行直前の展覧会多数開催

 新宿紀伊國屋書店『竹久夢二氏送別産業美術的総量展覧会』、京城三越『竹久夢二氏作品展覧会』、上野松坂屋『竹久夢生告別展覧会』各々展覧会開催。

 確認中:この頃夢二のモデルになった「笠島しづ」さん(1913年生まれ?)は、夢二が亡くなった長野県富士見町に近年までお住まいで有ることを確認しました。現在は100歳になられていると思われますが、お元気でお過ごしで有ればよろしいのですが。

◆1931(S6)年5月7日 横浜港より「秩父丸」で渡米する。

 友人でジャーナリストの翁久允(おきな きゅういん)氏同行。5月14日ホノルルに着く。2週間滞在の後、5月29日「龍田丸」でアメリカへ向かう。(夢二・満46歳)

◆1931(S6)年6月3日 アメリカ到着。カリフォルニア在住の日本人と交流

 夢二満46歳にして、念願であった初めての洋行の第一歩はカリフォルニアであった。以降、翌年9月までの1年3ヶ月、アメリカ西海岸に滞在する。ところが、絵がさっぱり売れず、あまり快適な暮らしでは無かったようだ。
 夢二のアメリカでの動静は、袖井林二郎著「夢二のアメリカ」(集英社)に詳しい。

◆1932(S7)年3月(満47歳) アメリカで相次いで個展を開催するも不振だった

 2月29日~3月12日 カリフォルニア、州立大学ロサンゼルス校。
 3月18日~3月27日 ロサンゼルス、オリンピックホテル。

◆1932(S7)年9月10日 アメリカを発ってヨーロッパへ向かう。

◆1932(S7)年10月10日 ドイツ・ハンブルクへ着く。

 ハンブルク到着後、チェコ、オーストリア、フランス、スイスの欧州諸都市を巡る。
 しかしここでも、画家として認められることはなかった。美術学校では日本画を教えている。

◆1933(S8)年前半 満48歳の夢二はベルリンに滞在。

 前年末、アメリカからヨーロッパに活動拠点を移し、この頃ベルリンに滞在していた夢二は、ナチスの台頭によるユダヤ人虐待を目の当たりにし、心を痛める。ユダヤ人救済活動の地下組織に協力すると言う証言が多数存在するが、確たる証拠は見つかっていない。
 楠のひとり言:夢二のユダヤ人救済活動への関与が事実なら、杉原千畝リトアニア領事による「命のビザ」(1940年)の7年も前に、日本人による「ユダヤ人救済活動」が有ったことになる。

◆1933(S8)年9月18日 帰国。

 8月19日にイタリアを発って、神戸に着く。2年4ヶ月の外遊であった。

◆1933(S8)年10月 台湾へ行く。

 満49歳の夢二は、2年4ヶ月の米欧への外遊の過労で、かなり重い肺結核に侵されていた。
 ある画商の企画で、病気を押して台湾訪問。台北市で『竹久夢二画伯滞欧作品展覧会』を開催。東方文化協会台湾支部発会記念に講演。

◆1933(S8)年11月26日 台湾から帰国。結核悪化し病臥する。

 夢二満49歳。台湾から帰国後、病状悪化し病臥。看病する人も、入院する費用も無いといったありさまであった。

◆1934(S9)年1月19日 信州富士見の「富士見高原療養所」に入院

 親友でもある、結核療養専門病院・信州「富士見高原療養所」の正木不如丘(まさきふじょきゅう)所長に迎えられ、特別病棟に入院、手厚い看護をうけます。

◆1934(S9)年春 次男・不二彦(満23歳)は、青島へ

 夢二が40歳にして始めて建築した自宅、「少年山荘」は夢二の入院で主不在となった。次男・不二彦は山荘の管理を兄・虹之助(満26歳)一家に託し、青島へ向かいます。
 同年9月、夢二は入院先で亡くなりますが、不二彦はこれを新聞で知って、急遽帰国します。

◆1934(S9)年8月 夢二満49歳。結核重病化。信州富士見高原療養所に在り。

 8月、日記に辞世の歌が記される。『日にけ日にけ かつこうの啼く音 ききにけり かつこうの啼く音は おほかた哀し』おそらくこれが絶筆と思われます。

◆1934(S9)年9月1日午前5時40分 永眠。満49歳11ヶ月2週間。

 結核重病化し、1月より信州富士見町「富士見高原療養所」の正木不如丘所長に迎えられ特別病棟に入院していた。8ヶ月後、病院関係者に「ありがとう」の一言を残して永眠。


◇たまきのその後

 新聞で夢二死亡を知ったたまきは、10月になって「富士見高原療養所」にやってきて、約3ヶ月の下働きをしてお礼奉公をした話は、目頭が熱くなる話である。
 たまきは、前夫との間の長女敏子(富山市在住、養女に出されて浅岡姓)に引き取られて暮していた。
 たまきは、夢二の死後11年後の1945年7月9日、敏子宅で脳溢血で亡くなります(満62歳11ヶ月)。富山市八か山の浅岡家の墓に眠っています。

◇少年山荘のその後

 夢二自宅、少年山荘が建つ世田谷区松原の土地は借地でした。賃借料が滞ったため、土地の所有者は、夢二死後一年ほどの間に建物を取り壊し、更地にしてしまいます。現在のその地は、数十軒の住宅が建つ閑静な高級住宅地になっており、夢二住居跡の案内板も有りません。ちょっと残念です。