≪夢二の恋 6 佐々木 カ子ヨ=お葉≫
佐々木 カ子ヨ(かねよ、あるいは兼代。本名・永井 カ子ヨ)、1904[M37]. 3.11~1980[S55].10.24 秋田県河辺郡和田村出身。
母親と共に秋田から上京後、満13歳の頃には東京美術学校の着衣モデル、ヌードモデルとして画学生からも人気があり、藤島 武二(洋画家)、伊藤 晴雨(攻め絵師)らのモデルもつとめた。カ子ヨは夢二より20歳若い。
1919[T 8]年 4月、彦乃と会えない寂しさに創作意欲が湧かない夢二を見かねた友人・久本DON(信男)が、トップモデルの佐々木 カ子ヨ(満15歳)を世話し、夢二の筆が甦る。本郷の菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲。専属モデルとなる。
カ子ヨは妻となることを望んだが、夢二は入籍を拒む。夢二は「お葉」と呼んだ。
夢二の心の中には療養中で会うこともできない彦乃が有り、お葉は美しいただの恋人だったのでした。
お葉をモデルとした絵もたくさん描かれ、いずれも大評判を呼ぶことになる。菊富士ホテルを訪れた人は、絵とそっくりの夢二式美人に驚いたとか。
(ちなみに他万喜37歳はこの頃、若き音楽評論家・服部19歳と同棲していた。)
2年後、1921[T10]年 7月、お葉の願いで、渋谷町宇田川に家を借りて住まう(現在の商業ビル・渋谷ビームの裏手に「夢二住居跡」の石碑あり)。友人の石川県出身の歌人・西出 朝風の紹介で西出家の隣だった。入籍は無い。
そのうち、お葉は一児をもうける(誰の子か判らないと夢二)が夭折。
1924[T13]年 8月、お葉は、西出 朝風宅の書生・小原 晴次と駆け落ちして家出。しばらくして関係を清算して戻る。夢二は駆け落ち相手が小原とは気付いていない。
1924[T13]年12月には、夢二が設計した世田谷の自宅「少年山荘」にお葉と一緒に移り住んだ。東京府荏原郡松沢村松原790(現・東京都世田谷区松原)。小原 晴次を書生として家に入れる始末であった。
少年山荘の住人は、夢二(満40歳)、長男・虹之助(満16歳)(九州の枝光から呼び寄せた)、次男・不二彦(満13歳)、お葉(満20歳)、書生・小原 晴次、女中・お静(彦乃の友人・高橋 しず ではない)の6人であった。
1925[T14]年 4月 4日、体調を崩したお葉は、病後療養のため金沢市郊外の深谷(ふかたに)温泉の、能舞台がある石屋(いしや)旅館に3週間逗留。
次男・不二彦が送って行ったのだが、 8日朝「突としてかへりくる。」(日記より)「金沢は良いところだった」と夢二に報告する。8年前、彦乃を伴って夢二と金沢、湯涌温泉に旅した折は6歳であったため良く判らなかったと思うのだが、13歳になって、母の生まれ故郷を垣間見たのであった。(深谷温泉は現在、石屋旅館一軒宿。そこは私の家から比較的近く、行って訪ねてみたが、その事実は間違いないが、記録は一切ないとの事であった。)
1925[T14]年 5月には、新進作家・山田 順子(ゆきこ)(後で詳しく)が、お葉の留守の間に少年山荘へやってきて夢二と交渉を持つ。
1925[T14]年 6月 1日、一年ほど前からすれ違いを感じていたお葉は、自殺未遂を図り、再び金沢でおよそ2ヵ月にわたって静養し、夢二との別れを決意する。(前回の病後療養も金沢で、自殺未遂の後も金沢だった。渋谷時代隣に住んでいた、夢二の友人の石川県出身の西出 朝風の紹介だったのかも知れないが不明。)
山田 順子はお葉がいないことを知ると、山荘に居座る。
お葉は、その半年後に夢二と別離する。しかし、時々山荘を訪れるのであった。後に、大輪 善治と結婚するも、夢二の新聞に発表した私小説『出帆』のお葉の行状から、離縁に至る。それから3年後、正木 不如丘の紹介で、医師・有福 精一と結婚し主婦として穏やかな生涯を送り、76歳で亡くなる。
≪夢二の恋 7 須磨 哲子≫
須磨 哲子(すま てつこ)、1900[M33]. 4.25~1979[S54]. 2.25
秋田県横手市の農家の出身だが、横手の置屋・月の家の養女となり、若くして主人兼芸者になる。そこで夢二と知り合う。18歳でミス横手にもなった美人。哲子は夢二との結婚を夢みたが実らず。後に結婚した農民運動家・川俣 清音(かわまた せいおん)氏は後に代議士となる。
1919[T 8]年、満34歳の夢二は画家として絶頂期に有りました。 4月にモデルとなったお葉を、 7月には専属モデルにし同棲し始めます。夢二の絵にそっくりの美しいお葉は、夢二の絵の完成度を上げるのに大いに役立つのでした。しかし同棲をしていても入籍はしませんでした。同棲の1ヶ月後の 8月上旬、お葉の故郷・秋田市へ一緒に出掛けます。宿は秋田市・小林旅館。
同月 8月11日、会津若松で知り合い友人となった長尾 純一が安田銀行横手支店に転勤していることを聞いていた夢二は、お葉を一人秋田に置いて横手(秋田の南東約70km)へ行くのでした。伝統の横手の花火を見たいと思ったのかも知れません。
その夜、横手の精霊流しと花火大会に純一が連れてきたのが19歳の須磨 哲子です。哲子は大農家に生まれましたが、父が鉱山業に出資し失敗、生家の没落により、幼いころ子供がいない親戚筋の須磨家の養女となります。そして、若くして家業を継ぎ、主人兼芸者となっていました。夢二は10日間横手に滞在します。
夢二は1年半後の1921[T10]年 2月17日にも横手を訪れ、長尾 純一に再会し、須磨 哲子とも再会する。その前、 1月の純一宛の手紙には「横手の花火の夜と哲子の横顔を思い出している」と書いています。
夢二は床を同じにし、寝物語にも結婚の話も出した様なんです(推測ですが)。哲子はその気になってしまって、恋しい気持ちを夢二に投げかけます。夢二はその気は無かったので、諦めてくれるよう純一に手紙を書いています。
?哲子にはすこし愛情に似たものを示しすぎたやうです。立ったあとで薄情だと云っても私に責任はないとおもふのですが、どんなものでせう。あなたを非常に信用してゐますから、どうかよろしく。 長尾雅兄 机下?消印 弘前10. 3. 1
その後の哲子は、自らも農家の出身であり、苦しい生活の農民の運動を支援します。そこで、社会運動家・農民運動家の川俣 清音(1899[M32]. 5.15~1973[S48].12. 7)とめぐり逢い、結婚します。清音氏はやがて、社会党の代議士になります。
清音・哲子には子供が無く、清音の甥を養子に迎えます。その子は川俣 健二郎(けんじろう)(1926[T15]. 7. 5~2016[H28]. 1.24)と言い、清音氏の後を継いでやはり代議士になります。引退されましたが、昔の社会党(右派)の実力者。
清音・哲子の伝記には、哲子は秋田県田沢湖畔に類い希な美しい娘「辰子像」を作る時のモデルとあります。辰子像が作られた時、哲子は60代であり、種々取材しましたが確認できず。
佐々木 カ子ヨ(かねよ、あるいは兼代。本名・永井 カ子ヨ)、1904[M37]. 3.11~1980[S55].10.24 秋田県河辺郡和田村出身。
母親と共に秋田から上京後、満13歳の頃には東京美術学校の着衣モデル、ヌードモデルとして画学生からも人気があり、藤島 武二(洋画家)、伊藤 晴雨(攻め絵師)らのモデルもつとめた。カ子ヨは夢二より20歳若い。
1919[T 8]年 4月、彦乃と会えない寂しさに創作意欲が湧かない夢二を見かねた友人・久本DON(信男)が、トップモデルの佐々木 カ子ヨ(満15歳)を世話し、夢二の筆が甦る。本郷の菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲。専属モデルとなる。
カ子ヨは妻となることを望んだが、夢二は入籍を拒む。夢二は「お葉」と呼んだ。
夢二の心の中には療養中で会うこともできない彦乃が有り、お葉は美しいただの恋人だったのでした。
お葉をモデルとした絵もたくさん描かれ、いずれも大評判を呼ぶことになる。菊富士ホテルを訪れた人は、絵とそっくりの夢二式美人に驚いたとか。
(ちなみに他万喜37歳はこの頃、若き音楽評論家・服部19歳と同棲していた。)
2年後、1921[T10]年 7月、お葉の願いで、渋谷町宇田川に家を借りて住まう(現在の商業ビル・渋谷ビームの裏手に「夢二住居跡」の石碑あり)。友人の石川県出身の歌人・西出 朝風の紹介で西出家の隣だった。入籍は無い。
そのうち、お葉は一児をもうける(誰の子か判らないと夢二)が夭折。
1924[T13]年 8月、お葉は、西出 朝風宅の書生・小原 晴次と駆け落ちして家出。しばらくして関係を清算して戻る。夢二は駆け落ち相手が小原とは気付いていない。
1924[T13]年12月には、夢二が設計した世田谷の自宅「少年山荘」にお葉と一緒に移り住んだ。東京府荏原郡松沢村松原790(現・東京都世田谷区松原)。小原 晴次を書生として家に入れる始末であった。
少年山荘の住人は、夢二(満40歳)、長男・虹之助(満16歳)(九州の枝光から呼び寄せた)、次男・不二彦(満13歳)、お葉(満20歳)、書生・小原 晴次、女中・お静(彦乃の友人・高橋 しず ではない)の6人であった。
1925[T14]年 4月 4日、体調を崩したお葉は、病後療養のため金沢市郊外の深谷(ふかたに)温泉の、能舞台がある石屋(いしや)旅館に3週間逗留。
次男・不二彦が送って行ったのだが、 8日朝「突としてかへりくる。」(日記より)「金沢は良いところだった」と夢二に報告する。8年前、彦乃を伴って夢二と金沢、湯涌温泉に旅した折は6歳であったため良く判らなかったと思うのだが、13歳になって、母の生まれ故郷を垣間見たのであった。(深谷温泉は現在、石屋旅館一軒宿。そこは私の家から比較的近く、行って訪ねてみたが、その事実は間違いないが、記録は一切ないとの事であった。)
1925[T14]年 5月には、新進作家・山田 順子(ゆきこ)(後で詳しく)が、お葉の留守の間に少年山荘へやってきて夢二と交渉を持つ。
1925[T14]年 6月 1日、一年ほど前からすれ違いを感じていたお葉は、自殺未遂を図り、再び金沢でおよそ2ヵ月にわたって静養し、夢二との別れを決意する。(前回の病後療養も金沢で、自殺未遂の後も金沢だった。渋谷時代隣に住んでいた、夢二の友人の石川県出身の西出 朝風の紹介だったのかも知れないが不明。)
山田 順子はお葉がいないことを知ると、山荘に居座る。
お葉は、その半年後に夢二と別離する。しかし、時々山荘を訪れるのであった。後に、大輪 善治と結婚するも、夢二の新聞に発表した私小説『出帆』のお葉の行状から、離縁に至る。それから3年後、正木 不如丘の紹介で、医師・有福 精一と結婚し主婦として穏やかな生涯を送り、76歳で亡くなる。
≪夢二の恋 7 須磨 哲子≫
須磨 哲子(すま てつこ)、1900[M33]. 4.25~1979[S54]. 2.25
秋田県横手市の農家の出身だが、横手の置屋・月の家の養女となり、若くして主人兼芸者になる。そこで夢二と知り合う。18歳でミス横手にもなった美人。哲子は夢二との結婚を夢みたが実らず。後に結婚した農民運動家・川俣 清音(かわまた せいおん)氏は後に代議士となる。
1919[T 8]年、満34歳の夢二は画家として絶頂期に有りました。 4月にモデルとなったお葉を、 7月には専属モデルにし同棲し始めます。夢二の絵にそっくりの美しいお葉は、夢二の絵の完成度を上げるのに大いに役立つのでした。しかし同棲をしていても入籍はしませんでした。同棲の1ヶ月後の 8月上旬、お葉の故郷・秋田市へ一緒に出掛けます。宿は秋田市・小林旅館。
同月 8月11日、会津若松で知り合い友人となった長尾 純一が安田銀行横手支店に転勤していることを聞いていた夢二は、お葉を一人秋田に置いて横手(秋田の南東約70km)へ行くのでした。伝統の横手の花火を見たいと思ったのかも知れません。
その夜、横手の精霊流しと花火大会に純一が連れてきたのが19歳の須磨 哲子です。哲子は大農家に生まれましたが、父が鉱山業に出資し失敗、生家の没落により、幼いころ子供がいない親戚筋の須磨家の養女となります。そして、若くして家業を継ぎ、主人兼芸者となっていました。夢二は10日間横手に滞在します。
夢二は1年半後の1921[T10]年 2月17日にも横手を訪れ、長尾 純一に再会し、須磨 哲子とも再会する。その前、 1月の純一宛の手紙には「横手の花火の夜と哲子の横顔を思い出している」と書いています。
夢二は床を同じにし、寝物語にも結婚の話も出した様なんです(推測ですが)。哲子はその気になってしまって、恋しい気持ちを夢二に投げかけます。夢二はその気は無かったので、諦めてくれるよう純一に手紙を書いています。
?哲子にはすこし愛情に似たものを示しすぎたやうです。立ったあとで薄情だと云っても私に責任はないとおもふのですが、どんなものでせう。あなたを非常に信用してゐますから、どうかよろしく。 長尾雅兄 机下?消印 弘前10. 3. 1
その後の哲子は、自らも農家の出身であり、苦しい生活の農民の運動を支援します。そこで、社会運動家・農民運動家の川俣 清音(1899[M32]. 5.15~1973[S48].12. 7)とめぐり逢い、結婚します。清音氏はやがて、社会党の代議士になります。
清音・哲子には子供が無く、清音の甥を養子に迎えます。その子は川俣 健二郎(けんじろう)(1926[T15]. 7. 5~2016[H28]. 1.24)と言い、清音氏の後を継いでやはり代議士になります。引退されましたが、昔の社会党(右派)の実力者。
清音・哲子の伝記には、哲子は秋田県田沢湖畔に類い希な美しい娘「辰子像」を作る時のモデルとあります。辰子像が作られた時、哲子は60代であり、種々取材しましたが確認できず。
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