○重吉城祉(尾藤源内重吉城主) 一宮市丹陽町重吉 2006.8.2
源内重吉は武田信玄から追われ、黒田城の山内盛豊(一豊の父)を頼り、その口添えにより黒田城南方の青木川の湿地帯に「重吉城」を築くが、その後織田信長により落城した。
その後、約25年後の天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで徳川、織田方の小牧山の付城として、清洲と小牧を結ぶ連絡路の役割を担う。
天成12年9月7日家康は「重吉」に陣を布き秀吉と対峙した。
子孫は尾張徳川家の重臣「犬山城祉主成瀬家」に仕えた。「城祉」の記述碑の横には成瀬家から送られた石に「尾藤源内重吉城址」と記された碑がある
源内重吉は武田信玄から追われ、黒田城の山内盛豊(一豊の父)を頼り、その口添えにより黒田城南方の青木川の湿地帯に「重吉城」を築くが、その後織田信長により落城した。
その後、約25年後の天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで徳川、織田方の小牧山の付城として、清洲と小牧を結ぶ連絡路の役割を担う。
天成12年9月7日家康は「重吉」に陣を布き秀吉と対峙した。
子孫は尾張徳川家の重臣「犬山城祉主成瀬家」に仕えた。「城祉」の記述碑の横には成瀬家から送られた石に「尾藤源内重吉城址」と記された碑がある