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風雲「城撮り物語」

長年愛用のデジカメを武器に「城址・城跡」を切り撮りその戦果をブログで紹介。

「重吉城」城撮り戦果

2006年08月02日 | 城撮り物語
○重吉城祉(尾藤源内重吉城主) 一宮市丹陽町重吉   2006.8.2

源内重吉は武田信玄から追われ、黒田城の山内盛豊(一豊の父)を頼り、その口添えにより黒田城南方の青木川の湿地帯に「重吉城」を築くが、その後織田信長により落城した。
その後、約25年後の天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで徳川、織田方の小牧山の付城として、清洲と小牧を結ぶ連絡路の役割を担う。
天成12年9月7日家康は「重吉」に陣を布き秀吉と対峙した。


子孫は尾張徳川家の重臣「犬山城祉主成瀬家」に仕えた。「城祉」の記述碑の横には成瀬家から送られた石に「尾藤源内重吉城址」と記された碑がある

「黒田城」城撮り戦果

2006年07月21日 | 城撮り物語
○黒田城祉(山内但馬守盛豊) 一宮市木曽川町黒田字古城   2006.7.20

山内一豊が12歳の時、父「盛豊」の居城であった尾張国黒田城が闇討ちにあい、盛豊は手傷を負い、兄君十郎が討死。
辰之助(一豊)と母や弟妹は難を逃れ、尾張伊勢守家岩倉城へ逃亡する(記述板)


黒田城主であり浮野合戦で信長に敗れた「盛豊公」と上記で戦死した兄「十郎」の親子が仲良く、近くの「法連寺」に祀られている。


「長束正家」邸跡撮り戦果

2006年07月20日 | 城撮り物語
○長束邸(長束正家)  稲沢市長束(なずか)町   2006.7.7

織田氏の家臣丹羽長秀に仕えたが、高い算術能力を買われ、豊臣氏の蔵入地の管理「太閤検地」の実施にあたり、五奉行に名を連ねるが、秀吉没後「石田三成」に味方し、毛利輝元を擁立し挙兵する。
関ケ原の戦いで毛利秀元の不戦や吉川広家の妨害から戦わずして敗走。
追っての池田輝政により水口城で自刃した。
京都三条河原に石田三成とともに、さらし首になった。

「下津城」城撮り戦果

2006年07月18日 | 城撮り物語
○下津城祉(織田伊勢守敏広)  稲沢市下津蚊池町  2006.7.7

下津城(おりづ城)は尾張守護代の織田伊勢守敏広の居城で織田家の本流はこの敏広と言われる。
1477年に織田敏定(清洲織田家)と下津の戦いで敗れ廃城となった。
織田敏広はその後1479年頃岩倉城を築き、5代(137年間)織田信長に敗北するまで続いた。

「岩倉城」城撮り戦果

2006年07月03日 | 城撮り物語
○岩倉城祉(織田伊勢守敏広)  岩倉市下本町字城跡    2006.7.4

名鉄犬山線岩倉駅東南約1キロにあり、五条川と青木川(浮野川)に囲まれた湿地に自然の堀となる堅牢な城であった。岩倉城主は信長の弟「織田信行」と同盟を結んでいたため、信長に役1年に渡り3回攻め立てられ永禄2年(1559)落城した。
当時は清洲城と並んで重要な城であり、山内一豊(やまのうちかずとよ)の父「山内盛豊」が家臣であった。(説明板記述)
一豊はNHK大河ドラマ「功名が辻」のとおり父の宿敵にあたる信長の家臣「木下藤吉郎」に奉公し功名を挙げる。

「一色城」城撮り戦果

2006年06月26日 | 城撮り物語
○一色城祉   名古屋市名東区一社3-11      2006.6.26

柴田源六源勝重が居城したと伝わるが詳細は不明である、周囲で一番高いところに「神蔵寺」(墓碑がある)と「貴船神社」があり、その東側の区画整理時に掘り出された遺品を先代住職が寺に埋葬し位牌も作ったとの事、現在「神蔵寺」東側下のマンションの位置に城祉があったとの話を住職から伺った。

前ページ「下社城」の勝重の祖夫とも曾祖父とも伝えられる。

「下社城」城撮り戦果

2006年06月26日 | 城撮り物語
○下社城址(柴田勝家生誕の地) 名古屋市名東区陸前町    2006.6.26

下社城址碑はこの辺りで一段高い位置にある「明得寺」山門石段横にあり、城主は「柴田勝重」である。
織田信長の重臣「柴田勝家」幼名権六がこの地で生誕した。
明得寺を取り巻く周囲はほとんどが「柴田」姓で当時から何等かの関係があると思われる。