○小田井城址 清洲市小田井2丁目18-6 2006.6.17
名鉄電車「下小田井」駅(駅に案内板あり)近く公園内にある、城主は「左近太郎家忠」とある、左近太郎家忠は永享年間には「長久手城主」であった。
【小田井人足】今の庄内川も名古屋市側の堤が少し高いとのことであるが、当時水位が高く決壊の心配が出た時、小田井の農民に外側(小田井側)の堤を切るよう命じた、農民は自分の田畑が水に浸かるため、命令に従うふりをして時間稼ぎをするこのように、見られている時は仕事をし、影でサボる事を「小田井人足」と言う。
名鉄電車「下小田井」駅(駅に案内板あり)近く公園内にある、城主は「左近太郎家忠」とある、左近太郎家忠は永享年間には「長久手城主」であった。
【小田井人足】今の庄内川も名古屋市側の堤が少し高いとのことであるが、当時水位が高く決壊の心配が出た時、小田井の農民に外側(小田井側)の堤を切るよう命じた、農民は自分の田畑が水に浸かるため、命令に従うふりをして時間稼ぎをするこのように、見られている時は仕事をし、影でサボる事を「小田井人足」と言う。
○沖城址 愛知県北名古屋市沖 2006.6.17
城址は沖村「松林寺」の境内横に「林主計道勝」と記した碑がある。
城主林主計道勝はときの織田の怒りを受け離散との話を地元の老人から聞くも詳しくは不明である。
城址は沖村「松林寺」の境内横に「林主計道勝」と記した碑がある。
城主林主計道勝はときの織田の怒りを受け離散との話を地元の老人から聞くも詳しくは不明である。
○比良城址(佐々成政城址) 名古屋市西区比良3丁目 2006.6.17
佐々成政は織田信長の家臣で越前朝倉攻め、長篠の戦い、越前一向一揆の鎮圧等の功績で越前小丸城城主となった。城址は「光通寺境内の奥」に石碑がある
佐々成政は織田信長の家臣で越前朝倉攻め、長篠の戦い、越前一向一揆の鎮圧等の功績で越前小丸城城主となった。城址は「光通寺境内の奥」に石碑がある
○平田城址 名古屋市西区城町(城の切) 2006.6.17
信長時代の城主は平田和泉の守(平田源左上衛門)と言い、城町交差点を名古屋方面からは、左折し50メートルを右折少し先に案内表示あり、東側に岩倉街道が南北あり新川に面した名古屋城を守る要所であったと想像できる。
以前は名鉄電車に「平田橋」と言う駅があった。
信長時代の城主は平田和泉の守(平田源左上衛門)と言い、城町交差点を名古屋方面からは、左折し50メートルを右折少し先に案内表示あり、東側に岩倉街道が南北あり新川に面した名古屋城を守る要所であったと想像できる。
以前は名鉄電車に「平田橋」と言う駅があった。
○岡城址 岡崎市岡町字西側 2006.6.11
「岡城」の築城主は「池野大学」で平城ではあるが、乙川と山綱川の合流地点にあり、現在周囲は田畑が広がるが、当時は沼地だったと推測できる、一段高い台地は敵から攻めにくい城であったと思われる。
城址は細い坂道の奥、竹やぶの中に小さい碑がある。
「岡城」の築城主は「池野大学」で平城ではあるが、乙川と山綱川の合流地点にあり、現在周囲は田畑が広がるが、当時は沼地だったと推測できる、一段高い台地は敵から攻めにくい城であったと思われる。
城址は細い坂道の奥、竹やぶの中に小さい碑がある。
○岩津城址 岡崎市岩津町字東山 2006.6.11
高速道路に架かる岩津橋手前左側の雑木林の丘にあるらしい、「松平信光」が城主であったが、登り道は私有地の看板がある、失礼して雑草が生い茂る坂を30m程度の上った頂上に、小さい石仏が数体あるのみで、城に関する石碑らしきものは無い・・・
(投稿後「岩津城」城址碑があるとのこと、再度訪問したいと思っています)
高速道路に架かる岩津橋手前左側の雑木林の丘にあるらしい、「松平信光」が城主であったが、登り道は私有地の看板がある、失礼して雑草が生い茂る坂を30m程度の上った頂上に、小さい石仏が数体あるのみで、城に関する石碑らしきものは無い・・・
(投稿後「岩津城」城址碑があるとのこと、再度訪問したいと思っています)
「九之坪城」の由来を紹介しよう。
先祖は梁田(ヤナダ)出羽守正綱と名乗り、織田信長に仕えていた、桶狭間の合戦に際しては、梁田氏の領地でもあった守山大森村「米田城(梁田城)」近くで休憩していた今川義元の動静を探り、勝利を確信し桶狭間で酒盛りを始た情報を直ちに知らせ奇襲を進言した。
今川勢4万5千に対し織田方2千の軍勢であったが、この奇襲により勝利に大きく貢献した。
当時は敵将の首(首級)により報償が決まったが、情報提供で最大の評価を受ける事は当時として珍しい。
梁田政綱は沓掛(愛知県豊明市)に三千貫文の地を与えられ「沓掛城」城主として当地も治めた(当城は「番城」とし梁田の配下の者が実効的に収めた)その後も木下藤吉郎等とともに「姉川の合戦・長島城攻め」等多く転戦した。
梁田政綱の墓は豊明市聖応寺にある。
先祖は梁田(ヤナダ)出羽守正綱と名乗り、織田信長に仕えていた、桶狭間の合戦に際しては、梁田氏の領地でもあった守山大森村「米田城(梁田城)」近くで休憩していた今川義元の動静を探り、勝利を確信し桶狭間で酒盛りを始た情報を直ちに知らせ奇襲を進言した。
今川勢4万5千に対し織田方2千の軍勢であったが、この奇襲により勝利に大きく貢献した。
当時は敵将の首(首級)により報償が決まったが、情報提供で最大の評価を受ける事は当時として珍しい。
梁田政綱は沓掛(愛知県豊明市)に三千貫文の地を与えられ「沓掛城」城主として当地も治めた(当城は「番城」とし梁田の配下の者が実効的に収めた)その後も木下藤吉郎等とともに「姉川の合戦・長島城攻め」等多く転戦した。
梁田政綱の墓は豊明市聖応寺にある。
宮前城城主「尾張之守美津濃嘉二朗登志忠」は長年勤め上げたサラリーマンの退職を機に、居城としている「宮前城」を根城に長年愛用した「デジカメ」を武器として尾張の各城は元より、三河・美濃に至る「城址・城跡・砦跡」を切り撮り、我が領地とする野望を企てた。
この壮絶な戦いの戦果を「ブログ」閲覧者に報告するとともに、敵地の情報を求める事とした。
この壮絶な戦いの戦果を「ブログ」閲覧者に報告するとともに、敵地の情報を求める事とした。