けせらせら、な日々

ふぃくしょん、ときどき真実

田舞の木

2001-12-27 16:20:28 | Weblog


店の中に大きなタブの木があった。
クスノキ科の常緑高木であるその木は
本当ならばまだまだ大きくなるのだろうが
2階建てで広いとはいえ、喫茶店の中で育っているので
その成長が阻まれているらしい。

私の席の前には、葉をつけた太い幹がにょっきりとあって
視界を遮っている。

なんとなくぶらりと立ち寄ったこの店の珈琲が
思ったよりも美味しかったものだから
文庫本を手にしたまま、私はもう30分以上も座っていた。

・・だから聞いて欲しいの。
泣きそうな女の声が近くの席から聞こえてきた。

・・ずっと言いたかったんだから。
女の声がうわずる。声のボリュームが上がる。
否応なくその声は私の耳に入ってくる。

彼女の姿は見えない。木の陰に隠れて、その顔も見えない。

・・優しくされたの初めてだったんだから。
・・アナタと一緒に居たい。ずっと居たい。好き、だから。

途切れながら女の声は続く。

・・いいって言ってよ。分かった、って言って。
・・・・ああ、分かったよ。

その声に私は凍り付く。

今朝、私に向かって「行ってくる」と言ったその声が
少しハスキーなその声が、確かに聞こえた。

・・・・ああ、分かったよ。確かにそう言った。
私に、ではなく姿の見えない女に向かって。

・・うれしい。
弾けるような女の声。
その女の顔を笑いながら見ているだろう、私の男。

気配を殺して私は席を立つ。
木の陰を伝って、そっと店を出る。

そして私は男を憎み
タブの木を憎んだ。

遠い日

2001-12-26 16:18:27 | Weblog
テーブルの上には、何もなかった。
何もない空間、がそこに在るだけだった。

灰皿もない、珈琲カップもない、何もないテーブルの上には
ただ「別れ」という事実だけが、乗っていた。

藍色のカバーが掛けられたままのベッドの上には
一枚の便箋が置いてあった。

ベッドに腰をおろして、私はその便箋を読む。
一文字も書かれていない白紙の便箋は
どんな言葉よりも強く、私に男の想いを伝えた。

平坦な道ではなかった。
何度も何度も、逃れたいと消し去りたいと
思いながら暮らしてきた。

断ち切れなかったのは、不毛な日々で傷ついた心が
男が居なくなる
という現実でさらに深く傷つくのを畏れたからだ。

滲んだ血よりも、あふれ出す血の方が何倍もつらい。

だから今日まで、ただ息を殺し
愛という都合のいい、しかし厄介な言葉で
自分をなだめてきたのだ。

誰も居ない部屋の中に
自分だけが居る、という淋しさ。

失ってしまうということは、何もない空間を
自分の目で確かめることなのだと
あの日、私は初めて知った。

もう一度、メリークリスマス

2001-12-25 16:17:13 | Weblog


地下鉄の駅で、改札口に若い男性。
自動改札を抜けて、階段を下りようとする若い女性。
恋人同士らしい二人の視線に挟まれながら、改札を抜ける私。

バイバイ、と彼が手を振る。
声を出さずに「ばいばい」と彼女が振り返す。

階段を下りる手前で彼女は後ろを振り向いて
また「ばいばい」と手を振る。

名残惜しそうに、何度も何度も彼女は手を振る。
クリスマスの夜なのに・・私はなんとなくそう思う。
まだ7時前なのに・・もう「ばいばい」なのかしら。
一緒にワインを飲んだり食事をしたりしないのかしら。

階段を下りかけているのに、身体をよじってまだ彼女は手を振っている。
危ないよ・・私は心の中で呼びかける。

ようやく前を向いた彼女は階段を下りる。
心なしか淋しげな、頼りない足取りで。

ホームで並んで電車を待つ間、私はそうっと彼女の顔を窺った。
目に涙がいっぱいたまっている。
痛みをこらえるように、眉に力を入れて
涙をこぼすまいと頑張っている彼女は、なんだか健気で可愛かった。

泣かないで。どうして一緒に居られないのか知らないけれど
あんなに別れを惜しんでいた二人のことは
ちゃんと神様が見ていらっしゃる。
来年のクリスマスは、きっと二人で幸せな夜を迎えられるわ。

私は心の中の掌で、そっと彼女の肩を撫でた。
そして励ますようにトントンと彼女の背中を叩いてみた。

私がそんなことを考えているなどと、知るはずもない彼女は
入ってきた電車に乗り込んで、ぼんやりと吊り輪につかまった。

優しい童話を読んだ後のような気持ちで
私も少し離れたところで吊り輪につかまった。

車内の中吊り広告には Merry Xmas の文字が踊っていた。