きものの華・友禅染⑥ 小袖雛形本(3)
雛形本が出版される前、雛形として有名なものに、いまでいう宮内庁御用達の高級呉服商・雁金屋の注文帳がありますが、コレは全て肉筆。しかも当時の超一流の顧客のための一品もので、淀君、高台院、家康、京極高次とその夫人、さらに秀忠とその夫人・お江与の方。淀君、京極高次夫人、秀忠夫人・お江与の方は、織田信長の妹・お市の方の娘、3姉妹。さらにすごいのが秀忠の娘で後水尾天皇の中宮、明正天皇の母となった徳川和子(まさこ)、のちの東福門院和子の嫁入りから、亡くなるまで多くの衣装を手がけ、その衣装代総額は50億円にも達するともいわれます。
後水尾天皇は文芸芸術の振興に尽くしたことで知られている天皇ですが、妻・東福門院和子も夫と共にかなりの芸術センスの持ち主で、茶道も一流であったといわれる当代一の文化人でした。特に雁金屋の大スポンサーとして衣装のデザインや意匠、加工方法などにも東福門院和子のアイデアや意向、指示が衣装に反映されており、雁金屋は東福門院和子の注文を実現するために意匠や染織技術の工夫を重ね、結果きもの文化の発展に大きく貢献しました。東福門院和子のデザインは「寛文小袖」といわれる模様形式を生みだし、1つの時代を確立しました。何しろその注文の数が中途半端ではなく、宮中に輿入れした3年後の元和9年(1623年)には小袖45点、染物14反、あわせて銀7貫866匆(もんめ)、現在の価格で800万円くらいの衣装代を雁金屋に支払っています。小袖を多く発注し、宮廷ファッションの十二単を一掃し、小袖に替えてしまったのは東福門院和子といわれるほど、その影響力は大きいものでした。亡くなった延宝6年(1678年)、すでに72歳の老女でしたが、なんと半年間に346点を注文し、いまの金額で1億6000万円相当というから、衣装への入れ込みようは並々ならぬものがあり、1部では「衣装狂い」とも噂されました。しかしこれは自分が着用するためだけではなく、贈り物など政治的な意図を持ったものもかなりあったと思われ、「衣装狂い」といわれるのは可哀想な気がします。いずれにしても東福門院和子がいたからこそ寛文小袖が生まれたといえます。その雁金屋に光琳、乾山兄弟は生まれ、光琳は東福門院和子の衣装もかなり手がけたものと思われます。しかし、大スポンサー・東福門院が亡くなったことにより、大名貸しなどにも手を広げ、回収倒れから家業は急速に衰退してゆきます。