向坂逸郎  学習のすすめ

学ぶものにとって「すべては疑いうる」という精神が本質的な重要さを持つ。

第四インタナショナルHPから転載

2006年06月25日 15時40分23秒 | Weblog
Links

ここでは英語のサイトも紹介しています。お使いのブラウザがIE5.01以上なら、Infoseekのツールバーのインストールをおすすめします。そうすれば開いた英語ページのアドレスをコピー&ペーストすることなく、ツールバーにある【ページ翻訳】をクリックするだけで日本語でそのページを読むことができます。機械翻訳なので、「間抜けを通り越した」シュールな日本文ではありますが、文脈を把握すれば大意をつかむことはできるでしょう…。

 

【マルクス主義および社会科学関連】

Marxist Internet Archive/ 【英語】~舌を巻くほど立派なマルクス主義の百科事典的サイト。文献も豊富です。

Encyclopedia of Trotskyism On-Line/ 【英語】~上記のサイト内にありますが、たどり着くのが大変なので直リンクを張っておきます。FIの創立から現在に至るトロツキズム運動の概要を知るには最適でしょう。特にアメリカ合衆国内の「トロツキスト」諸派の党派地図は、資料としても価値があります。

Leftist Parties of the World/ 【英語】~ホームページをもつ世界中の左翼党派をほぼ網羅しているサイトです。

The Underground Theatre~ここから日本のほとんどのマルクス主義関連サイトにいけると言っても過言ではないかも…。

マルクス主義文献デジタルテキスト~マルクス主義の「基本中の基本の古典」の文献にあたるにはとても便利。文庫本がどっかにいっちゃって捜すのも面倒だという人には、ダウンロードして保存することをおすすめします。

Marx&Engels Werke【Deutsch】:マルクス・エンゲルス著作集【ドイツ語版】マルクス&エンゲルス全集にほぼ近い内容が年代順に並べられており、わかりやすい構成。マルクス&エンゲルスをドイツ語の原文で読みたいという方には特におすすめ。そしてこのページからトップページに戻れば、ドイツが“神聖ローマ帝国”だった頃の「ドイツ農民戦争」におけるトーマス・ミュンツァーからR.ルクセンブルク、K.リープクネヒト、L.ライスナーに至るまでのドイツ革命運動を一望することもできます。

サイバーアクション~さまざまな社会運動のためのインターネット活用術としてとても有用なサイト。このなかのリンク集はとくに充実しています。

トロツキー研究所~統一書記局派系の臭いが若干、鼻につきますがトロツキー関連に特化したサイトとしてコンテンツは豊富です。またリンク集も充実しています。

トロツキー・ライブラリー~上記のトロツキー研究所の派生サイトです。トロツキー文献の翻訳に精力的に取り組んでいます。

世界資本主義分析フォーラム~かの「世界資本主義論」の岩田弘氏のサイト。政治的センスに関しては??ではありますが、それとして該博な知識に裏打ちされた内容で、立場さえ踏まえれば、それなりの「お勉強」にはなるようです。

労働運動について考える『労働通信』のページ~労働運動関連として、とてもバランスのとれた内容です。サイト上の労働相談もあります。

日本左翼党派・団体公式サイト一覧~名前のとおりです。ほかにも面白いサイトへのリンクが満載です。

【資料として役に立つサイト】

田中明彦研究室~資料としての中身の膨大さには目を見張るものがあります。このサイトを「お気に入り」に入れておけば、わざわざ図書館に行かなくてもすんでしまいます。

日本経済指標と米国経済指標~日米の主要な経済統計にあたるには便利です。サイトの管理もしっかりしています。

金融用語辞典~わからない金融用語が出てきたときに調べるには、とてもお手頃で実用的なサイトです。

経済コラムマガジン~時局的な経済問題を知るためには、けっこう面白い土建屋ケインジアンのサイト。メールマガジンもあります。

田中 宇の国際ニュース解説~なかなかユニークで面白い情勢分析です。週刊のメールマガジンもあります。

週刊メールジャーナル~“デスクで握りつぶされる”新聞社の記事をまとめたものです。一部の新聞記者のジャーナリストとしての良心の一端なのかもしれません。メールマガジン発行に重きを置いているようなので、興味のある方はどうぞ…。

【リベラルアーツとしてのサイト】

ARIADNE~「壮大な知の体系」へと我々を導く人文関係のまったくもって見事なリソース集です…とにかく充実しています。

目で見る世界史~単なるデータとしてだけではなく、“読み物”としても面白く、有意義に時間を「浪費」できるサイトです。

青空文庫~現在は絶版になっているものも含めて、今までに活字化された作品が分野を問わず多数デジタル化されています。とにかく素晴らしく有意義で且つありがたいサイトです。

国立科学博物館~ご存知、上野の森にある科学博物館のサイト。なかでも「バーチャルミュージアム」は夜、寝つけない時など特におすすめ!! この前などこれを見ていたら朝日が昇っていました…。メールマガジンもあります。

アート at ドリアン~西洋美術史とギリシャ神話以降のヨーロッパ文芸を一望するには最適なサイトです。

 

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学ぶということ  1~3

2006年06月25日 14時09分12秒 | Weblog
1 人生は学ぶということである

 人生は学ぶということである。学ぶということは、学校の授業や本を読むことだけでなされるのではない。人生のあらゆる経験を、われわれの成長の糧にすることである。意識するとしないとにかかわらず、人生の道の一歩一歩は、われわれの成長の糧になることができる。しかし、この成長の糧になることを意識すると否とは、大変な相違をもたらす。
 われわれは、何事かをしている。そのなにごとかは、すべて一つ一つわれわれの生命の運動である。しかし、この運動は、同じことのくりかえしではない、つねに発展でありうるし、成長に役立てることができる。放っておいても、多少ともその人の発展成長になっている。だから、人生の苦難を経てきた人を、そうでない人に比べるとどこかにちがったところがある。なんとなしに圧力のようなものを感じられる。留置場にながくいると、友達になる犯罪人のなかでも、大泥棒や罪を重ねた老スリや老万引き女などは、留置場の入り口をはいってきたとたんに、なんとなしにわかる。留置場における態度にも、どことなく「こそどろ」や「ちんぴら」とちがった落着きがある。何かいわゆる「人間ができている」ところがうかがえる。「ちんぴら」や「さぎ」などは概して態度がきわめて卑屈で、いやな感じがする。おかしなものである。
 多分何かの事情で苦労の仕方のよかった人と悪かった人とがあるのであろう。悪く苦労した人でも、経験の積み重ねで力が出ている。善く苦労した人、つまり経験した苦労が、その人の人間としての成長にのみなって生きている人には、秋霜のごとききびしさがあっても、多面にまことに春風のように好ましい人柄ができ上がっている。
 人間の動物とのちがいは、生きている間の経験をどのように自分の成長のために生かすか、という選択力があるかないかであるようだ。「学ぶ」ということは、この選択する力のことである。
 動物も確かに学んでいる。犬の子の生活を見ていると、まことにたのしい。可愛い子犬は、食っているか、ねむっているか、おたがいがふざけあっている。あのふざけているのを見るがよい。耳をかじったり、首にかみついたり、前足の関節を噛んだりする。のどぶえを噛んで押さえてみる。犬が大人になって真剣に喧嘩するのを見るとわかるが、このふざけて噛んでいるのは、「実戦」ではとくに相手の急所である。子犬が親とふざける場合でも同じことである。彼らがふざけているのは、たたかいの訓練なのである。
 面白いのは、子犬たちは、人間の子供によく似て、初めふざけているが、しばらくたつと必ず本気の喧嘩になる。軽く血がが出る程度の喧嘩になる。人間の親は、この子供の喧嘩をすぐしかってとめるが、犬の親は、子供の喧嘩を中途でとめたりはしない。人間の子も犬の子も、必ず喧嘩をきわめて自然にやめるのであるが。人間の社会は、犬の社会とは比較にならぬ複雑さをもっている。人間は多かれ少なかれ、社会的存在であることを意識して生活している。子供の喧嘩を、一定のところでとめるのもまた、子供の人生の経験であろうが、どこでどうとめるかは、考えてみると決してやさしいことではない。
 だから人生が学ぶということである、ということを強く意識するかしないかは、人間の成長にとって、この上もなく大事なことである。人生が学ぶということであるということを意識するのは、別の言葉でいえば、事にぶつかって、成功したり失敗したり、目的を達しなかったり、達したりするたびに、反省する力をもつということである。しかし、反省するといいながら、じつは自分の欠陥を冷徹に分析するかわりに、相手が悪かったことばかり責める人もいる。こんな人には、その成功や失敗が自分の成長の糧にはならない。自分には甘く、他人には辛いのは反省ではない。
 反省するといっても道学者風にあまりにせまっくるしく考えないほうがいい。いわばおおらかな反省がいい。せまっくるしく自虐的でじめじめしているのは、まことに悪い「学習」で、人間を成長させることにはならない。人間をこじんまりと固苦しくする。もっと悪い場合には、ちぢこまつた人間をつくり上げる。

2 マルクスの人となり

 マルクスは「人間的なことで私の心をとらえぬものはない」というテレンティウスの言葉が大好きだったらしい。マルクスほど、道学者風のお説教をきらった人間はいない。だから、娘さんたちが「お父さんのきらいな人はだれですか」ときいたら、その頃イギリスの通俗的道学者的著述家のマーティン・タッパーと答えてる。タッパーは、いまでは誰も忘れてしまっているが、その頃流行の哲学者で彼の著書はイギリスで750万部、アメリカで100万部売りつくしたといわれている。日本にもそういうふうなのがいる。浅薄で偽善的で、読者にこびた著述家がいる。独善的で利己的な俗物がいる。
 同じく「お父さんの好きな詩人は?」という問に答えて、シェークスピア、アイスキュロス、ゲーテといい、散文家ではディドロといっている。好きなヒーローという問に、スパルタクス、ケプラーと答えている。ヒロインは?という問では『ファウスト』のグレーチヘンといっている。マルクスは、素朴、純真、やさしさ、愛らしさ、そしてそのような素質を悲劇的に貫き通したグレーチヘンの弱さ、しかし強さと美しさ、そんな女性がすきであったらしい。
 マルクスは、娘さんたちの「お父さんの好きな徳は?」という問に、「素朴」と答え、「好きな男の人の徳は?」という問に「強さ」といい、「お父さんの主な性質は?」という問いに「ひたむき」といい、「お父さんの幸福と思うことは?」という問に「たたかうこと」と答えている。それでは「お父さんは何を不幸と思うか?」という問に「屈従」と答えている。「お父さんのいちばん?きらいな悪徳は?」という問には「追従をいう人間」といっている。最後にいま一つつけ加えると、「好きな標語は?」という問には「すべては疑いうる」と答えている。『資本論』は、この「すべては疑いうる」という勇敢な科学的精神から生まれたものである。
 この答えは、ある日のマルクスがジェニィ、ラウラという2人の娘さんの質問に応じて、答えたものである。この問答ほどマルクスという人の人となりを示しているものはない。これを敵対者の側から裏付けるかのように、保守的な歴史家で、19世紀末ドイツ軍国主義の思想家であったハインリヒ・フォントライチケは、マルクスについてこんなことを書いている。
 「これらすべての人々(『ライン新聞』編集部の人々)の中で、最年少者であるトゥリール出身のカール・マルクスは、24歳の力強い感じの男で、頬や腕や鼻 や耳には濃い黒い毛がほとばしるように生えており、命令的で、はげしい、感情 の強い人であり、はかり知れない自信にみちていた。しかしきわめて真面目で、 学識が高く、倦むことを知らない勉強家であって、その仮借するところのないユ ダヤ人的な俊敏さをもって、ヘーゲル左派の学説のあらゆる命題を、究極の結論 までおしつめていった。.....マルクスの指導のもとに、この若い新聞(『ライン 新聞』)は、まもなくきわめて無遠慮にかたりはじめた」
というのである。
 冷徹にして強靭な頭脳と仮借するところのない闘志とあらゆる困難にたじろぐことのない強い性格とが、反動的攻撃的歴史家の眼によくうっている、いわなければならない。しかし、彼に見えなかったのは、マルクスが純真で素朴で正直な子供のような性質であったことである。ヴィルヘルム・リープクネヒトがマルクスを回想して、マルクスは一面では「汚れのない子供」のようであり、マルクス夫人の言うように「大きな坊や」であった、といっている。
 マルクスほどギリシア芸術を愛した人も少なかろう。マルクスの有名な言葉であるが『経済学批判』の序説のなかで、ギリシア芸術に説きおよんで、
 「大人は再び子供になることはできない。なるとすれば子供っぽくなるだけだ。
しかし、子供の素朴さは、大人を喜ばせないか、また大人は、自らより高い段階で再び彼の真実を再生産する努力をしてはいけないのか?どんな時代にも、その本来の性格が、その自然のままの真実さをもって子供の本質の中に、よみがえっていないのか?最も美しく展開している人類の歴史的幼年時代は、再び帰ってこない段階として、永遠の魅力を放つことはないと、どうしていえるのか?しつけのない子供もあれば、またこまっちゃくれた子供もいる。古代諸民族の多くはこの範疇にぞくする。ギリシア人は正常な子供だったのだ。われわれに対するその 芸術の魅力は、は、それが育ってきた未発達の社会段階と矛盾してはいない。むしろ、その魅力は、未発達の社会段階の結果であって、その芸術がそこに成立し、外には成立しえなかった未成熟の社会的諸条件が、もはや再び帰ってこない、ということと離しえない関係にある」(『マルクス・エンゲルス選集』⑦新潮社版、221~2貢)。
 マルクスはギリシア芸術の美しさの本質をこのようにのべ、その美しさをこのうえもなく愛している。これは、われわれにギリシア芸術の美しさを示しているだけでなく、マルクスの性格そのものの壮大な美しさをも表している。
 マルクスの末娘のエリナは、マルクス自身が「......いちばん愛すべき人だったのは、おそらく子供たちの仲間入りをしているときでしたでしょう。子供たちにとっては、マルクスは年上の遊び友達でした」といっている。マルクスが子供たちに、自分の子供だけでなく、乞食の子供にも、どんなに深い愛情をそそいだかについて、話が残っている。真実を愛する人間が、どうして子供を愛しないでいられようか!
 マルクスの冷徹で強靭な思考力と不屈の闘志とだけを知って、彼の組織者としての素質を忘れてはいけない。マルクスは『ライン新聞』や『新ライン新聞』の編集局で、微塵のすきまもない団結をつくり上げた。1848~9年の三3月革命では、共産党とその周囲に結集した革命家たちの組織者で最大の指導者であった。第1インタナショナルの総務局でもそうであった。
 鋭い頭脳と強靭な理論と鉄の意志とだけでは、偉大な組織者であることはできない。人間の心と心とを結びつけるのが、革命運動における組織者の仕事であるからである。この点でマルクスとレーニンは、マルクス主義のなかで比類をみない。人びとは、マルクスのこの素質を忘れている。あるいは悪意を持って知らんふりをしている。マルクスに欠点がなかったなどと、私はいおうとしているのではない。マルクスの欠点も大きかったかもしれないが、彼の革命家としての素質が、ずば抜けて巨大であったことは、彼を人類の歴史の上で不滅にしている、というだけのことである。マルクスが残したような仕事は、ただ思想家として科学者としてすぐれていればできることではない。何よりも人間として偉大でなければならない。新しい社会をつくり上げる仕事を組織し、指導するのであるからである。

3 理論と実践

 人間として生まれて、その生涯の目標がそれぞれの個性を最大限度に発揮することにあるのは当然である。われわれが、人間として成長するということは、つまりは、自分の個性をできるだけ充実させることであろう。学ぶということが、人間としてすべての経験を成長の糧にするということであるというのは、この生涯の目標に向かって前進するということに外ならない。
 しかし、学ぶということを、自分の人間性の成長にあると考えることに、不安をまったく感じなくなったのは、私自身についていえば、50歳の声をきくようになってからである。青年の頃は、自分の専攻する学問ですぐれることが、何をおいても大事なことのように思った。人一倍の勉強もした。その勉強とは、マルクシズムの理論に通じることであった。しかし、マルクシズムの理論に少し通暁し始めると、この理論は、社会的実践なくして、自分のものにならないことを教えた。頭の中でわかったような気がするだけでは、具体的に「からだ」で理解したことになりえない、ということがわかりだした。
 そして、この理論の正しさの不動の確信は、資本主義の基本的な矛盾のたたかいから必然的に生まれる社会主義運動の外ではえられない。社会主義運動のたたかいのなかで初めて、資本主義の基本的矛盾を鋭く分析することもでき、またこの体験を土台にして理論的思考を白刃のようにとぎすますこともできるからである。
 このようにして、真実に無かつて、理論的だけでなく実践的にも突き進むことが、社会的真理に忠実なことなのである。したがって、このことは人間の倫理的な要求でもある。歴史をつくるのは、人間自身の行動である。しかし、人間は、勝手気ままに歴史をつくることはできない。その社会の構造がつくりだしている法則に意識的にしたがう外に、人間は自由に行動することはできない。
 いま資本主義社会の構造について、詳細に説くいとまはない。資本主義は、歴史上のどの社会も夢想しなかった生産力を発達させた。ところが、生産力が発達するほど、人間の生活は不安定となっている。憲法には日本国民は働く権利がある、と書いてあるが、生産力が発達するほど、人間には失業の危険が襲いかかつている。働く権利は空文になる。アメリカでも西ドイツでもイギリスでもフランスでも日本でも、現代の最大の問題は、技術革新とともに増大する失業者をどうするか、ということである。ケネディもジョンソンもアメリカの最大の問題は失業者をどうするか、ということであるという。資本主義には、その解決の方法がない。人間の幸福のためにある生産力が、人間の不幸の増大のためにある。資本主義の基本的な矛盾である。
 生産力の発展は、人間の生活の土台であるから、これを取り除いたり、抑えたりすることは、人間社会の発展を阻止することである。この生産力をどこまでも許容しうる社会構造をつくる外に、つまり社会の構造そのものを変革する外に、生産力と経済構造との矛盾から生ずる人間の不幸を解決する方法はない。そして、この方法を実現する条件は、厖大な生産力とその在り方のなかにある。それは、労働者階級には、いわゆる「生産点」において結集する条件が与えられている、ということである。これを現実の力にするのは、労働者階級の自由な行動である。これが、今日、歴史的進歩の推進力なのである。
 しかし、結集する力には、組織者と指導者とが必要である。また結集した人びとの心と心の結びつきがなければ、偉大な歴史的事業はできない。われわれが学ぶということは、どんなことを学んでも、この偉大な歴史的事業のなかで生きなければならない。何故かというに、真実に向かって進む外に、われわれの個性の成長ということはないからである。偽りの道に進む個性の成長などということは、本来無意味である。われわれが、学ぶということは、このように、社会的進歩に少しでも協力できる個性の成長のためのものである。
 マルクスやエンゲルスやレーニンは、このような個性の成長のもっとも偉大なるものであった。シェークスピアやゲーテも、このように偉大であった。ニュートンもダーウィンもアインシュタインも、このように偉大であった。人間の偉大さは、人類の進歩のためにどれだけ協力したか、どれだけ役立ったかで決定される。われわれが、社会のどんな場面で活動していようと、どんな種類の仕事にたずさわっていようと、われわれの個性の成長度を決定するものは、われわれがどれだけ社会的進歩に役立っているか、ということである。


秀才論

2006年06月18日 12時13分14秒 | Weblog
 昨年の夏二日ほど比叡山ですごす機会があった。ある労働組合の学習会で、これに私も参加したからである。自由な時間に、私は、よく山内を散歩した。おりから雨季に当たっていて、比叡のやまは雨に煙っていた。しかし、歩くのは楽しかった。ことに、二百年から四百年は生きてきたらしい杉が、亭々と天を摩して、まっすぐにのびている様は、口に出して言えぬ快さを感じさせるものであった。立ち並ぶ杉の巨木は、まことに美しい姿である。社会の理想は、すべての人々が太く強く真直にそびえ立つことなのだと、教えているようにもみえる。
 人間は自然の最高の産物である。しかし、この最高の産物が、時として最低の産物よりもひねくれて育つことがある。幼稚園にはいる時から「賢母」に訓練され、小学校にあがると一番になる競争を強いられ、中学校、高等学校と秀才の名を高め、父母の誇りの的となり、他人にはほめそやされ、大学は、いうまでもなく、一流の秀才大学を出て、そして大会社にはいって、いわゆる出世コースを泳ぐことになる。
 子供のときから一番になるために、他人を蹴落とすことばかり考え、勉強しない鈍才どもを小馬鹿にすることを覚え、秀才の誉れ高く、誉められる経験しかなく、お追従ばかり聴くものだから、虚栄心を鼻の先にぶら下げた、悪口に弱い、思い上がりのちっぽけな青白い男ができる上がる。外面はスマートだが、内心はやぼったい俗物根性に充満している。充満しているといいたいが、実は俗物根性にも徹し切れないのである。これを外面的な取りつくろったスマートなポーズが妨げている。何事にも不徹底な、したがって、無責任な男である。
 他人のこと、社会のことを考えていられない。会社や役所の事務などは、手際よくやってのけられる。学問や社会主義運動などというソロバンにのらぬものは、一生の仕事にはしていられない。「マルクシズムは、確かに一面の真理を伝えているが、世の中は複雑なのだから、その思想だけで押して行くわけにはいかない」というのが、この秀才たちの言い分である。
 秀才たちが、時として私の「資本論」研究会にまぎれこんでくることがある。彼らは、『資本論』の理解は、きわめて早い。一節を報告させて見るときわめてスマートにまとめてくる。一応には予想しうる質問にも、ちゃんと返答できる準備がしてある。まさに幼稚園から試験の答案を書くことに、もっぱら訓練された腕前である。勉強もよくしてくるし、言うことは気が利いているし、批判的精神もあるし、どんな立派な若きマルクシストができ上るかとたのしみにしていると、卒業期が近くなると、世の中は複雑であるという例の「理論」である。いろいろの思想を勉強して見たいという。もっともな言い分である。
 マルクシズムが、ギリシア以来の思想的潮流の正系の嫡子である、というようなことの根本的な理解はできていない。研究会での立派な報告は、いうまでもなく形のととのったものであったが、皮膚の下に理解のメスを入れることは、つねに秀才になる障害であったのである。
 秀才たちが、私どもの研究会に訣別して行くときに述べる言葉は、いろいろの言い方はあるにしても、大同小異で例の「論理」である。私は、そんなとき、
 「秀才に育てられた諸君が、『出世』がしたくなる、一流会社や一流役所の局長や部長になりたくなる。私が、それをどうしていけないなどというか。私はは、他人に生涯のコースを押しつけうるほど『偉い』人間とは思っていないし、またそういうことをしてもいいとも思っていない。ただ、諸君の言い分が気にくわんのだ。諸君は、なぜ、私は一生マルクシストとして行きぬくなどということは、もともと不安でできません、私は、やはり出世がしたいのです、平安な家庭を可愛い恋人とつくりたいのです、と言わない?それでよかろうじゃないか。私にそれでいけないとどうしていえる?その出世が、墓場に入る前にどんなちっぽけなものであるかを発見しても、また、果たしてその道で家庭の平安がえられるかどうか問題であるにしても、また、自分の家庭の平安だけを考えるという状態が、自分と自分の子孫、社会全体の人びとの家庭の平安、したがってまた自分の家庭の平安を、つねに脅かすものではないか、という問題があるにしても、私にいまのところこれしかできません。他人のことを、社会のことなど考えてはいられません、というのも、諸君の生き方であるとすれば、それを私にとやかく言う権利はない。なぜ諸君は、正直に自分の気持をいって、後味よく別れていかないのか、嘘の気持ちで別れると、人間はやっぱり正直なものだから、将来、僕とどこかで会ったようなとき、知らん顔をしなければならなくなる。僕は、数年もの間毎週一回は会っていた人びとが、僕を見て、こそこそと知らん顔でかくれるというようなことは 好きでない」
 こんなことを、言うことがある。

こういう人間もある。大学を出て関西のあるあまり大きくない工場の工場長をしている。彼は、学生時代からときどき私の所にやってきた。しばらく来なかったが、一昨年ぐらいに久しぶりでやってきた。 
「出張かい」ときたら、「いや、一年くらい東京にいるんですよ」という。
 なんのためだときたら、日経連で勉強しているのだという。
「へえ、第二組合つくりの勉強かい」といったら、「いや、そうでもないですがね、いまは団体交渉の実習ですよ」といって笑った。
 この男は、なまじっかマルクシズムの勉強などしていないから、私の前できわめてほがらかである。ときどきつまらん事を言って、私にこっぴどくやっつけられるが、その次には平気で遊びにやってくる。なかなか面白い話もしていく。
 あるとき、電話をかけてきて、今から友人を一人連れて行くがいいか、という。
いいという返事をしたら、二人でやってきた。ちょうど軽い神経痛で肩のところが少し痛かったので寝ながら話をした。彼の紹介によると、連れの人は、ある証券会社の支店長だという。私が株など買わぬ男だと知っているのに不思議な男をつれてきたものだと思ったが、世間話をしていた。そのうちに株屋さんが、「実は先生に紹介状を一枚いただきたいのですが」という。「誰にです」といったら、総評の「偉い人」にご紹介願いたいという。「なんのために会うのです。あなたの会社の組合を総評加盟にでもしようというのですか」と笑ったら、彼はおおまじめで、「総評には年々組合費が沢山はいるでしょう。それを労働金庫にねかしておかれるより、私どもに運用させていただくと、うんと増やしてさし上げますから、闘争資金も潤沢になると存じます。そんなことをおすすめいたししたいと思いますので、先生に紹介状をいただきたいのです」といった。
 私は起きなおって言下に、
「そんな用だったら、二人ともすぐ帰ってくれ。労働者の血と汗ににじんだお金をそんな馬鹿な、無責任なことに使えると思うのか。すぐ帰ってくれ」
 とどなりつけた。二人は、それでは、話はいたしません、といって、それから一時間ほど無駄話をして帰った。帰った後、しばらくは、この人達のドン・キホーテのような向こう見ずと、たくましい商魂と、丸太のような神経に感心していた。二人とも一流大学を出たのだが、やはり、訓練というか、大学で勉強しなかったことだけはたしかなようだが。
 秀才たちがいやがるのは、マルクシズムを勉強すればするほど、彼らの胃の腑の中に違和感が大きくなってくることである。彼らがどうしても消化できず、調和できないのは、マルクシズムの論理が要求する「実践」という要素である。神経の細い秀才には、この「実践」も、自分の性格や「家庭の事情」で、できるだけのことをして、できないところを「あやまる」というような正直に自分をさらけ出すことはできない。これには多少とも図太さを必要とする。こんなものは、お母さんの手厚い保護と教育のおかげで、もちあわせていない。真実から顔をそむけるほかはない。このようにして人間を喪失した一流官僚や一流会社員ができる。こおいうのと会ってごらんなさい。十分ぐらい話をしていると退屈になる。
 私は、これまでの自分の生涯を振り返って、いたづらに悔いのみ多いことを感ずるのであるが、ただ、もの心がついてから、馬鹿の一つ覚えのように一本の道を歩きつづけてきたことだけは、たのしい。そして、子供にお説教することのできなかった、子供に進むべき道を指図することのできなかった、ただ、子供の成長をおろおろしながら見守る外に術をもたなかった、小学校を出ただけの無知な母親をもったことに、少しの悔いもない。いな、むしろそれは私のもっとも楽しい想い出となっている。
 私は、京都で人工の極致ともいうべき中世の庭を見ることを楽しまないわけではない。しかし、それらの庭は、何の技巧もなく天空に突立っている一本の杉の巨木の悠々たる姿に及ばないように思う。それは、のびるだけのびた無技巧の自然の雄大さに劣る、ということである。
 亡び行く資本主義は、矛盾した社会のありのままの姿をさらけ出す自信を喪失している。支配者たちは、のびるだけのびようとしている働く人間の物質的精神的要求を押さえつける外に、自分を守る術を持たない。彼らの「人づくり」とは、ひねこびた自己を喪失した人間をつくることである。
 私は、駆け足をするように腕をかまえ、足だけを前後左右に無暗と動かすが、前進は決してしないあのツウィストとやらいう踊りを見ていると、没落資本主義の中に生まれあわせた青年の一部の人びとの気持ちが示されているような気がする。彼らは、せっかく出世を唯一の目的にして秀才大学にはいったが、彼らの出世そのものが怪しくなっている。また秀才となってひねこびることのできなかった青年たちが、エネルギーの放出に困っている。青年はどこにどのように、彼らの精力を放出したらいいかわからないでいる。だれも、どの政党も、この精力の使い方を教えてはくれない。少なくとも、このような青年に対して、活動の方向を指導することはできない。
 今日の社会の中で「出世」以上の視野を持つことのできないお母さんたちが、小学校の時から大学者も及ばぬほどに机にへばりつかせるようにして秀才たちをつくり出したことにしても、この母親たちや、できた萎縮した秀才たちを責め立てるのは可哀そうなことなのである。この社会でよりよく生きていこうという善き意志がつくり出した悪しき結果でしかない。 

私より若い友人に稲村順三というのがいた。戦後は社会党の党の指導部の一人で、いわゆる『左社綱領』をつくった綱領委員会の委員長であった。今生きていれば、むろん、社会党左派の中心人物であろう。私は、稲村順三と伊藤好道とを比較して、伊藤好道は、ふだんには役に立つが、いざという時に頼りにならなくなる危険がある、稲村順三はひるあんどんでふだんは役に立たないが、いざという時には、必ず役に立つ、といったことがある。伊藤君は若いときから才能のあらわれている人であったが、稲村順三は、不器用で、才人たちから小馬鹿にされたが、戦争中の態度も立派だったし、戦後は、日本社会党の左派の理論的中心となった。
 戦後の彼は、誰も小馬鹿になどできないまでに大物になっていた。左派社会党のいわゆる『左社綱領』は、彼が委員長として実現したものであった。彼は、戦後胃の状態が異様だった。綱領委員会で活動中、よく胃散を服用している彼を見かけたが、彼の病気はそんななまやさしいものではなかったらしく、その後、胃癌で死んだ。
 綱領委員会では、彼と私は、欠席したことはなかった。綱領草案ができてからは、彼も私もこれをもって全国をまわって党員に説明した。綱領を論議決定するための党大会では、彼は表に立って大会に説明し、私は舞台裏の一室にあって彼に協力した。二人ともこの時ぐらい張り切っていたことは少なかった。
 稲村順三は、北海道大学の予科を出て、東大の社会学科を卒業直前にやめた。学生時代から社会主義運動をやっていた。私が彼と会ったのは、多分昭和三年だと思うが、彼は、もう立派な闘士であった。それ以来彼の死まで、つねに考え方を同じくして社会主義の運動をつづけてきた。彼くらい運動の理論で私と一致した人は少ない。さらにまた、彼くらい永年にわたって歩調をともにして進んできた人も少ない。
 私はただ運動と運動上の意見で一致していただけでなく、彼の人となりが好きであった。われわれ二人の鈍才が、おのずから気が合ったとでもいうことなのであろう。
 戦争中巣鴨から出てきたわれわれは、さっそく食うに困った。私よりずっと若かった彼は、人びとの世話で農業会に職を見つけることができた。しかし、私は少し年長で指導者格とでも認められたからかどうか知らないが、職を得ることはできなかった。ドイツ語の私塾でも開いてめしを食おうかと獄中で計画して出てきたが、外はそんなに甘いものではなかった。最後に食う手段として、戦前から考えていた百姓をするほかになくなった。百姓するには、ただ、農業の本を読むことと体力にものをいわせるほかない。土地も、こんなことを見越して、遠く都心から離れて、家は小さいが敷地の広いところを借りておいた。穀物などは素人ではできないから、馬鈴薯を主として、さつまいも、南瓜などをつくった。
 しかし、こまったのは、いちばん大事な馬鈴薯の種芋を入手することであった。さいわい稲村順三が農業会にいた。彼は、北海道産の最上の種芋を私のために確保してくれた。私は、本来農業をやっているわけではないから、当時供出する必要がない代わりに、肥料や種いもの配給もない。稲村君は、ひそかに、したがって自分の首をかけて、私のために種芋を一表確保してくれた。ばれたら彼は首になるにきまっている。ときどき妻が戦争中は静かでよかったというが、人の訪れることもきわめて少なく、血を分けた叔父や叔母の中には、わざわざ私との絶交を宣言する者すらいた。稲村順三には、私の困っている生活を助ける義務などは、いうまでもなく少しもない。しかし、彼は自分の首の危険をおかして、私のためにじゃがいもの種を確保してくれた。稲村君から知らせがあると、リュックで運んだ。あるときは大八車で運んだ。種芋を運んだときの嬉しさは、言いあらわす言葉もない。一年は命がもつはずだからである。
 二人の鈍才の交友は、稲村順三の死とともに終わった。私は、愚痴をいうことは、あまり好きでないが、いまでもときどき、社会党に稲村君が生きていたらなあ、と言ってしまって、苦笑することがある。
 どんな人間でも成長する。秀才も鈍才も、もともとそんなにちがった素質なのではない。それは社会の性格がつくりだすのである。その社会のどういうところに位置して生涯を送るかということが大事なのである。それには自分の意志も関係がある。


労働者の文化について

2006年06月14日 15時52分20秒 | Weblog

 私は、こんな大きな題をかかげたが、いまここでこれを解決しようという大それた志望をもっているわけではない。私が各地の社会党の支部や労働組合にではいりしている間に、またその「学習活動」に参加しているうちに、感じたことを述べるだけである。羊頭をかかげて狗肉を売るのそしりは免れないかもしれないが、しばしこれで我慢していただきたい。
 労働組合をまわっても、各地区の社会党をまわっても、きわめて広い意味に考えた「学習活動」がまことに不足していることを考える。そして、時とすると、その不足をすら感じていないほど低調であることがある。勿論私は、長時間労働による疲労や低賃金を考えないで言っているわけではない。そのようなことを考慮に入れても、やれることをやっていないということである。その原因の一つは労働組合や社会党支部の幹部が、学習の必要をまだまだ切実には感じていないということにある。
 それでも労働の社会科学的な知識はずい分進んできた。進んだ組合では「おや!」と思うほど高いのを感ずることがある。社会科学の理論は、まだ頭にはいりやすい。論理の問題だからである。しかし、論理が実践となって動くには、人間が土台である。頭だけでなく、全身の人間である。考えるだけでなく感じ、分析するだけでなく、行動において総合する人間である。すべての芸術は、この人間をつくり上げるのに寄与するはずである。社会党や労働組合では、このことが極めて不充分に考えられている。ここでは、多くの場合、文学も絵画も劇も映画も、すべてただ「娯楽」として取扱われているにすぎない。
 娯楽が悪いというのではない。碁、将棋、マージャン、パチンコだって、人の性格をつくるのに、その行動の一要素となるのに寄与しないというのではない。ただ、皮膚の上をなでる程度の寄与は、芸術の血肉となる程度の寄与と雲泥の差があるというだけのことである。文学といい劇と名づけるから、それは芸術であるわけではない。だから、これを「娯楽」として取扱う精神からは、「娯楽」にすぎない文学や劇や絵画が選ばれる。ここからは、人々の生涯に深い永続的感激を残すものは除外される。
 労働者が面白がりさえすればいいではないか、という議論がある。しかし、その日本の労働者を百年の間教育してきたものは何かというと、主として封建的なものを混入し、ブルジョア社会に適応するように馴合させられたイデオロギーである。労働者は、決して本来労働者があるように教育されてきたわけではない。人類の歴史的発展が、一定の時代に、近代的労働者階級というものを生んだ、そして、これに一定の歴史的性質と、したがって社会主義社会を創造する歴史的に果たすべき使命と果たしうる力とを与えた。それは偶然にそうなったのではなく、歴史がそうせざるを得ない地位においたのである。ここから近代的労働者階級の歴史的な階級的な性質が生まれるのである。しかし、この本来の性質は、そのまま表面にあらわれているのではない。労働者は、資本主義社会の胎内にある。資本家社会の資本家に奉仕する教育にいく重にも包まれている。この皮を一枚一枚はいで行くことが、社会主義者の文化活動である。


 労働者が今日の社会でそのまま身につけている教養は、資本家に仕えるようにつくり上げるためのものである。それは極めて複雑な形をしており、あらゆる種別のものであるが、すべて、人間を資本家社会用に変色させるようにできている。だから、ありのままの労働者が、今考え、感じることは、労働者のもちうる本来の姿からは遠いものである。労働者だから労働者的に考えるとは限らない。資本家社会的に考える労働者が、今日でもどんなに多いことか!資本家社会は労働者をそう育てるのである。
 社会主義者の仕事は、それが政治家であれ、思想家であれ、芸術家であれ、この本来の労働者の芽を発見し、成長させ、彼ら自身の歴史的な使命を達成させることである。彼ら自身の本来の階級意識をあるべき模様に織り成すことである。
 労働者は、初めは資本家社会におけるその社会的地位、その低い生活水準、その低い文化をどうにもできない宿命として受け取っていた。だから、彼等は、浪花節や股旅ものの愛好者であった。自分自身にできない夢を、ある強い人間によって実現させるのである。こうして彼は、しばし現実を忘れるのである。彼らの自主的精神とその組織的行動力に対する自信が、彼等の胸に宿るまでは、チャンバラ映画のファンであるだろう。
 私は、先頃私の学生の頃、日本の社会主義運動に活動し、その勇敢さに目を見張った老いたるアナーキストたちと会い、話す機会があって興味深かった。その素朴な人柄に好感が持てぬわけではなかったが、同時に、これでは近代的社会主義運動にはならなかったであろうことを思った。その行動を貫いたものは、浪花節的英雄主義であった。それは、個人主義的な小市民的反逆であるにすぎない。そして、この浪花節精神は、今後も、労働者階級の組織が強化されて、組織された活動と組織された社会に生活するモラルが確立されるまでは、時折現れて労働者階級の運動を阻害するであろう。
 したがって、労働者階級の組織的ソリダリティの精神が、現実における組織活動と共に成長するにしたがって、アナーキストの浪花節的英雄主義が凋落していったのは当然であり、かの時代に活躍した「英雄」たちが、運動から脱落して行ったのも、また自然の成行きであった。


 明治時代、大正初期の社会主義運動は、いわば日本の労働運動の神話時代である。運動者は、「大衆」について語ったが、その「大衆」は現実には山の彼方にあって、大衆的な組織に掌握されていなかった。社会的条件はすでに存在していたから、「大衆に」について語ることはできたが、猛烈な弾圧は、運動が大衆的に伸長することを妨げていた。したがって、運動は多かれ少なかれ悲壮な様相を呈した。運動者は勇敢であったにちがいないが、彼等の決死の突撃も資本主義そのものの根幹にふれるものではなく、資本主義はびくともしなかった。戦前の運動の物語は、確かに壮絶ではある。したがって、浪花節的英雄主義の温床ともなっている。
 私は、今日社会主義運動から脱落している古い闘士の語るのをきいていると、日本の歴史条件の生んだよさと悪さを目の当たりに見るような気がする。この人達が、しばし捨て去った過去の情熱を追って語るのは、「国定忠治」かなにかにききほれていでもするかのように見える。この人々が、浪花節だけを運動と思い込んで、今日の成長しつつある若き運動者のやり方に無理な非難をはじめると、そこに、古き運動者の限界が見える。この人々はその浪花節的精神がどんなに、日本の社会主義運動を妨げていたかを知ることができないのである。彼等が何故運動から脱落しなければならなかったかすら、反省することができないのである。今日の社会主義的文化運動の最大の目標は、労働者に対して浪花節的精神に代わるべき組織と計画的、意識的行動の精神を与えることになければならない。労働者運動において浪花節精神は、時として労働者階級の社会変革を否定する無力感の上に改良主義となって現れ、時として、少数精鋭によってのみ社会変革が可能だと考えるブランキスト的英雄主義となって現れる。浪花節精神は、このように社会主義運動の右翼抵抗主義と極左的な冒険主義として、今日なお活動している。
 近代労働者階級の本質的な生活感情と知識とモラルは、資本主義が生み出した大規模な近代的大産業の組織性と計画性とによって資本主義の教育をはねのけて育っている。彼等の日常生活は、この近代産業の発展の中で行われているからである。ところが近代産業の所有形態は、その発展を、労働者階級の不安定な生活の発展として遂行する外ないという矛盾を含んでいる。だから、社会主義的文化運動は、この矛盾を明らかにして、これをテコとして、近代労働者階級の組織と計画性の精神を引用し、これを充分に展開することであるに外ならない。そして、この仕事は、先ず、労働者の本来の意識の発展の障害となっている浪花節精神との闘いから始められなければならない。私が労働組合や社会党について、話をすると、しばしばその不準純さやだらしなさや、彼等のおかす過ちについて非難をきく。この非難者たちは、多くは労働者が普通の人間であることを忘れている。労働運動が、このような事情のもとにすべての人並みの弱点を持った人間によって行われることを忘れている。労働運動は現実にないクリストや孔子やお釈迦様が行う運動ではない。だからこそ文化運動の必要がある。労働者自身も、このような個人としての弱点に絶望して、自分たちの運動に消極的なまたはニヒリスト的な態度におちいることがある。
 日本資本主義はおくれた発達をした。したがつて、西欧の文化がとったような個人としての人間の分析を、冷静にあくことなく追究する時代を、短かく、しかも早急に乗り越えてしまったという事情をもっている。個人の文学的分析は、とくに日本の労働者にとって必要であるかもしれない。そうでないと強靭な個人は生まれない。そうしないと社会主義運動を浪花節的にしか理解できなくなる。
 私自身の経験から言うと、あくせくし、僅かの金銭や痴情にひきまわされる個人の姿を、自然主義の文学を沈読することで学んだのは大変よかったことのように思う。しかし、労働者に対して、いまさら自然主義の文学を推奨すべしというのでないこというまでもない。どういう文学を、どういう絵画、どういう映画を、ということは、社会主義者の大きな関心でなければならない。われわれの『社会主義文学』の任務の大なることを思う。

「日本国憲法が誕生した経緯」

2006年06月13日 17時12分06秒 | Weblog
労働組合 あかし地域ユニオン機関紙

2006年6月号から転載



 これまで私たちは、平和や人権や憲法をそれほど真剣に考えなくてよい時代が続きました。多くの国民は、現行憲法と、それに守られている平和や人権は、空気のようなものであり、当たり前のものと受けとめられてきました。だが、先の自民党新憲法草案や改憲の手続きを定める国民投票法案、そして教育基本法改悪や米軍基地再編の動きは、いよいよ日本国憲法の改悪が政治日程にのぼったことを意味します。
 しかし、ひとくちに「憲法」といっても、第九条の「戦争の放棄」はよく知られていますが、この憲法が出来た経緯、憲法の基本理念、その先見性については、残念ながら私も含め十分に理解しているとは言えません。そこで今回は、日本国憲法が誕生した経緯について述べたいと思います。


●明治憲法の制定
 大日本帝国憲法(明治憲法)は、現行憲法にある国民主権や基本的人権の尊重や平和主義などの考え方はなく、国民の生活は悲惨なものでした。明治維新後、日本政府は欧米諸国と対抗するために近代国家としての体制を整えることが必要でした。明治憲法は伊藤博文の主導で作成され、1889年(明治22)に公布されます。
 いうまでもなく、明治憲法の制定者たちは、国民に自由と権利を与え、国民のための政治を行うために憲法をつくったわけではありません。彼らの最大の関心事は、天皇が国家権力を持つ中央集権国家をつくりあげることにありました。
 そこで明治憲法は、議会の権力が強く、国民に自由と権利を保障するイギリス・フランス・アメリカの憲法よりも、皇帝の権力が強く、人権保障がまだ弱かったドイツ(当時はプロイセン)の憲法をモデルに作られました。
●明治憲法は「戦争の歴史」
 こうして生まれた明治憲法は、うわべだけは立憲主義の要素を採用しているものの、その内容は、権力の濫用をしばり、国民の権利・自由を保障する立憲主義の目的はまったく生かされていませんでした。第一条で「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と謳い、第三条では「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定し、第四条では「天皇は国の元首にして統治権を総攬」するとして、すべての権限が天皇にありました。そして国民には、主権者の天皇から恩恵として与えられ、法律でいくらでも制限できる「臣民の権利」だけでした。
 それゆえに日本は、1890年(明治23)明治憲法の施行から1945年(昭和20)までの55年間に、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と連続した「戦争の歴史」を刻むことになります。日本はこの戦争で国民に大変な犠牲を強いたばかりでなく、近隣のアジアの人々にはかりしれない苦痛と損害を与えました。
●新しい憲法の誕生
 この侵略戦争の深い反省と多大な犠牲うえに、日本国憲法は誕生しました。「日本は、本当に平和憲法を捨てるのですか?」著のC・ダグラス・ラミスさんは、その本の中で日本国憲法の誕生を次のように述べています。
 1945年惨たらしい戦争が終わった翌年、世界に新しい憲法が生まれました。この憲法は、それが誕生した国に深い変化をもたらしました。元首の意思に基ずく国を人々の意志に基づく国に、臣民の国を、市民の国に、人権を、単なる願いや希望や要望から、確固たる法の原則に、そして軍事的国家を、平和的な国家に、変えたのです。人々にとっては、それはまるで冬が終わり、春が来たかのようでした。そこで人々はそれを、「平和憲法」と名付けたのです。
(次回に続く)

私と文学   

2006年06月13日 16時00分59秒 | Weblog
 文学者のうちで誰を一番尊敬しているかときかれると、私は返事にこまる。尊敬しているといえば、そういう人は沢山ある。しかし、一番誰を尊敬しているかときかれると、分からなくなる。私は、実は、そういう選択をするほど、文学者というものを知らない。人を強く尊敬するようになるには、作品を読んだだけでは足りない。その人によく接して見る必要がある。学者でも文士でも、作品がその人のすべてではない。
 私は作品を読んだだけで、その人に私淑する気にはすぐにはならない。その作品に感心することは沢山ある。それですぐその作者の人柄を識別できるほどの洞察力というようなものは、私にはない。勿論、作品で作者の人柄らしきものを想像することはできる。しかし、それだけで尊敬するということはない。好感はもてても。私は何かに感動しても、すぐそれから次の行為うつるということができない。感動が尊敬にまで変わるには、もっといろいろの要素の媒介が必要であるように思う。私はこれまで作品を読む機会は多くとも、深く文学者とつき合う機会はなかった。外国の文学者にいたってはなおさらである。
 伝記を読むことも多い。人の日常の行為や生涯を知ると、親しみは湧いてくるが、尊敬というようなことは減ってくる。文学者の伝記は、多くは文学者が書いている。文学者は人のことでも他人行儀で書いていられない。この点で私はいつも文学者に感心している。しかし、はだかにした人間は、どんな偉い人でも、偉くないところをいっぱい露出する。そうなると自分との距離が近くなる。親しい感じをもつが、尊敬というような、一種の他人行儀は少なくなる。
 私に文学作品が深く分からないことからくるのかもしれないが、私は文学作品に強く影響されたというような記憶が無い。
 例えば、丘浅次郎『進化論講和』を高等学校一年生の時読んだ印象は深い。学問の面白さを強く教えられた。その翌年読んだ川上肇『貧乏物語』は、私を経済学をやる方向に強くひいた。同じく大学生時代に読んだ山川均『社会主義者の社会観』や沢山の論文は、私の日本人から受けた影響のうち最大のものであったように思う。カール・マルクスから受けた影響は、私の生涯の考え方を決定した。
 丘浅次郎には会ったことはない。河上肇は大学を出た年に会ったが、私はつまらなく感じた。深刻さを求めるポーズがはなについたし、迫ってくる力を感じなかった。会ってきらいになって帰ってきた。しかし、その死後、自分の弱点をさらけ出した『自叙伝』を読んで、多少ちがった感じをもった。山川均はその後親しく接するようになって、ますます考え方や生き方に影響を受けていると思う。マルクスにいたっては、いまなを私は彼の考え方の中で泳いでいるようなものである。
 ここにあげた例のような意味で、文学作品から影響を受けたことは、私にはないように思う。しかし、影響を受けなかったはずはない。多分私のような傾向の者には、文学作品と思想的な作品とでは、影響の仕方がちがうのではないだろうか。例えば、一つの社会の伝統とか習慣とか風俗とかいうものは、子供の時から気にもとめないうちに、じわじわときわめて自然にわれわれ自身を形成して行く。それらのものは思想や科学以前のわれわれを作り上げている。文学の影響は、少なくとも私にとっては、そういうふうに作用したらしい。
 私は文学作品を好んで読む。あまり刺戟のない田舎に育っているので、大都会で育った人々のように、早くから沢山の高級文学書を読んだわけではない。しかし、同級生の中では多く読んだ方であったろうと思う。それから、文学書に限らず、読書が好きな方であったであろうと思う。ところが、私は文学に関した仕事で身を立てようと思ったことはないし、また、そういうことが自分に出来るとも思わなかった。その意味で文学書に没入するような読書時代を持ったことはない。文学書の読み方が、何か客観的とでも表現するか、いわば少し遠いところから手をのばしている感じだったのであろう。文学作品を読むことからくる影響はいつの間にか身にしみこんでいるだろうが、際立って、いつ何を読んで、こういうことになったというような記憶はない。さきほどあげた科学に関する本が、私の考えや、私の行動に及ぼしたような影響の痕跡を、文学作品についてさがすことは、むずかしい。
  私のように、文学は好きでも素人にとどまる人間にとっては、文学は多くは私におけるように作用するのではないかと思う。だから、文学の影響というものは、人生に大したものでないと考えたら誤りであろう。誰も感づかない前に、いつとはなしに文学の影響がしのびこんで、われわれの性格になってしまうものであるからこそ、一国民がすぐれた文学を豊かにもっているかどうかは、その一人一人をよくするか、悪くするかに大変な関係がある。文学のみがこれに関係があるということはできないが、文学も重要な要素である。
 単に国民一人一人でなく、国民の全体が文学作品にうたれたり、作中の人物の行動に同感したり、反感をもったりしているうちに、ごく自然に共通の意識をつくり上げ、日本国民特有の生活、文化をなす素地が出来てくるのであろう。こうして同時代の国民生活ができてくるだけでなく、過去と現在と未来の日本人を、やはり全体として結びつける。文学の大きな役割は、これらすべての日本人に具体的に何かを教えるとか、具体的に何か政治上の目的を達成するとか、このようなことにすぐ役立つということより、いつとはなしにヨリ正しい社会をつくっていく素地を国民全体のからだににじみこませているという点にあるのではなかろうか。ヨリ正しい政治的目標を達成しようという思想や政治行動の立場から見て、文学を余りに実用的に考えると、文学はかえって役に立たぬものになるかも知れない。いわゆるあまりに傾向的な文学が、浅い影響しかもたぬということは、文学の本来の性質から当然のことであるかも知れない。
 海綿は水をすうっと吸う。人間はこれまでに得てつくり上げられた固定した考えやものの感じ方をもっている。このことがどれだけ新しいことを理解し、新しい事態に適応することを妨げているか分からない今日のような社会では、このような性質をなくすることは、出来ない。しかし、それは一定の範囲内ではできる。文学は人間の精神の中にある固定しがちな精神をいつでもほぐす役割をすると思う。つまり、ヨリ正しい、ヨリ新しい精神を、海綿が水を吸い込むように、自然に吸いこむ素地をつくる役割をする。文学は人間の動物的なところも、或いはもっと高貴なところも、余すことなく追求して、人間をあまやかさないで、個人や国民がいつでも自己反省できるような精神状態におくだろう。こういう仕事は、芸術、特に文学が果たしうる。
 私は、文学はこんなものだと思っているせいか、強い好ききらいはない。明治大正時代の作品を特に多く読むのは、この頃では、その時代の歴史を一度は書いてみたいと思うからであって、必ずしも文学としての興味だけからではない。明治三十年に生まれ、明治大正にわたって少青年時代をおくった私にとっては、やはりこの時代に対する一種の郷愁のようなものを覚えるのかもしれない。
 自然主義の文学、藤村、漱石、鴎外等を比較的多く読んでいることは、一般インテリゲンツィァの型通りだろう。ことに後の二者については、全作品、日記、書簡まで、つまり全集を殆ど読んでいるのではないかと思う。これも、とくに意味はない。面白いと思う人の作品は、読みはじめるとあきるまで行きついてしまう、私のくせの現われであるにすぎない。日記、書簡まであきなかったわけである。
 西洋人の作品では、一番多く読んでいるのは、ゲーテとトルストイだろう。どうしてそうなったか、ということをきかれても私自身分からない。ゲーテは高等学校でドイツ語をやり、後にはドイツに行って、ドイツに親しみをもつようになったせいだろう。トルストイの『復活』を中学一年生の時『あかぎ叢書』で読んでから、大人になるまでに読んでいって、あの神学的な部分をのぞくと、殆ど読んだのではないだろうか。メレジコウスキー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』とトーマス・マン『ブッデンブローグ家』は、今でもいろいろのことを考えるとき、思い出す作品である。
 私が少年時代に読んでいまも思い出す西洋の作品はシェークスピアの『ロメオとジュリエット』(坪内訳)である。中学にはいりたての時、どういうわけか家の書棚にあって綺麗な本だったので読んだ。無論少しも面白いとは思わなかった。どうしてか大人になって、このことを時々思い出す。
 日本の古典では、古典というのかどうか知らないが、芭蕉や蕪村の俳句が一番好きなようだ。病気で寝たりすると、これを解釈したのをよく読む。
 現代文学についていうならば、勿論、西洋の文学より日本の文学の方に親近感をもつが、『万葉集』や『源氏物語』や『枕草子』よりは、十九世紀以降の西洋文学の方が親しみを感じ、自分のもののように思う。もっとも、これらの「国文学」的古典は、実は読んだといえるほど読んでいない。つまり、はじめから、あまり近づいていない。





第11回被災地メーデー・アピール

2006年06月11日 15時34分40秒 | Weblog
労働組合  あかし地域ユニオン機関紙

2006年6月号から転載
 


『格差があって当たり前』と言わせてはならない!!



「勝ち組・負け組み」「セレブ」「ヒルズ族」「ニート」・・・・・・。格差社会を象徴する流行語が次々に生まれています。
 労働者の35%が非正規職。女性では56%が非正規職。24歳以下は50%超。
 この10年間で、第企業労働者の給与所得は1%増。一方、全労働者の70%を占める中小零細企業労働者の給与所得は16%減。
 全世帯の23%が貯蓄ゼロ。年収200万円以下の世帯が2割。生活保護は100万世帯を超え、人数では143万人。国民健康保険の滞納者30万世帯。就学援助133万7千人(全国平均12.8%)東京・大阪は4人に1人。


 ところが小泉首相は、国会で自らが推し進めた構造改革の責任を問われ、「格差が存在することが悪いことだとは思わない」と言い放ちました。格差社会を公然と肯定した総理大臣は、過去にいません。小泉首相!あなたは、自分がどういう立場の人間であるのか、自覚していますか。
 1人ひとりはみな違い、「格差」があります。違うからこそ、1人ひとりが持っている固有の価値を認め合い、尊重し、平等に扱わなければならない。権力や権威を持つ人が、人の価値をきめてはならない。日本国憲法はこのように考え、基本的人権をかたくなに規定しました。そして、国会議員などの公務員に、この憲法の遵守を課したのです。
 一方、格差社会は、「弱肉強食」の競争社会と双子の関係にあります。だから小泉首相は「勝ち組、負け組みが固定されてはいけない、一度敗れてもまた勝てるチャンスを提供することが必要だ。」というのです。
1886年5月1日、シカゴの労働者たちは、すさまじい競争社会の結果としてもたらされた長時間労働に抗議して「8時間労働」を闘い取るゼネストに立ち上がりました。これが私たちの今日の集まりの起源です。しかし、知っていますか?この1886年、大資本と国家権力は、社会を変える力に成長しはじめた労働者を威嚇するため、徹底した報復に出ました。この闘いを指導したアメリカの労働運動指導者スパイジューは逮捕され、死刑を宣告されました。法廷でのスパイジューの最終陳述は次のとおりです。
 もし、お前たちが私を処刑することで、労働運動をなくすことができると考えるなら、そうなら、私の命を持って行け!貧しさと不幸と、辛い労働に踏みにじられている数百万労働者の運動を無くせると思うのか!そうだ、お前たちは一つの火花を踏みにじることはできる!しかし、お前たちの前で、後ろで、四方八方から、途絶えることの無い火花は燎原の火のごとく燃え上がっている!そうだ、それは燎原の火である!お前たちもこの燎原の火を消すことはできない。
 こんな格差社会をつくったのが私たちであるなら、私たちはそれを変えることだってできる!みんなで考え、みんなが「イヤだ」と考えるなら、きっとできる!


2006年5月1日


 

本屋さんと仲良くなる   食卓のだんらんにひと役

2006年06月09日 13時38分44秒 | Weblog
 文明国では誰でも、一生本とつきあっている。われわれにとって文字とつきあえなくなるのが、どんなに淋しいことであるかを、つくづくと知ったのは、監獄である。始め数日は、本を読むことが許されなかった。私の入れられた三畳の室には、二冊の弁護士名簿があった。
 私は、これをくり返しくり返し読んだ。人名と住所と電話番号を書き並べただけの本でも面白くなる。人間には、まことにいろいろの名がつけられている。性と名とが、まことによく調和したもの、不調和のもの、ふざけてつけられたのではないかと思われるもの、いかめし過ぎるもの、思わずふき出すようなもの、つけられた人がかわいそうになるもの、士のようなもの、町人のようなもの、千差万別である。名前は、他の人がつけたものである。つけられた本人にとっては、姓名判断というものは意味のないことであるが、つけた人、それが父親であれば、父親の性格を判断する材料には、なるかもしれない。
 食事をする茶の間には、私の背に当たるところに本棚がある。試みにどんな本があるか、その一部をあげると、日本文学全集、有朋堂文庫、詩集、俳句集、漢詩集、『明治事物起源』(石井研堂)、『私の食物詩』(池田)、その他食物詩に関する本がいく冊かある。『近代日本の画家たち』(土方)、『江戸から東京へ』(矢田)、『唐招提寺』(亀井、塚本)。艦真和上のことが話題になる。いい写真がある。『日本資本主義発達史年表』(岡崎、楫西、倉持)、その他の年表類、『飛騨』(荒垣、細江)。『色名大辞典』(和田)。
 『色名大辞典』は、私の近所の三真書房の主人から、ある年のお年玉にもらったものである。私は、この本屋さんと、今の住所に移り住んでから仲良くすること十三年。
 この本屋さんは、下車駅のすぐまえにあるものだから、私のところを訪ねてくださるお客さんが、よく道をきくらしい。親切な本屋さんは、そのたびに私の家の道を、一々書いてくれる。それは大変だと思って、私の方で地図を騰写版ずりにして、この書房にあずけてある。来訪者は、ここで地図をもらって、安全に到着するし仕組みになっている。この本屋さんは、一昨年亡くなった。
 この『色名大辞典』は、いまは亡き人のかたみとなってしまった。私は時々、開いて綺麗な色を見て楽しむとともに、ありし日の三真書房主人をなつかしんでいる。
 この外、動物や植物、地理の本。その他通俗自然科学書、国語、外語の一般辞典類と人名辞典類。
 私の家では、若い人々が、食卓に集まる。一緒に食事をしながら、色々な話がでる。これらの本は、ここで出る話題を供給してくれたり、解決してくれたりする。このだんらんは、まことに楽しい私の家の習慣である。
 最後にねるときのために、、枕もとに本がおいてある。床にはいって、十分か二十分、これらを手当たり次第に手にとる。よき睡眠剤である。ここで本との一日が終わる。


本屋さんと仲良くなる   読むたびに新鮮な俳句の本

2006年06月08日 13時20分53秒 | Weblog
 私のような物の生活にとっては、めしの次に必要なのは、本になっている。若い時から、外出するとき小さな本をふところにしのばせて歩くくせがあった。ところが、老いるとともに目が悪くなって、小さな字は電車の中では読めなくなった。漢籍をふところにして電車に乗るのはどうかな、と思ったりする。まだ実行はしていない。
 このごろは、大人が、まんがを見ているのを、電車の中で見かける。目が悪くなったのではあるまい。考えること、自分で何かをする気持ちが、なくなったのかも知れない。
 私は電車の中で活字が読みにくくなったから、いたし方なく窓外をながめたり、眼をつぶって考えたりしていると、ついねむたくなる。しかし、電車の中でねむることはなかなか出来ない。
 少し長旅をするときは、本を沢山もって行く。余ほどの必要がないかぎり、専門の本は持って行かない。すこしのんびり読める本を、カバンにつめこむ。読む時間は、たいしてないにきまっているが、本を入れていないと、旅で淋しい気がする。
 文学書。伝記。旅行者用案内書。このごろは小型のいい案内書ができている。雑誌をもって行くことは、あまりない。列車の中で新聞は読むが、週刊誌を読むことは、きわめてまれである。何か特別のことでもないかぎり、週刊誌を買うことはない。
 頴原退蔵『俳句評釈』上下二冊は、きわめて頻繁にお伴をしてくれる私の友人である。モスコウに二度、東ベルリンに一度、おともをしてくれた。シベリアをとぶジェット機の中で読んだり、ベルリンのベッドにはいってから読んだり、さまざまの時に、私と一緒に旅ねをかさねる。
 私は、俳句を作るわけではない。また、俳句を読むにしても、別に勉強して素養をつけているわけではないのだから、注釈書が便利である。先の上下二冊のごときは、いくど読むか分からないが、読むたびに面白い。近頃は記憶が衰えて、いくど読んでも忘れる。しかし、少し皮肉なようだが、記憶がおとろえるのも、必ずしも悪くはない。かの『俳句評釈』は、いくど読んでも新鮮である。
 北陸を旅するたびに、思い出したところで『奥の細道』を買う。おかげで私の家は、この本がいく冊もある。
 東京が忙しいので、少し長い仕事をする時など、信州の山の中にのがれる。この宿には、必要な本屋や、辞書類があずけてある。その中には、ケ-ベルの随想がある。明治生まれには、ケーベルはやはり楽しい読物である。それから、例の『俳句評釈』もある。
 一日の予定の仕事を了えて、夜遅く、人々がねしずまってから温泉にひたる。この宿については、戦後二十いく年、毎年いくどか仕事をしに行くため、宿の女中さんたちより、私の方が古い状態を知っているし、風呂場のどことどことを消灯すればいいということも心得ている。
 夜中に風呂の中で、のびのびとからだをのばして、、「哲学する」、というと偉そうだが、実はなんということなく、ぼんやり考えている。
 風呂から上がって、床について、さて、何かの本を取り上げて、いく項か読む。ねむたくなる。深々とねむる。やはり俳句の本を読むことがいちばん多い。しかし、いっこうに句をおぼえない。

本屋さんと仲良くなる   仕事のあいまに拡げる本

2006年06月07日 15時59分39秒 | Weblog
 私は、煙草をすわない。だから、一日のうちに、さて一服というようなことはない。そんな時に、私のやることは、庭におりて、木や草花の害虫を駆除すること、木ばさみで枝を剪定することなどである。
 しかし、いちばんよくやるのは、そのときやっている仕事と無関係な方面の本を手にすることである。マルクスは、こんな時に数学の問題を解いたという話があるが、これは、彼のような天才にだけできることである。
 こんなとき私の手にする本は、多くは、画集である。時に詩集である。あるいは旅行記、旅行の案内書である。このごろは、美しい写真の入った小さな旅の案内書が沢山出ている。地方に出かけるとき買ったものがたまっている。そんなのを引き出して、項をめくって見るのである。京都や奈良や北海道のものは、手にすることすこぶる度々である。
 しかし、私にはよく散歩するくせがあるので、武蔵野について書かれた本を読む。さきごろ、上林暁さんの武蔵野散歩の文章を読みはじめたら、ついやめられず、仕事を放り出して読みふけってしまった。上林さんは、雑誌『改造』の記者をしておられたときからの知合である。私が昭和三年ごろ、九州大学をやめて上京した頃である。やはり、戦前のこと、私が、どこかで鈴木茂三郎さんの選挙演説を終えて演壇からおりてきたら、ききにきていられたらしい上林さんと会って、少々てれたことを思い出す。戦後はお会いしたことはない。それでも私は、上林さんの文章をどこかで見かけると読む。戦争中は氏の作品集をよく読んだ。
 仕事のあいまに拡げるのは、画集がいちばん多い。少年時代からの複製収集へきは、このごろまでつづいている。絵の複製は、大小さまざまなものがある。彫刻の写真もある。山の写真もまことにいい。
 こんなのをひろげて、見る。絵にしても山にしても、別に研究したことはないから、ただ、好きかきらいかが表準で見るのである。そうするとたいていなものは、いいことになる。
 画集趣味とでもいう私のやり方は、絵は好きだが、どうせ本物のいいのは、買えないからにすぎない。しかし、これでけっこうたのしめる。
 いつか、地方の学生が訪ねてきて、帰るとき、玄関にかけてある絵を見て、「これはほんものですか」ときいた。これは、セザンヌの風景だが、原寸大のドイツ製である。原物はいまは東ベルリンの美術館に所蔵されている。この間に思わず私はわらって「これの真物が買える男に見えるかどうか、僕の顔を見てからいい給え!」と言った。
 ほんもののセザンヌが買いたいのは、やまやまだが、いく億円かのお金がないだけの話である。
 画集だって、このごろは立派なものが出ているが、一冊五万円も十万円もしたのでは、なかなか買えない。高価な立派な画集が、ぞくぞく出るのは、悪くはないが、われわれ貧乏書生には、手が出ない。わたしの若い友人たちで、画集の好きなひとは沢山いるが、あんなに高価なものは買えまい。いちばんほしい人々は、買えない。
 社会主義諸国では、レコードや画集や、一般に、本は、たいへん安価である。もっとも、日本の複製の高価なものは、当然のことだが、どこに出しても立派である。