向坂逸郎  学習のすすめ

学ぶものにとって「すべては疑いうる」という精神が本質的な重要さを持つ。

生活に生きる古典

2006年05月30日 11時35分39秒 | Weblog
 古典とはなにか、というようなことを抽象的に論じるとむずかしいことになるが、逆に、例えばマルクスの『資本論』、ダンテの『神曲』、ゲーテの『ファウスト』は古典か、ときかれると、即座に、古典だ、と答えることが出来る。そういう種類の本がある。「そうだ、古典だ」とすぐ返事のできる本が、まだ沢山ある。これを読むだけでも大変な仕事だし、このような種類の本だけでも、一生のうちに読み切れないほどあるのだから、古典とは何か、というように論ずる前に、問題なく古典と考えられる本を読むがよい。断っておくが、人生、古典だけ読めばいいというわけではない。古典は、これらのいわば日常の本の土台になって人生の方向を定める本である。
 このような古典は、つねに進歩的なものである。それは、つねに歴史の進歩的な局面に進歩の役割をはたしたものであるからである。だから、その古典を人類の進歩の他の局面で、形を変えて進歩の役割を演じさせることができる。そのために、古典を読むことの意義が生ずる。このように、古典はつねにわれわれの進歩のための努力を鼓舞するように読むことのできるものである。古典は、だから、われわれの社会の進歩のための活動の精神的なエネルギーになるだけでなく、われわれ個人の進歩の心の糧である。社会なり、その中に生きている個人なりを向上させてやまぬものが、古典である。古典は、つねに、激しく社会が進歩する時代に、その場面を表現して生まれてくるもであるからである。だから、古典を読むのは、もう古びてしまって過去のよさや思い出を語るものとしてではなく、われわれの「明日」のためにするのである。われわれの今日や明日の生活の中に生きないものは、古典ではない。
 私は、『資本論』を読み、その思想の上に立って生きたことを、この上もない幸福思っている。『資本論』は、ただに経済学の書であるだけでなく、人生の書である。それは、マルクスの全世界感の根底にある弁証法的唯物論が、資本主義というわれわれの住んでいる社会として掌握された様であるからである。弁証法的唯物論とはどんなものかを、『資本論』という彼の生涯をかけた書ほどに示すものが、外にありようがない。人間の動く様が、資本主義というわれわれの生きている社会の中で示されている。人間の動く様という中には、自分自身も入っている。だから、『資本論』は、われわれ自身の理論的自伝といっていいものである。そこには、深奥に達する人間洞察がふくまれている。
 『資本論』はむろん科学の書である。しかし、そこに取扱われているものがわれわれ自身であるという事を考えると、実は、同時に、われわれの行動の書である。資本主義の中で動いている人間が意識すると否とにかかわらず、一定の統一ある運動をする。資本主義には、一定の運動法則がある。この法則は資本主義の矛盾をどう克服するかを教えるのである。例えば、小児まひを克服するためには、この麻痺をおこすウィルスの運動法則を知り、この法則にしたがいながら、ウィルスそのものをしに至らしめることを考える外ない。ウィルスの運動法則を知らないでは、これを死に至らしめる方法は発見されない。この運動法則に反していては、何もできない。りんごは何故垂直に落ちるかを知らないで、ロケットを月に向かって放つ方法がないのと同じである。
 社会をよくする方法も、これとちがわない。資本主義の基本的矛盾がどこにどうあるかを知らないで、つまり、資本主義を動かしているこの社会の根本法則を知らないでは、これを克服する行動はつねに無駄に終わる。歴史はこのことをよく教えている。
 堺利彦さんの碑が豊津の町に出来た。この人は日本の社会主義運動史上に最大の足跡をのこした人である。日本におけるマルクシズムの運動は、この人から始っている。幸徳秋水でもなく、片山潜でもなく、まさしく堺利彦から生まれている。堺さんはいわば平凡に脳溢血で亡くなった。幸徳事件の時入獄中であったため、幸徳秋水のように死刑になることを免れた。つねに国内にあって活動したため、亡命の身だ死ぬこともなかった。大杉栄のように、憲兵将校に絞め殺されることもなかった。牢獄としゃばとを往復し、いくたびか暴漢におそわれながら、幸いにもつねに難を免れた。
 そのために、今日若い人々の注意をひくことも少ないのかもしれないが、堺利彦さんの重要さは案外知られていない、しかし、最近になって、堺さんの研究が盛んになり、再認識が行われはじめたようである。豊津における堺さんの健碑式は、盛大であった。
 堺さんは日本で最初にマルクス=エンゲルスの『共産党宣言』やエンゲルスの『空想的社会主義から科学的社会主義へ』を翻訳された人である。堺さんが明治三十九年に出され、五号まで続いた『社会主義研究』には、数多くのマルクスに関する論文や記事がのせられている。貧乏と弾圧に耐えてきた堺さんの文章は、軽妙で、暗いところのないものだが、しかし、痛烈な皮肉に富んでいる。この痛烈な皮肉は、よく風雪に耐えた人の面影を伝えている。
 私は、学生時代から、堺さんの論文や随想に親しんできた。大正八、九年頃の堺さんの随想の一つに『火事と半鐘』というのがある。半鐘が鳴るから火事があるのでなく、火事があるから半鐘が鳴るのであるということを、軽妙な筆でのべたもので、今日でも私に深い印象をとどめている。いかにも、非難と弾圧の中から生まれてきた皮肉な言葉である。その頃の言論の自由を奪われた社会主義が、何かというと、彼らがつまらんことをいうから社会が悪くなる、と非難された。今日の社会の矛盾を蔽うて、それを社会主義者のせいにした。
 火事と半鐘にたとえて見るとよく分かることが、社会についてはなかなか分かってくれない。家事の事実を見きわめないと、これを消す方法も大火に至らしめない方法も見つからない。今日でも、まだまだ火事を半鐘のせいだという人が沢山ある。もっとも、そんなことをいってごま化す男は、救いようはない。
 『資本論』は、半鐘は火事があるからであるとして、火事の現場を認識して、同時にこの火事を消す男たちが、資本主義の中で消す準備をしていることまで示している。『資本論』は、資本主義の中に、その基本的矛盾を除く階級が成長していることを明らかにし、その人たちが、この社会の中から矛盾を除く手段も発見していることを示す。
 今日の社会の基本的矛盾の運動法則を知らないでも、資本主義の矛盾に気がついた人々は沢山いた。マルクス以前の社会主義者は、みなしかりであるといってよい。しかし、この矛盾は、これらの人の考えたように何か人間が過ちをおかしたから生まれているのではなく、社会の発展の一段階として必然的に生まれている。この資本主義の発展は、同時にこの矛盾を発展させながらでなくては、不可能である。この矛盾は労働者階級に資本主義そのものをもっと進んだ社会に押し上げさせる。この発見が社会主義を科学にした。ところで、火事は酸素を送らないという方法以外では消すことはできないのに、他の方法をあれこれと論ずるのは本当は無駄であるし、時として火を消すことを妨げることにすらなる。
 『資本論』は、資本主義の運動法則を発見して、本当に火を消すことの出来る方法を教えている。『資本論』は、われわれに今日の社会をどうするかを教えている。歴史は人間がつくるのであるから実際にやるのはわれわれの仕事である。そして、そのやり方も示している。だから『資本論』はまず経済学の書であるだけではなく、行動の指針の書ともなっている。『資本論』が人生の書である、というのはこの意味である。
 この書は、額に汗して働く人々の書である。この人々のみが今日の社会を高めて行くということを教えているからである。ただせまい意味で労働者階級の書であるだけでなく、農民も小経営者も知識階級も、この社会でそれぞれに位置を与えられている以上、この人々が何をなすかも看取している書である。
 だから、私は労働者、サラリーマン、若いまたは老いたる学究たち、農民、小経営者の誰とでも『資本論』を一緒に勉強する。そして、四十いく年の座右にあって、私の人生の指針となってきたこの書が、私の数多くの友人たちにも、生涯の友となることをのぞんでおり、そして必ずそうなると思って、いつも社会の前途に希望をつないでいる。
 






古典を読むべし

2006年05月28日 18時12分13秒 | Weblog
 社会が大きく変ろうというような時には、いい本が沢山出るのではないだろうか。人々が本当のことを探求しないではいられないからである。だから、古典とは、何らかの意味で変革の書である。
 明治維新後に、当時の知識人たちは、知識欲にもえて西洋の一流の本に取りついている。アダム・スミス、スペンサー、ミル、モンテスキュー、ルソー等々枚挙にいとまない。福沢諭吉は、残っている蔵書について見ると、スペンサーとジョン・スチュアート・ミルを実によく読んでいるそうである。この両者は、その全著作を読破しているのではないかといいう。福沢諭吉は、明治の思想家のうち他を圧して傑出している。彼の著書は、今日なお新しい。われわれの心をうち、われわれを勇気ずけるものを含んでいる。
 それは、彼がいい加減な移り気な読者によってではなく、古典というべき著作に沈潜して、自分の心の糧を人類文化の深所から得てきているからである。
 私は方々の書店の出版目録などを見ていると、読みたい本が次々に出てきて、一日が二十四時間しかないのを残念に思う。
 私どもの青年時代には、今日のようにいい本が、日本語では読めなかった。翻訳があっても、田舎の書店まではなかなか来なかった。その上に、読書指導をしてくれる人がなくて、ずいぶんつまらん本を買って読んだような気がする。今日では、これらのことは大変ちがっている。求めさえすれば、日本語でいい本がいくらでも読める。田舎の店でも文庫本を並べていて、一般に思想史上の古典や社会主義の本が手に入る。むしろ、あまり多すぎて、若い人は選択にこまるのではないかと思う位である。
 その点では、例えば、河出書房の『世界大思想全集』は古在由重、清水幾太郎、中野良夫の三氏の選択によるものであって、一定の見解にしたがって責任編集されている。だから、読書指導も一緒になされているということである。さらに、哲学・文芸思想篇、社会思想篇、宗教思想篇、科学思想篇というように分類されている。
 これらを全部読むというわけにはいくまいし、またその必要もあるまい。全館六十七冊あるが、少し時間をかけると、全部読んで読めないことはない。全部読む志を立てる人もあってよかろう。自分の好みにしたがって、或いは社会思想篇、或いは哲学・文芸思想篇というふうに読んでもいい。
 勿論、専門上の研究には、ここにあげられている本だけでは足りない。それはまた別にやり方がある。ここで上げられているような古典は、広い高い教養を身につけるために読むものである。。だから誰でも、どんな専門の人でも読むがいいのである。中には繰返していく度も読まないではいられない本もあるにちがいない。それも、その人の好みによってよい。
 一日に一時間や三十分本を読む時間をつくることは、誰にでもできるはずである。一時間で何ができる、というように考える人があるが、それは大変な間違いである。一と月とたち、一年二年とたつうちに沢山の分量の読書をすることになる。ただ、これを続ける根気のある人が少ないだけである。これをやりとおした人は、一生のうちには、はかり知れない貴いものを身につけることになろう。
 流行の本を追いかけるより、流行の彼方にあって威力をもちつづける本を読むように心がくべきである。古典とはそういうものである。
 マルクシズムというような世界観は、このような古典の中に易わらず流れている思想を源泉としている。人類は新しい世界観をつくり上げる手がかりを、つねに古典の蓄積の中に求めるのである。マルクスが、どんなに古典を読んでいるかは、『資本論』をちょつと繰ってみただけでも分かる。



三、がまん強くつづける

2006年05月27日 12時16分38秒 | Weblog
 学問はすべて実践的なものであるとすれば、資本主義の根本的な矛盾をはっきりさせ、これを変革する階級としての労働者階級の使命も明らかにしたマルクスの『資本論』は、労働者が、ぜひ読まなければならぬ書である。
 エンゲルス『空想的社会主義から科学的社会主義へ』、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』、マルクス『賃労働と資本』、同じく『賃金、価格及び利潤』。
 これらは、みな文庫本でホシ一つの本である。われわれの
「通信の勉強」がすんだら、あるいは、これとともに並行して、これらの小冊子をくり返しくり返し読む。これらは、もともと労働者用に書かれた本だから、われわれの「通信」で勉強している人など、くり返し読むとかならず分かるようになる。
 これらの小冊子が分かるようになったと思ったら、『資本論』にかかるがよい。文庫本だと『資本論』は十二分冊だが、まず第一、第二、第三、第四分冊までをくり返し読むのである。おそらく第一分冊が分かりにくいが、第一から第四分冊まだをくり返し読んでいると、第一分冊も分かるようになる。私自身が、このような勉強法をとった。そして初めわからなかったものが、少しずつ分かるようになったのだから、諸君がそうならないはずはない。第一から第四分冊で資本主義の根本的矛盾が明らかになる。
 『資本論』を中心に勉強するようになってから、私自身の世の中を見る目と人生の歩き方が、ちがってきた。『資本論』の考えをもつて、労働者の間にはいって行くようになってから、私はどんなに生きがいを感じたことだろう。そして、このようにして、さらに『資本論』の理解も深まって行った。がまん強く、いつまでも勉強をつづけることが大事である。
 『資本論』は、資本主義の矛盾の中で、これを克服ための運動の中から、生まれた書である。マルクスは、実践の中で勉強した人である。人生のほんとうの勉強は、実践の中でなければ出来ない。


二、何を学ぶか

2006年05月26日 15時41分25秒 | Weblog
 われわれの学問は、まず今日の資本主義社会の基本的な矛盾を明らかにするものでなければならない。われわれが、社会をよくしようと志したのは、今日の社会に大きな矛盾があることに気がついたからである。この矛盾は、毎日毎日、わrっわれの生活のひとつひとつの中でぶつかるものである。われわれのやる学問は、この矛盾が、資本主義の基本的な性格のどこから出てくるものかを、分析するものでなければならない。これを知ってはじめて、われわれのぶつかるひとつひとつの矛盾が、今日の社会そのものを変革しなければ解決されないものであるのを知る。
 資本主義社会は、中世社会に比べると大変な生産力を発展させた。原子エネルギーやオートメーションまで発展させた。オートメーションが機械を追い、原子エネルギーが、石油や石炭や天然ガスを、エネルギー源泉としては、しりぞけてしまう時代になりつつある。
 しかし、このように、生産力高くなるほど、人間は仕事を失わなければならぬ。生産力が高まることは人間生活を豊かにすることである。ところが、資本主義社会では、人間の生活を不安定にし、不幸にしている。人間の幸福のために、人間は科学を発達させ、技術を高めてきた。そしてぼう大な生産物をつくることが出来るようになった。太平洋を待つ間もなく、安々ととびこえることが出来るようになった。その結果は、人間は不幸になった。いつ首切られるか分からない、働く者にとって不安な世の中になった。
 社会主義社会(例えばソ連)では、ある工場で技術が高くなったために、人員が、例えば一千人不用になったということがあれば、国家は、この千人が従来と同じ水準の生活をなしうる職場を見つけてやるまでは、これを失業させることはできない、ということである。国家は、新しい職場を作るか、その他の方法でこの人々の生活を保障しなければならない。こうなると、生産力の発達は、人間の生活を向上させるだけに役立つものである。ただ、資本主義社会では、資本の利潤のために、人間を首にすることが自由放任されている。三池闘争はこのようにしておこった。
 働く人々は、自分たちの団結の力で、自分の首を守る外ない。労働組合運動は、そのためにおこっている。社会主義運動は、今日の社会の矛盾を根本的に除くために行われている。これらの運動のために、われわれは、ここで勉強しようというのである。本来われわれの学問は、人間の生活をゆたかにするためにある。この学問の本来の性質を生かすために勉強するのである。

何のために学ぶか

2006年05月25日 14時40分03秒 | Weblog
 1、実践的に学ぶ
 私が煙草をすわないので、本を読んだり、原稿を書いたりして一段落ついたとき
、どうしますか、とよく人にきかれる。このごろは植木鋏をもって、庭の植木をパチパチと切って歩くことがある。また、害虫を見つけるとつぶしてまわることもある。
 私の庭に桃の木が一本あった。岡山の農民組合の人からもらったもので、剪定も何もしないで放っておいても、すでにうまい桃がなった。
 ある年、慾が出て、これに桃を沢山ならせようと思いついた。そこでまず、桃に関する本を買ってきて、どのように剪定すればいいか勉強した。それから桃の木の前に立って剪定しようとした。本を読んだときは、どういう枝を切り落とせばいいか充分に分かったつもりでいたが、さていよいよ剪定の実践にはいると、どの枝を切るのか分からなくなる。また、本を見て出るのだが、どうもうまく分からない。ままよとばかり、大体の見当で、いい加減に枝を切り落としてしまった。さてさぞ桃が沢山なるかと待ったが、その年は花が少なく果実は、余りならない。その道の人にきいたら、多分剪定の仕方が拙かったのだろうということであった。つまり、実のなる枝を切り落として、ならない枝を残したものらしい。桃を沢山ならせるための剪定の道すら、実践のなかできたえられないと、からだについた理論、つまり本当の理論にはならない。
 これはわれわれの勉強にも、なにか示唆をあたえているようである。労働組合や社会主義政党の実践家にとっては、ただ、本を読んだだけではことがすまぬ。本に書いてあることを暗記したとしても、さて、組合の活動のなかに読んだことが生きなければならぬ。生かすことは、生かすことは、実践の中で辛苦しなければできない。
 本来、社会に関する学問は、社会の実際活動の中から生まれたものである。経済という人間の実際活動があるから、経済学というものが生まれる。だから、学問は、がんらい実践とつながったものである。経済学が、だんだん書斎の中だけで研究されるようになってから、実践とかけはなれた経済学も出てくるようになった。しかし、このような実践とかけはなれた経済学も、それなりに、実践的な意味を持っている。読む人を、抽象的な言葉の中にひきずりこんで、現実を忘れて観念の雲の中に迷いこませる。現実をかえって分からなくさせてしまうこと、現実からかけはなれさせてしまうことによって、現実の矛盾を解決しようという意欲を失わせる。あるいは、現実の矛盾を解決することに絶望させる。われわれは、世の中をよくしよう、額に汗して働く人間が主人公である社会をつくろうというのであるからである。