難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

額田姫王を探して 飛鳥をウロウロ −2日目

2018年03月21日 | 歴史紀行
平成30年 正月
額田姫王を探して、飛鳥をウロウロ −2日目−


 1月 6日(曇り、時々ミゾレ 寒い)
 今日は、去年も泊まっている、大和郡山市筒井の近くに、
神社の中に、とても素敵な、お仏像が在るのを教えていただき、
カメラに納めさせてもらえたのですが、「神社の中に、仏像??」
の不可解さに、ホテルの近くを、地図で探索しましたら、
小じんまりとされているのですが、その他にも幾つもの、神社仏閣が在り、
とても興味を惹かれ、朝から、車で探索を始めました。
 去年の神社は、その前に車を止める余地が在りましたので、
ジャマにならないように駐車し、お参りし、取りのがしていた
境内の写真を取らせていただきました。
去年の紀行ブログに、追加しますので、ご覧いただければ
幸いです。


 去年の紀行ブログに追加しようとしたんですが、不正な文法があると
表示され、追記さしてくれません??
 緊急処置として、此の紀行に掲載します。


神社鳥居

神社横 寺院用入口の場所として分けられているようです。

 道路側から、お地蔵さんの祠、その先が仏像のある祠、
 その後ろが、お坊さんの像がある祠です。

 (スマホで格子を覗いて接写)

 (スマホで格子を覗いて接写)

祠の前上部に、由緒が書かれた? 木版がありました。
 消えて読めませんでした。



 この後、地図検索で探していた、お寺神社を求めて、LIFEで探索開始。
この地区は、時間の長い流れが感じられる、いにしえよりの奈良
そのもので、古い民家、農家、細い曲がりくねった道、昔からの
集落、村落、部族の集団を感じさせられました。
奈良の良さは、神社仏閣、遺跡だけじゃ−なく、この歴史の長さを
感じさせていただける、町並みがあってこそなのだと、教えていただけました。
私の軽四ホンダLIFEでも、角を曲がるのが困難な、細い道が続いていました。
地元の人は、この細い道を、毎日普通に利用されているんだ!と
妙に感心してしまいました。農家の駐車場には、外車も沢山見受けました。
 でも何箇所か、曲がり角の塀に、擦り傷が在るのを見つけてしまい、
妙に納得してしまいました。
(すみません、不遜な言動、忘れて下さい。 m(_ _)m )

 ナビを頼りに、とろとろと寺院を探していったのですが、
車が通れそうもない道が多く、本当に多く、地元の車との
すれ違いも気を使い、目的の場所を見つけても、止める余地は皆無。
 小一時間、ウロウロしましたが、無理と諦めました。

 次の予定地、大和郡山市額田部地区へ。

額田部北は、泊まっているサンホテル大和郡山から、直線距離で、
1kmぐらい、インターネットで検索し、朝一番に、ホンダLIFEで
気になった所を探して散策していた、筒井地区とは2km程
なぜ今回、額田部地区を散策したくなったといいますと、まず
私の憧れ、額田姫王(ぬかたのおおきみ)の生誕の地又は、幼少期を過ごした
場所という情報をネットで見つけ、これは行ってみなくてはと
思いついたからです。
 現在でも、あこがれの女性シンガーの生誕地を、見学に行くファンが多いと
聞いています。同じ思いでしょうか?
「違うやろー!」
「違うかなー?」すみません。
 ちなみに、聖徳太子の時の女帝、推古天皇の本名は、額田部皇女
(ぬかたべのひめみこ)
とされていることを知りました。
 単純にこのことから私は、この額田部地区が、天皇系列に大きく
関わりがあるように思えてしまうのですが、素人の妄想でしょうね。

 この地区には、東西に貫く高速道路が在り、サンホテルから
高速道路を横切る手前までは、私の営業現役時代にお世話になった、
パナソニックや、パロマ、ハウス食品等の、大手の工場が沢山出来ており、
建設の時には、遺跡との関連が随分大変だったろうと、想像しました。
そんな訳で私の現役時代、この地区にはよく来ていたのですが、
額田姫王の関連性など露ほども知らず、
古い町並みが在るんだなあと思うくらいでした。
 今回は、少しこの、額田部地区を、前もってNETで調べ、龍安寺、
推古神社、額田部窯跡等を、散策します。
 サンホテルの前の三叉路から南下、大型工場街から、高速道の下を横切り、
額田部北町に入りました。

 寒い正月明けの奈良、観光客は皆無。
この分なら、車は少ないだろうと甘く見ていました。
朝一の探索場所、筒井地区とは、全く違っていました。
 通行の車がとても多いのです。しかも、筒井と同じように道が狭く。
道を探して、車でゆっくり散策できる、余裕はありません。
クラクションで、追い立てられるということはありませんでしたが、
「観光客だな!」と言う雰囲気で、持て余されているようでした。
ナビを見る余裕もなくなり、「私は誰?今、何処にいるの?」という状況になって
しまいました。

 20分ほど、ウロウロと車で迷走している時、突然小道から、小さな女の子が
飛び出してきました。
 もちろん、トロトロと走っていたので、車はすぐ止まれましたから、
事故になるようなことはなかったのですが、その幼稚園児ぐらいの女の子の顔が!!

 皆さんはもう、私の妄想を推測されたのでしょうね?

「ごめんなさい。」

と、照れ笑いを浮かべて、頭を軽く下げてくれました。
その笑顔こそが、私が思い描いている、幼女 額田姫王の笑顔そのもの
でした。
 幼女 額田王姫は、あっという間に、走り去っていきました。

 額田部の町並みは、とても年期、いえ、歴史を感じさせてもらえる
旧家が並び、古の奈良の町並みを感じさせていただきました。
その中にも、新しい住宅がチラホラと見受けました。
近隣の大手工場に通っておられる方も多いのですから、
その方にとっては、もちろん新様式の家の方が、住みやすいでしょうからね。
 ここは、車での散策は無理と気づき、今度暖かくなってからもう一度
徒歩での散策を計画してみようと、思いました。
そのときに、幼女 額田姫王に出会えるかもしれない?!!
 あっ、私は、決して変態じゃないですから、心配しないで下さい。
 

 次に、高取城と、壺阪寺へ向かいました。

 高取城と、壺阪寺は同じ道筋に在り、道の行き止まりが、
高取城跡になっていました。
 まず壺阪寺を拝観させて頂きました。
私にとって、壺阪寺といえば、壷坂霊験記ぐらいしか頭のなかになく、
 眼の病に霊験がある、観音様がおられるお寺と記憶していました。


ネットで検索していましたら、壺阪寺のある位置が、
黄金ラインと言われている、平城京、耳成山、藤原宮、飛鳥の古墳群を
南北に連ねるライン上の、一番南に在るお寺で、意識的に
その位置に建てられたと、言われていました。
その直線上の遺跡が、壺阪寺には見える場所があると書かれていました。
 これは行かない訳にはいかないと、やって来ました。

 ご本堂の、回廊に張り出しが在り、清水寺の舞台のようになっている、
 回廊から、黄金ラインが(言葉が違ったかな?)望めました。


 この日は天気が悪く、遠くまでは望めがせんでしたが、
 画像を拡大してもらいましたら、北方がよく望めます。







 お寺を参拝させてもらい、福祉事業にも傾注されており、
インドなど海外との慈善事業に尽くされ、お礼の意味で、インドから、
立派な仏像が招来されていました。
 宗教団体として、実に有意義なお寺と、敬服させて貰いました。

 壷坂霊験記って、もう一つそのストーリが思い出せないので、
ネットで探してみました。

 盲目の沢市(さわいち)は、妻のお里(おさと)が明け方になると
出掛けていくのに気付き、男ができたのではと疑い妻を問い詰める。
お里はこの三年間、沢市の目が治るようにと壷阪寺の観音様に願掛けに
行っていたと打ち明ける。
邪推を恥じた沢市は、お里とともに観音詣りを始めるが、目の見えない
自分がいては将来お里の足手まといになると考え、満願の日にお里に隠れて
滝壺に身を投げる。
夫の死を知り悲しんだお里も、夫のあとを追って身を投げてしまう。
二人の夫婦愛を聞き届けた観音の霊験により奇跡が起こり、二人は助かり、
沢市の目も再び見えるようになる。 (ウキペディアより)

 備考で興味が湧く記載もありました。

 沢市が盲目になったのは実は白内障であり、滝に飛び込んだ衝撃で
 治ったのであろう、とする説がある。

 二世 豊沢団平・加古千賀夫妻による「壺坂霊験記」制作秘話をモデルに、
 溝口健二監督映画『浪花女』が製作された。

 壺阪寺の本堂横手には、お里と沢市が身を投げたとされる谷がある。
  (いずれも、ウキペディアより)

 「浪花女」の俳優は、坂東好太郎、田中絹代で、義太夫の
「壷坂霊験記」が創作された経緯を、とてもドラマティックに描かれていた。
 その中で、「♬ 妻は夫をいたわりつ、♬ 夫は妻を慕いつつ」の、今はこんな、
夫婦おれへんよな!と思う、名セリフが出てきます。俺の 恐妻 でわな。
 この映画は、幼い時に、おばあちゃんに近所の映画館に連れていってもらって、
買ってもらった、森永ミルクキャラメルを食べながら、映画の内容を聞いて、
楽しんだ記憶があります。
懐かしいいな! このお寺だったんだ!

奈良県高市郡高取町壺阪3番地
TEL 0744-52-2016
駐車代;500円

来た参道の山道を、そのまま上に登って行ったところが、
 高取城跡です。

 壺阪寺の駐車場を出て、来た道のその先の上り道を、登っていきました。
昨日に続き、この日も、みぞれもよう。
だんだん道が狭くなり、道が行き止まりになってしまいました。
 行き止まりに、高取城の案内板が在り、外は、ミゾレ降り積もり。

 険しそうな、階段の先が、高取城? 多分?!

 そこが、高取城の入り口でした。
駐車場はなく、辛うじて、3台ぐらい止めれるスペースがありました。
しかし、車の外は、極寒の山中、細い険しい、階段の見学路、私には!!
 さすがディープな城マニアと思える人達が、何組か、登って行かれました。
 又 四、五十代のオッチャンが、大きな犬を連れて、階段の上から
降りてこられました。
その元気さに只々感心しました。
 怖気づいた私は、そそくさと退散です。
又機会があれば、温かい日にでも来るか。…… 来るかもしれない。

 気を取り直し、
 飛鳥の栗原寺(くりはらでら)跡を散策に。

 途中に、キトラ古墳がありましたので、無料駐車場に止め、散策。
もう一つ、栗原寺跡の場所が解らなかったので、同じ地区の、
檜隈寺跡を、散策しました。

 遺跡の前に、鳥居がありました。


 お堂の礎石らしいです。

 遺跡の一つです。?

 重要文化財 十三重の石塔

 檜隈寺遺跡の側に、資料館が在り、展示資料に、付近の地図を見つけましたので、
栗原寺跡を調べました。
 その資料館から、東側の山の裾のあたりでした。
車で、そのあたりに行き、探したのですが、それらしい手がかりを、見つける
ことは出来ませんでした。

この栗原寺の僧が、道昭で、日本で初めて、死後に火葬(荼毘)にふされたとされています。
 私がこれに興味を覚えたのは、その2年後に、天武天皇の后、持統天皇が、
死後同じく、火葬に付され、その焼けた遺骨を、天武天皇の眠る稜の中に、
並べて埋葬されていたと言う事実です。
これは、後世の、盗掘者により、判明したことなのですよね。
つまり、盗掘がなければ、バレなかった。
 先になくなった、天武天皇は夫婦二人分の広さが在る、陵墓に埋葬され、
妻の、持統天皇がやってくるのを待っている所へ、焼け滓だけが、銀の骨入れに
入ってやって来た。
「おいおい、どういうコッチャ?」

「だって、あんたと一緒の墓に入るの嫌やもん!!」
「いつまでも、私を放ったらかしにして、額田姫王バッカリ。」
「僧の、道照が、いいことを教えてくれたわ。」
「ヘンッ!」

 古代に夢を走らせるのは、楽しいですね。
何時の世も、女房は怖いですね。

 今日も天気が私の飛鳥探索を阻みます。
粟原寺跡の散策は、明日に延ばし、サンホテルに帰りました。

 この日の夜も、{おねえ}に行きました。
ちなみに、この日の勘定は、3千円で、お釣りがありました。


  (平成30年3月21日 校閲)


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