難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「信子のゆめ」 その2ー戦争に翻弄された幼い婦人(作成中)

2021年12月23日 | 思い出話
 私の母、信子が 平成二十九年三月十八日に 他界しました。
享年九十四歳 大正、昭和(戦前、戦中、戦後)、平成の
数奇な人生を生き抜き、よくぞ長寿をまっとうしてくれたと
思っています。


 信子の数奇壮絶な人生を、文章にしておかねばと思い、
キーボードを叩いています。


 (記載内容、表現に、お読みになる方の一握りの方に
  ご不快、ご不安な内容があります。
  予め謝罪申し上げます、ご容赦お願いします。)

その2ー戦争に翻弄された
     幼い婦人


 信子が、短い本当に短い青春を楽しんだ、昭和初期の
大阪市の下町庶民の街、城東区鶴橋。
 その下町に在った、YWCA(女子専用)で、国語と、
英語を習い、貿易商社に入って、女子社員に成るのが、
夢っだたとよく呟いていました。
 だけど、家計に余裕のない実家は、早く末娘を
手放そうと考え、嫁ぎ先を知人などに探してもらい、
姫路の知人から縁談をもらったようです。

 その当時は、実に一般的な慣習で、新郎新婦の
両家の意向だけで、昭和10年 朝鮮 京城の商家に嫁いだ
私の母 信子、16歳。
 母から見せてもらった、京城の嫁ぎ先での結婚式の
写真では、4歳年上の新郎は、結構目鼻立ちがしっかりした、
好青年でした。
 ちなみに、当時は、嫁ぎ先の実家で、結婚式を行うのが、
一般的と聞きました。
 両家の親戚と、新郎の友人達が楽しそうな顔で、
畳に座って映っていました。

 式が終わり、末娘の信子が、ほとんど家事を習得して
いないことが、たちまち見透かされ、義祖母から、
厳しい指導が始まったそうです。
 いまでも、嫁ぎ先の義母の指導が厳しいのが、
一般的ですから、昭和十年当時の、嫁姑の関係は
すぐ想像できますよね。
母からは、京城の冬の寒さに合わせた、思い出をよく
聞きました。
「雑巾をお湯で洗っても、絞ったらすぐに、
 凍りつくのよ、手の冷たいこと!」
「ウッカリ金属のドアノブに触ったら大変、
 手がくっ付いてしまって、離れなくなるのよ!」


 姑の家事指導(嫁いびり)に耐えきれづ、大阪京橋の
実家に逃げ帰る。

 慌てた夫が、直ぐに朝鮮 京城から迎えに来てくれ。
新婦 信子の実家に着いた夫が、二人でよく話し合いたと、
夫が泊まっている大阪梅田の、旅館に夫婦で泊まり、
一晩夫に諭され、とことん話し合い、夫が信頼
できるようになり、それからは、とても仲良くなれたと、
嬉しそうに、話してくれていました。

 夫とともに、朝鮮の京城に帰宅。
 その後すぐに、厳しい義母は、病気で亡くなった
そうです。
 義母が亡くなった後は、家事を全て信子が取り仕切り、
女中も二人使い、家事の切り盛りが、できるようになった
そうです。

 京城の嫁ぎ先の生活に慣れた信子は、ご想像通り、
根っからの稽古事大好きな なにわの女、京城に
出来ていた、詩吟道場に通いました。
例の、「べんせいしゅくしゅく 夜 川を渡る 
 暁に見る..........」
ですね。
 詩吟の教師は東京から京城に移って来ていた、
詩吟 吼山流 家元 伊藤吼山(いとう こざん)先生
でした。
 後の話ですが、戦後の10年以上も後に、東京で再会、
京城では、戦争のゴタゴタで、頂けなかった、
講師の免許を頂けました。

 同じような境遇で、大阪から京城に嫁いで来ていた、
杉山恵子さんと知り合い、一生を通じた、親友になる
誓いをしたそうです。
 日々の悩みや愚痴をお互いに、話し合えたと、
うれしそうに話していました。
 私は残念ながら、その出会いの経過は、聞いていませんが、
信子にとって、自分の一生を通じての、唯一無二の友だった
と語っていました。

 この恵子さんが、京城の嫁ぎ先の家で、急な心臓発作の
ため、亡くなったと連絡が信子の家に入り、驚き悲しみ、
涙いっぱいで、葬儀に駆けつけたそうで。
 葬儀は、和式で執り行わられ、僧侶が、枕元で、
読経を始めていたそうです。
 葬儀場にたどり着いた、信子は涙をイッパイ流し、
思わず、大きな声で。
「恵子ーー。逝ったらアカン
 お願い、帰ってきて!!」


 皆さんこの後、何が起こったと思われますか??

 突然、僧侶が、お経を上げている枕元の、
上布団が持ち上がり!!

ウルサイなあ!
 寝られへんやんか、
 静かにしてや。」


 この後の、騒動がとても面白かったと、信子は楽しそうに
話してくれました。
 お坊さんは、驚きで腰が抜け、這ってその場を逃げ出した
そうです。
 もちろん葬儀は中止、医者がやってきて、生存と、無事を
確認してもらったそうです。
「誤診してしまって申し訳なかったです。」
照れくさそうに、謝っておられたそうです。
 当時の医事のレベルを想像すれば、十分あり得る
ことだったと思います。
 恵子さんは、その後2日間眠り続けたそうです。

 ちなみに、終戦後に、日本の関西に帰国した後も、
信頼できる友として、友人として、共に愚痴や、悩みを
打ち明けられる仲でした。
 息子の私も、二度ほどご挨拶をした思い出があります。
 一度目は、私が小学生の時です。
とても若々しく、明るくて、皆に笑顔を振り撒ける人だな
という記憶が残っています。
 二度目は、私が、大学を卒業した時、大阪駅で
母と待ち合わせをしていましたら、ご主人と一緒に来られ、
なんと、私に、卒業記念の腕時計を、渡してくれました。
 当時、生活が厳しくなり、学費に困窮していた我が家は、
腕時計など買えるアテなどありませんでした。
とても嬉しかったです。

 その時、母は四十八歳、恵子さんも、同い年。
あれ、最初に会った時は、母は三十五歳??
 苦労したせいもありますが、母は、中年のお婆さん。
恵子さんは、最初に有った時も、二回目に会った時も、
二十歳代後半の若い奥さん!!
 顔の周りが明るく輝いているんです。
 信子(母)が、恵子さんと別れたあと、
「恵子は、京城で生き返ってから、
 年取らないみたい?!!


 話を戻します。
 心から打ち解けあえていた夫との間に、昭和16年女児が
できました。
 私の姉、美子です。

 このブログをお読みいただく皆様は、そろそろ嫌な話題に、
入っていくことを、ご想像いただけますでしょうか?
 昭和16年、日本中の普通の平凡な家庭を、押し流す
壮絶な世の流れが、始まります。

 昭和16年12月8日 突然ラジオから
 「日米は、ハワイにおいて、戦闘状態に入れり。」
の趣旨の声明が流れました。

 この時の驚きと、将来の不安を全ての日本庶民は
感じたのでした。
 戦後生まれの私は、その時の状況を近所の
オッチャンや、オバチャンに、よくこの時の驚きを
聞かされたのですが。
 この時ほとんど同時刻に、東南アジアの、マレー沖や、
タイ国上陸で、イギリス、インドの軍と戦闘状態になった
実際の話は、あまり出て来なかったようです?

 昭和16年当時の、情報伝達方法は、ラジオ、新聞、
地区の映画館で2週間遅れで、上映されるニュース映像。
 日本がどんな状況で戦争に入ったのか?、これから
どうなってしまうのか? 一般の庶民は、まるで想像
できなかったと、思われますよね。

 宣戦布告をしてすぐに、(その年の内に)信子の夫に、
召集令状、いわゆる赤紙が配達されてきました。
 その夜に、今後のことの話をするため夫に呼ばれ、
家族のことや、家業のことの話の後。
 夫の口から、思いもつかない話が、こぼれてきました。

「信子、この地図見てみ。
 この小さな島が日本や。」
「大きな大きな海が、太平洋や。」
「その先にある、大きな広い国が、米国や。」
「小さな島の日本が、大きな米国に喧嘩売ったんや。」
「兵隊の数、武器の数、武器を作れる工場の数、
 それに使えるお金の量が、比べ物にならない
 くらいに、米国は、イッパイ、イッパイ
 持っとるんや!」
「勝てるはずがないんや!」


 信子の夫は、真面目で、よく勉強し、国際状況も
詳しく掴んでいたようです。
 この後、夫の口から驚く言葉が、飛び出したのです。

「駆り出され、戦場に送り出されてしまうけれど、
 無事に帰ってこれないかもしれないと、
 想像しているんだ。」
「信子には、重荷を背負わしてしまうが、
 ガンバッテやって行ってほしい。」


「何を言っているの、手足が無くなってしまっても
 いいから、私のもとに、娘の美子のもとに、
 必ず生きて帰って来て!!!」
「生きて帰ってくると、約束して。」


 翌日、近所の人、知人、家業の使用人、そして、信子とに
バンザイと軍歌に送られて、指定された部隊の駐屯所に、
旅立って行きました。
 義父からは、「決して、涙を出して泣いたらあかんぞ。」
と言われていたのですが、感情を押し殺すことが苦手な信子は、
夫の後ろ姿に、泣き崩れ、大声で泣いてしまったそうです。
 そして決して言ってはいけない言葉を!
「生きて帰ってきて、絶対生きて帰ってきて!!」

 信子から聞いた話なのですが、この出陣式の時に、
多くの朝鮮の人が、来て頂いており、家の前の通りの
雰囲気が、他の家の出陣式とは少し変わっていたそうです。
 後から信子が聞いた話で、夫が朝鮮の人ととても仲良く
お付き合いを、続けていて、随分信頼されていたそうです。

 これが後の終戦の時、とても助けられる結果になりました。

 夫出兵後、家事を取り仕切り、夫の帰りを心待ちに、
昭和20年まで、頑張り続けていた、信子の家に、
町内会長(名称不明?)から、明日正午(時差が
有ったかもしれません。)に、いつもの広場に家族、
従業員、全員が集まるように。
との連絡が入りました。
 そうです、明日は昭和20年8月15日です。

 みんなが集まっている、中央にラジオが据えられ、
天皇陛下の玉音放送が始まりました。
 放送時間は約5分、関連の説明放送等が、訳30分。

「朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って
 時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ
 朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を
 受諾する旨、通告せしめたり

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 世界の大勢また我に利あらず
 しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに
 無辜を殺傷し
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を
 開かんと欲す
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 汝臣民それ克く朕が意を体せよ」

 集まっていた人たちは、残念ながら、朝鮮 京城までは、
東京から遠すぎたため、雑音だらけで、よく聞こえず、
何の話か理解できず、皆が、首を傾け、立ち尽くしていたと、
その時の光景を、母から聞いていました。

 玉音放送の後、アナウンサーが、連合軍に、降伏する旨を
伝えられたと、何回も何回も、伝えられ。

「負けたんや、!!
 私たちは負けたんや、!!」
 という声が満ち溢れ、その場から潮が引くように
皆の姿がなくなったと、話していました。

 この後、信子から聞いていた、一家で帰国するまでの、
壮絶な話を、書こうと思ったのですが、その内容が、
余りにも、辛いものですし、朝鮮の人達にとっても、
文章にしてほしくない内容だと思えますので、お互い
傷つけあってもいけないと思い、要点のみの、
話にしておきます。

 その晩のうちに、同じ商店街の日本人店から、
商品がゴッソリ、持ち逃げされた話が、いくつも
飛び込んできたそうです。
 店員に、朝鮮人を雇っている店は、被害に
遭わなかったようです。
 信子の店も、店長を含め何人か朝鮮人を雇っていた
おかげで、被害は無かったそうです。

 その休戦放送の後、数週間は、不気味な緊張感が
京城の街の中に漂い、とても怖かったと言っていました。
 ただ日本人、朝鮮人の庶民同士は、終戦放送の後も、
以前と変わらない、ご近所付き合いが続いたそうです。
 家業の家具商も、取引量は少なくなったようですが。
続けられる程度だったそうです。

 ご近所の、日本人店長達は。
「早い目に京城を切り上げて、日本に、
 帰らんとアカンノちゃうかなー?」


「朝鮮が日本と一緒になったんは、
 支那事変で、日本が支那(中国)に勝って、
 それまで、支那の領土属国やった朝鮮を
 自立さしたって、大韓国を名乗らしたった。
 そやのに、その大韓国の王族がわがままで、
 もともと、日本が嫌いだったもんだから、
 日本にはなんの相談もなく、勝手に、
 ロシアと同盟を結んで、王族だけ
 都合が良いように話を進めて、日本との友好や
 一番大事にせなあかん、自分の国の、
 朝鮮国民のことは何も考えずにロシアとの
 外交を、進めようとしやがったから、日本は
 ロシアと、戦争せなアカンように、
 なってしもたんや。」
「大韓国の王族は勿論、世界中の国が、
 日本が、大国ロシアに勝てるなんて、
 つゆ程も考えてなかったのに、旅順で、
 日本海でロシア艦隊を、壊滅さしたんや。」
「驚き慌てて、日本と一緒になることを、
 朝鮮王朝が、了解したからやで。
 朝鮮に何も悪いことはしてないやんか!!」

 
「そやなー、日本は、勝てたから良かったけど、
 朝鮮のために、大国 支那、ロシアと戦争せな
 アカンように、なってもたんやもんな。」


 このような、会話が続いたそうです。

 情勢が、一変する状況が発生します。



◎ 制作途中です。ご迷惑をおかけします。

その1ー激変お金持ちの娘から、
    貧乏人の娘に




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  古代史感のすれ違い

   
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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。




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