難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「信子のゆめ」 その1ー激変 お金持ちの娘から、貧乏人の娘に

2021年10月10日 | 思い出話
 私の母、信子が 平成二十九年三月十八日に 他界しました。
享年九十四歳 大正、昭和(戦前、戦中、戦後)、平成の
数奇な人生を生き抜き、よくぞ長寿をまっとうしてくれたと
思っています。


 信子の数奇壮絶な人生を、文章にしておかねばと思い、
キーボードを叩いています。


 (記載内容、表現に、お読みになる方のご不快、ご不安な
  内容があります。予めご容赦お願いします。)

その1ー激変 お金持ちの娘から、
    貧乏人の娘に


 母 信子が生まれたのは、大正十二年二月二日
関東大震災(大正12年9月1日)発生の年です。
 兵庫県の中央部にある現在の加西市(地区名は
変遷しています。)に生まれ、農家の8人兄弟の末っ子
娘でした。
 実家はその地区の大きな庄屋で、幼いときは大事に、
育てられたと聞いています。

 信子の父親(わたしの祖父)は、庄屋の長男として
随分と甘く育てられ、世間の闇を余り知らない、
お坊ちゃんだったようです。
 ちなみに、祖父の家の庄屋としての大きさですが、
十年ほど前に、母に頼まれ、加西市の実家(現親類の家)に
車で連れていき、挨拶をして帰りに、近くのかなり大きなお寺、
法華寺にお参りしたのですが、長い階段の最後に、戦前に、
お寺の改修工事が有ったようで、その資金の寄贈者の名前の
石碑があり、一番右端に、大きな字で、祖父の名前が
掘られていました。
 母が、その石碑に手を合わせ、涙を流していました。

 来年(平成30年)の年賀状は喪中で、出せないので、
喪中はがきを出すつもりです。
その中で、母親の死亡を記載します。

 私の心の中に深くしまい込まれている、母の壮絶な人生を、
育ててもらった息子(私)が、他人には決して言えなかった
暗い心のわだかまりを、少しずつ文章にしてゆけば、
心の重石が取れてゆき、母の追悼になるのかと思い、
書き始めてみます。

 母の生い立ちは、庄屋の末娘として育てられ、地区の子供達と
楽しく遊び、小学校でも、先生に大事にしてもらったと聞いて
いました。
 ところが突如、母が10歳のとき、世間によくある、本当に
よくある話の典型ですが、世間知らずのボンボンの祖父が、
親しく付き合い、信頼していた親友から、事業を始めるからと、
金融機関から今の金銭価値、100万円程度を、借り入れたい
ので、是非にと、連帯保証人を頼まれ。

「100万円くらいなら、友人が事業を失敗しても、
 友人と同額の返済なら、まあいいか?」

 気楽に、連帯保証人のハンコを押してしまい、
保証人事件のお決まり通り、先祖伝来の財産を、
すべて取り上げられてしまい、母は庄屋の娘から、
貧乏人の娘に激変しました。
 
 私は、理系出身ですので、連帯保証人の制度など、微塵も
知らないのですが、普通、100万円の借金の保証人なら、
友人が払えなくなっても、その100万円と金利を保証人が、
負担すれば、話は終わると思いますよね。

「あいつ事業に失敗しやがって、しかも、
 俺に一言の詫びもなく、借金踏み倒して、
 夜逃げしていまいやがって。
 アーア 100万円損してもた。」


 と、残念がっていたのですが、銀行から100万円の
返済請求が来たと思ったら、その請求書には、
なんと50倍以上の金額が書かれていました。
 友人が、金融機関から借りた、100万円を新規に始めた、
事業資金の一部として利用していた場合、もしもその事業を
失敗し、借金ができてしまった場合、その連帯保証人は、
リーダーの友人を含めて、ハンコを押した人達すべてが、
連帯責任として、その事業の全ての借金を返済するのが、
当たり前、常識という事だったのです。
 しかし、当の友人は夜逃げをして行方不明、残りの
ハンコを押したお人好し達が、分け合って支払うことに
なったしまったようです。
 
 母からはよく、

「もし、信頼できる人や、お友達から借金を頼まれたり、
 手持ちのお金がなくて断っても、それなら金融機関に
 出す保証人の書類にハンコを押してくれるだけで
 良いからと、言われても、決して、絶対ハンコを
 押したらだめよ。

「どうしても、友人の助けになってやりたいのなら、
 自分で今、出せるだけのお金を、返せる時でいいからと
 あげてしまいなさい。

「99%、帰ってこないだろうけどね。」

「逆の立場になったら、アンタだったら、
 信頼している、友人にお金に困ったからと言って、
 気楽に借金を頼める? 連帯保証人を頼める?
 無理でしょ、頼めないわよね!!」


 貧乏人に、激変した一家は、故郷を離れ(追われ?)
昭和初期(日時不明)に、長女(伯母)が嫁いだ神戸に
移り住んだようです。
 農家しか経験のない、祖父をおいて、祖母が出稼ぎの
商売をして、一家を養っていたそうです。
(祖母は強しだったのでしょうか?)

 母の兄弟の長男(伯父)が、東京で精密機械の
大手会社(SI社)に就職しており、次男(伯父)も、関西の
大手製粉会社(NI社)に就職できており、長女 次女(伯母)も
嫁ぐことができていましたので、それぞれからの
仕送りで、貧乏人としては、かろおじては暮らせたと
聞いています。

 加古川市から出てきて、神戸の長女の、嫁ぎ先で
同居暮らしをしていたのですが、居心地が悪くなった
ようで、東京に住んでいる長男の家へ移りました。
 頼ってこられた方の、神戸の夫家族としては、
嫁の家族と一緒に暮らすのは、今も昔も、
鬱陶しいですよね。

 話が外れるのですが、東京の長男(伯父)は、
母が生まれた年の、大正12年9月、あの関東大震災の時、
東京の K 大に留学しており、震災の後、東京の街を
歩いていたら、木刀などを持ち、地域を警護していた
群れに、取り囲まれ、名前と住所を聞かれ、名前と、
下宿先を答えたら。

「何だその話し方は、オマエ朝鮮人だろう!!
 壊れた家を漁っている盗賊だろう!!」

 突然大きな声で言われ、その集団に、襲われそうに
なり、必死で逃げたそうです。
 学生の伯父が、まだ取れない関西弁の訛りで、
喋っていたからのようです。
 東京では震災の後、壊れた、民家を狙い、盗賊が
横行していたようです。
 その盗賊と、出稼ぎの朝鮮人とを勝手に結びつけ、
東京の下町は、パニックになっていたそうです。
 この話を聞き、そう言えば20年前の、阪神大震災の
時も、避難して空き家になっていた家を狙い、盗賊が
横行した話を、沢山聞いた記憶が蘇りました。
 まだ続いてしまうのですが、10年前の東北の
大津波の時も、空き家を狙った盗賊が横行したと
報道されていましたよね。
 この関東大震災の時の、朝鮮人盗賊説のデマのため、
随分と出稼ぎ朝鮮人の人たちが、酷い目にあったと
聞いています。
 昭和初期に、私の母も神戸から連れられて、
数年一緒に、東京の下町で暮らしたそうです。
 母の、この時東京の記憶は、江戸街の下町風情と、
美味しい もんじゃ焼きの味、そして、近くにあった、
三味線道場に通ったと、楽しそうに話していました。

 大手精密機械メーカーに勤務していた長男
(伯父)が、大手会社社員の宿命、地方転勤を
命じられ、やむなく、祖父一家は、大阪市京橋の、
次男(伯父)の家に引っ越しをしました。
 一緒について行っている私の母は、引っ越し
引っ越しで、公立中学に入れなくなり、
大阪市京橋に移ったときは、大阪市扇町の女性専門の
YWCA(YMCAは男児専用ですね。)に入って
勉強を習ったと聞いています。
 13歳から16歳まで、大阪市京橋の家で、両親と暮らし、
楽しみは、卓球場通い、随分腕を上げたそうです。
地区の男女混戦の対抗試合が有って、なんと決勝まで
勝ち上がって、舞い上がっていたようですが、決勝戦で、
とても強い若い学生とぶつかり、コテンパンに負けて
しまったそうです。
スマッシュが得意な信子が、誰も返せないだろう
早い球を打ち込んでも、簡単に拾って(カットシュート)
返球してきたそうです。負けてとても悔しかったと
言っていました。
でも、その学生がとても心に残っていたと、言って
いました。
 いわゆる信子の初恋ですよね。
 昭和初期の日本です。

 この後すぐに、信子16歳の時、知人から祖父に、
見合いの話が舞い込み、本人の意向そっちのけで、
一度顔を合わせただけの、相手との話が決まり、
嫁ぐことになってしまったそうです。
嫁ぎ先は、なんと、姫路の城下町から、朝鮮の京城
(けいじょう)へ、移り住んだ家具商で、畳などの
内装業も、こなしていたようです。
もちろん、当時は、朝鮮は日本と同じ国だったので、
本人の思いは別にして、家族一同の、抵抗は
なかったようです。
「早く片付いてくれてよかった!」
という事だったのでしょうね。

 信子が後に、祖母から聞いた話として、京城に
嫁いでから1年後に、京橋の実家へ、人づてで、
「信子さんを嫁にしたい」との、縁談が舞い込んで
きていたそうです。
 そうです、卓球のうまいあの青年の家からです。
「もう嫁ぎました。」と返事をしたら、同行していた、
青年が、とてもガッカリしていたそうです。
 昭和初期、結婚と、本人の恋心とは、別物
だったのですね。
 今ならスマホで、いくらでも自分の気持ちを
相手に伝えることできますよね。
「そうか?......」
今も昔も、自分の思いを相手に伝えるのは、
胸が弾ける思いだよね。
 この話には、後話があります。
 戦後、信子が帰国して知人から聞いた話として、
その学生は、戦争に駆り出され、南国の島で、
戦士し、遺骨だけが帰ってきたそうです。
 酷いですね。

 信子の酷史に戻ります。
 朝鮮の京城に嫁いだ時、まだなんの経験もない
16歳、炊事洗濯家事全般、何も知らない、嫁が、
大阪から嫁いでいったのです。
 当然、姑からの、きついお叱りの連続は、
容易く想像できますよね。 

 この後は、
{その2ー戦争に翻弄された幼い婦人} 
 (只今製作中)

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