難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

加茂遺跡に行ってきました (兵庫県川西市)

2014年08月12日 | 旅行

平成26年8月12日

 

 川西市の 加茂遺跡に行ってきました。

 川西市は、兵庫県の新興住宅地、大阪の通勤圏で、私が越して来て、もう30年になりますが、通勤サラリーマンの私は、ほとんど地元とは縁が無く、定年になり、歴史好きの性格から、難波の宮、白村江の謎に興味が涌き、色々図書館で歴史の関連書を読み漁るうち、川西市にも遺跡があることを知り、見に行って見ようかと、尋ねてみた次第です。

 

 加茂遺跡は、新興住宅地の中ほどに、コンモリとした丘があり、近くを車で通る時や、JRの川西池田駅のホームから、南の方を見たときに見える場所です。
そこが、近畿地方を代表する弥生時代の大規模集落、つまり、この北大阪 北摂地区の中心部機構のあった場所とは、露知らずに、何時も何気に通りすぎていました。

 

 その集落の中心部が、今ある、鴨神社で、その周辺の遺跡から出てきた資料は、その遺跡のなかに造られた、川西市文化財資料館に納められているとのこと、楽しみにして、見に行きました。

 

 川西市文化財資料館につきました。いい資料館の印象。何故此処に興味を持ったかというと、先に訪問した、吉野ヶ里遺跡で案内人さんに吉野ヶ里では銅矛と銅鐸が共存していたと聞き、本で読んだ知識で、近畿では、倭大乱時代に銅鐸文化圏(弥生文化)が銅矛文化圏(古墳文化)に攻撃侵略されると言う、戦いがあったと知り、この加茂遺跡が近畿の代表的な弥生文化圏の集落で、大変大きい銅鐸が出土していたと知ったからです。

川西市文化財資料館です。

 

入り口の受付です。

 

 入口に撮影禁止の案内があったので、館内の撮影は遠慮しました。

 

 展示されている、弥生土器や、近くから出土した、大きな銅鐸のレプリカ(本物は東京国立博物館に貯蔵されている。何故ここじゃないの?)等が多く展示されており、興味を起こさせてもらえた。
祭祀場や、集落の構成が、模型化されて展示され、当時の状況が、よく理解できた。
ただ、やはり小さな地方自治体の予算的な苦しさがわかるようで切ないほど、規模が小さいと感じられたのが、正直な感想でした。
 今は現在工事中の、第2名神の工事に伴う、遺跡発掘作業を進めて折り、 その作業中に出てきた遺物を展示されていました。

 

 一通り資料館のなかを見を終え、イザ加茂遺跡現地探訪。

 

 入り口の受付で、「遺跡を、これから歩いて見に行きたいのですが、案内図か何かありませんか。」

 

「資料館のパンフレットならありますが。」
パンフレットを頂きましたが、それには初めてでも、解りやすい地図などは見あたらないので。

 

「何か推薦コースのようなものは?、どこから行ったら良いとかはありませんか。」

 

「発掘した跡はもう埋め戻されていますから、行かれても?」

 

 サラリーマン時代、営業を44年間過ごしてきた私は、会話の中で、相手がどお考えて、その言葉を言っているかを読むのが得意な為、私の心のなかに、「素人は邪魔だから、変にウロウロされると地元の人の迷惑なんです。」と聴こえて来たのは何故だろう。仕方なく。
「鴨神社が、加茂遺跡の中心地だったんですよね、鴨神社に行ってきます。」

 

「あっそれがいいです。」
 何故かとても、ほっとした顔で言っていただきました。

 

 4月に佐賀の吉野ヶ里公園に行き、この加茂遺跡も、規模や歴史的な内容も同じと、理解していた私は、その時、施設の方に熱心に案内していただいたので、こういう遺跡施設は、どこも同じぐらいの情報提供を頂けると、思っていたものだから、エッ? 規模も対応もずいぶん違うなと感じてしまいました。

 

鴨神社の入り口です。

 

境内へのかいだんです。

 

階段を登ったところに、加茂遺跡案内板

 

本宮の手前に在った、加茂遺跡案内板

 

本宮の後ろにあった、加茂遺跡社跡
埋め戻されてあった。
吉野ヶ里公園では、この場所に社が再現されていたんだけれど。

 

社跡のすぐそばから、市内が一望できた。

 

竪穴住居跡 案内板

 

竪穴住居跡

 

竪穴住居跡

 

社跡は鴨神社の本宮のすぐ後ろだったが、直接行ける道は無く、一旦鴨神社入り口まで戻って遠回りしなければ行けなかった。それも何の案内もなく。
すれちがった地元の人達に、嫌な顔をされたと思ったのは、私の気のせいだろうか?
 仮に私の家の隣が、建て替えることになり、工事中に遺跡が出てきて、私の家にも遺跡が続いており、歴史的に重要な遺跡だから、立ち退いてくれと言われたら、どうする?
私なら、本当に大事な遺跡ならと納得するかもしれないが(もちろん保証金次第)。
 女房は、必ず怒り狂って、「建て替えなんかするからや!、」隣人に大声で怒り出すだろうと想像でき、 遺跡の発掘と保存そして活用の重要さと、地元の人達の生活圏への迷惑を排除することの、重要性とのバランスはとっても難しいと感じました。

 

 この加茂遺跡は吉野ヶ里遺跡とは同時代の同様式と素人の私が感じました。
吉野ヶ里の探訪に行った時に案内の人から、まだまだこの地区を発掘して、調べたいことが多くあると、言っておられた趣旨の言葉と、今そこに、住んでおられる人達との、兼ね合いは、とても難しいと実感しました。

 

 私が、遺跡を一回りする間の小一時間、地元の人以外出会う事はありませんでした。私が、地元の遺跡を知らなかったのは、おそらく、あまり知られて、騒がれるのが、不味いという、何か圧力のような物が、在るんじゃあと感じたのは、私の気の迷いでしょうか。

 倭大乱に関して。資料館の展示等に記載された内容から、弥生時代の末期に、加茂遺跡の集落は東西に別れ極めて小さくなって、古墳時代への移行はなかったようです。
つまり、銅矛部族に敗れ、従うはめになったと言うことでしょうか?

 加茂遺跡からそう遠くない所の、能勢電車の鼓滝駅を降りて、坂道を登っていって所に、鼓滝高地性遺跡があり、此処に逃げ込んで銅矛部族に抵抗したのかもしれません?
少し話を拡げすぎたかもしれません、すみません。


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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。



2 コメント

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ありがとうございます (原始人)
2015-10-16 00:10:35
竪穴式住居跡が発掘されるまで そこで暮していた者です。貴方様のブログを読んで、なんだか自分の事を取り上げられているような、ちょっぴり嬉しい気持ちになりました。
コメント失礼します (通りすがりの現代人)
2016-11-25 15:52:11
文化資料館の近くに引っ越して1年くらいになります。子どもと行ってみようかと思ってインターネットで調べたところこちらにたどり着きました。
こんな近くに遺跡があるなんて思っていなかったので、ブログを拝見して少しこの土地に興味が持てました。
余談になりますが、周辺は借家が多く、文化遺産を守ろうなど考える余裕がある人、歴史に興味がある人は少ないのではないかと思っています。地主さんの大きな家が並ぶ場所が少し離れたところにあります。民家なのであまりジロジロ見れませんが、蔵などあり、あまり見たことがないので、つい面白いと思ってしまいました。

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