「幸せという感情について」
―ノスタルジァ―
故郷行き。―ノスタルジァの中に在る幸せという感情を探る。生きた時間、記憶されている出来事、事物。失われた時と、見出された時。
山のあなたの空遠く 「さいはひ幸」住むと人のいふ。
ああ噫、われひととと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く 「さいはひ幸」住むと人のいふ。
幸せという感情について考えてみようとしたとき、この句がまず浮んだ。少年時、私は幸せを山のあなたに見てはいなかったように思う。当面の生活、そのことで精一杯であった。後年、信州人であった友人が、山のあなたとは実感である、山に囲まれ暮らす者にとって、それは憧れであったと言った。
「幸せとは、相対的なものである。」「幸せとは、人それぞれに多様なものである。」「幸せとは足ること。」と、人は幸せをいろいろ定義をしてみるが、人はその人それぞれの幸せというものに向かって生きていることには違いないのだった。
唐突に思い出したのは、芥川の『蜜柑』であった。奉公先に出向く娘が、列車の窓から、踏み切りで見送る弟たちに投げ放った、鮮やかな蜜柑の黄色と、その光景を見ていた芥川の、人に寄せる感情の中にある、幸せというものに接した時の喜びが描かれてあった。
そういえば、ドストエフスキーの中にもあった。囚われの日、突然に思い出した少年の日の記憶、狼におびえた私を、貧しい農奴のマレイが「坊ちゃん怖がらなくてもいいよ」と、十字を切ってくれた光景のこと。
幸せという感情が、見出された時の中にあるような気がする。私にとって故郷行きは、こうした私の見出される時の喜びであった。
私は私の幸せという感情を探ってみようと思う。
私は養護施設に来てまだ間がなかった。昼休みの喧騒の校庭に、一人片隅で。過去を反芻していた。切り替え、慣れていかなければ――。
「俺、初美、横山電気の、」
「俺と親友にならないか」
少年が私に近づき言う。
私は一瞬戸惑っているが、その少年の満面の笑みを浮かべた、そばかすだらけの顔を見て、
笑い返している。
私はこの何年間接したことのない、さわやかなものに出会っている感じがして、心ほころんでいる。
「ああ、いいよ」
私は自然の成り行きのように答えている。
「これは親友の証だ」
そう言うと、少年はポケットから何かを取り出した。星の形をした1センチほどの鉛を削って作ったメダルだった。手に取りよく見ると、星の山を立体的に浮かび上がらせ、精巧な作りだった。
「俺と、お前と一個ずつ」
少年は同じものを、もう一つ見せる。
会うのは10年振りになる初美君を前に、50年前の光景を思い浮かべていた。
「最初に出会ったときのこと覚えている?星のメダルをくれて」
「そんなものあげたかなー」
照れくさそうに笑っていたが、本当に覚えていないようだった。私はそのことを切っ掛けに、
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