個人誌 『未踏』

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コロナ・失語症日誌

2024-05-15 23:37:30 | 文学

 

コロナ・失語症日誌

              山口和朗


3.11以前、2007年の日付、私の「忘れ得ぬ人々」「人間喜劇」「見出された時」「千曲川スケッチ」「掌の小説」と題した、ノート草稿、過去にも幾度も書いた、私の記憶の断片、私という存在を、物語や、虚構で構築するのではなく、出来事と同じように、私対世界として追体験する試み、私が書くという行為は、この作業に他なく、それが生身の私を生くということと、が、3.11で中断されてしまった、以来、続原発震災日誌、続々、と原発をテーマに書き継ぎ、もはや書くこともないと、世界を諦観していたその時へ、コロナパンデミックが始まった、世界はコロナをやっている、私は私の世界をと、
最初の時を最後のスタイルで、

「グミの木」

私が、坪田譲治「樹の下の宝を」書くとすると、思い出すものが限りなくあふれ、人があって、時があって、出来事があって、その記憶を紐解ける、しあわせという感情に、坪田譲治の童話がそうしたもので構成されているとわかる、私は、誰にでもあるそうした、しあわせという感情の根源を、私なりの形で探り、定着させてみたいと思う、

例えばグミの木、本家の敷地には太い桜の木と、グミの木が家の両側に在った、春にはその桜の木の下で親戚が集い、夏には、そのグミの木の上で、拡がる田んぼを眺める私が、「三太と父」の一部始終を見ていたグミの木、仮釈放でその日帰ってくる父を待つ、小4の私がそこには、グミの木から抱き下ろされ、頬ずりする父の髭が痛かった、「もうどこへも行かないで」やっと出た言葉、数少ない父の記憶が、そのグミの木には埋まって在り、

これら、3.11以前の、私の時、という感情、再び、呼び戻せるだろうか、世界がどのようであっても、私対世界という、私を生きるという世界が、
武漢の映像、人がバタバタ倒れている、街が封鎖され、畏れていた感染症爆発、

レイトスタイルの、最後の作品を書こうとしていた、
3.11以降の絶望主義とは違う、私の「最初の時」を、これら、意識の流れで良い、草稿の挿入、点描、そして、コロナ日誌へ、
が、これら、3.11以降の感情が戻るだろうか、
世界が、絶望しないことに絶望すると書いた、続々原発震災日誌、

「在るということ」

宇宙は、世界はどのように出来ているかは、証明がつけられる時が来るかもしれない、が、そのことが一体何なのかは、証明がつけられない、この石が、この世界が何故在るのか、在るから在るとしか言いようがない、
在ることとは、無を考えることによって誕生した疑問で、無を考えなければ全て有、存在なだけ、ビッグバンも、世界存在の様々な学説も、全てが存在の、無限の中での普遍の出来事にすぎず、人がどのように、何を発見し、何を変えようと、全ては在ることの繰り返し、
世界は、在る、在った、在るである、人の痛み、悲しみ、不安、全て有機物の属性、
E=mc2であろうが、なかろうが、そのように在るだけである、在ることとは、どのようであっても、在る、なだけである、

人存在の実存は自明であるのだった、人を生きるとは、一人立つ世界のように、私と世界、私と時、私と物、私と人生という、私という分離された、もう一人の私自身であることの、この恍惚と人の意味、猿から人への、今人を生きていることの、私が書かねばとするのは、
ここだろう、誰かのため、何かの為ではない、
私自身の時についてを、

「ブログ15年を経て」

ブン介護の大変さに、介護を楽しむように、ブンの介護日誌をつけようと始めたブログ、ブン亡き後訪れた、所有可能な時間、これからは、やっていきたいことの為に、費やしていこうと、
●クラッシックの全作曲家を聴いていく、
●近代以前の全芸術家の作品を見る、
●蔵書の全集類の全作品を通読する、

これらを、楽しんで、おやつを食べるように、やっていこうと、青年時代、やりたくてやれなかったこと、労働と、活動の日々、世界を楽しむ余裕が持てなかった、今ネット時代となり可能にと、

リブログ(111)twitter(341)原子力に反対する100の理由(68)流してはマズイ情報を伝えるメディア(13)
 合計422

50音順作曲家一覧(1669)50音順楽器一覧(128)バロック音楽作曲家Ⅰ(154)バロック音楽作曲家Ⅱ(175)オペラ作品一覧(22)チェリスト(26)ニューエイジ音楽(47)ムード音楽(21)レクイエム・ミサ(53)世界の民族音楽(129)人類の無形文化遺産(256)世界のその他の音楽(23)女性フォークシンガー(28)室内楽曲(7)指揮 者一覧(16)今日の一曲(13)映画音楽(5)中世 音楽(65)朝のバロック(103)演奏家・ソングライター(167)
 合計3107

私の探求(29)旧稿Ⅰ(75)旧稿Ⅱ(29)旧稿Ⅲ(39)十六歳の日記(3)現象学日記(30)今日の涙Ⅰ(31)今日の涙Ⅱ(37)散文詩Ⅰ(41)散文詩Ⅱ(29)介護日記(39)私のシチュアシオン(9)私のカイエ(47)創作ノート(22)実存主義・哲学(34)哲学 岩波講座(30)日本児童文学大系(34)日本古典文学大系(51)世界文学大系(45)20世紀の文学(87)現代日本文学全集(35)原発震災日誌(10)続原発震災日誌(76)続・続原発震災日誌(55)
 合計4023

ファブリ世界の名画(59)世界の画家一覧(169)美術鑑賞記録(12)近・現代画家(38)
 合計278

ドキュメンタリー映画(73)映画鑑賞記録Ⅰ(80)映画鑑賞記録Ⅱ(9)世界の映画監督(31)
 合計471

デジタル一眼レフⅠ(459)デジタル一眼レフⅡ(55)写真家一覧(34)
 合計1019

検索記録(213)TV鑑賞記録(15)その他(19)
 合計243

 総計9563 

ブログ開始、2007年2月、以来15年、年637回、 月53回アップ、良くやってきたものだ、3.11で世界の見方が変わっても、楽しんで生きてきたのだった、文学、絵画への興味は失せ、もっぱら音楽の視聴だけとなったが、ツイッター、フェイスブック、ユーチューブ、映画鑑賞と、ブログは続けている、

「人の発達」

進歩と成長~何が良くて何が悪いかを、グルニエが言うように、人は現象、結果、功利によって判断している限り間違うと、産業革命以降続けてきた、科学の進歩と発展、どれも良かれと、人の意思する力で進めてきた、神から、非合理から自由になり、特権位置を得、悲惨はあるものの、存在を謳歌してきた、
資本主義という、自由主義という、論理のレールに乗り、勝てば王となる、経済生産力がおこぼれを配り、多数が栄え、あの手この手と、科学は経済となって、更なる地球システムの改造を行っている、人口削減、持続可能な開発と、原発、核、を棚に上げて、遺伝子組み換え、人サイボーグ化、AI、と、

「味わい」

考えたことを確かめること、味わう日常の喜び、偽りなく喜べる、時の中を生きていることの、行為に、時の中の出来事に、良し悪しはなく、どれも等しい、掛けがえのない私の時、
余命、おつり、間違っていたら、転移の不安を生きている友等を見るなら、喜んで、丁寧にじっくりと、時の存在を、
何の繕いもなく、今という時の中を、
私は何処から来て、何処へ


骨拾い  

2017-04-09 11:30:48 | 文学

                             

 抜けるような初夏の青空が拡がっていた。時折、汗ばんだ私の頬を風がなぜていく。 
 丘の上の白い建物は、昨日と変わらず花壇に色とりどりの花が咲き、洋風のシャレた玄関には真鍮の把手がまぶしく光っていた。外見からは郊外の閑静な療養所といった感じ。
だか一歩玄関を入ると、正面に背の高い鉄格子の扉が立ち塞がり、その奥に続く長い廊下には、時々丸刈り頭の青い服の囚人が行き来する。
 私は父がまだそこにいるような錯覚を覚える。

 入り口の事務の窓口に叔父が顔を出す。
「眠れましたか?」
 昨晩、通夜に付き添ってくれた歳老いた看守が出てきて挨拶した。
「おかげさまで」
 叔父がにこやかに笑う。昨夜、私は一睡もしていなかった。叔父は暗い官舎で鼾をかいて寝ていた。
「火葬の手続きは取ってありますから」
 看守が書類を示した。
「これは、棺桶代です」
 看守が金参千円の領収書を見せた。私は父が貯金していた一万数千円の中から支払った
「まもなく、霊柩車は来ます」
 若い事務服の男が告げに来た。
「火葬場までは三十分程です。私が御一緒しますから」
 老看守は叔父に火葬の手順を説明していた 私は鉄格子の向こうをなるべく見ないようにしていたが、静かな所内には物音がこだまのように私の耳元へ届いた。人の声、物の触れ合う音、時々建物を振るわせるような扉の閉まる音、私はいっ時も早くここを立ち去りたかった。父の事は忘れて、田舎を出たかった。

 霊柩車と私達を乗せた車が刑務所の門を出た。車窓には田植えを済ました緑の田が五月の青空を映して拡がっていた。
「お父さんは可哀相な人でした」
 隣に座った老看守が呟くように言った。
 私は「エエ」と言ったが声にならなかった。父を語る資格は私にはなかった。
「早いもんですなあ、十年なんて」
 叔父が私に変わって看守と話した。
 叔父は父の義兄で、唯一人の身受け人だった。                  
 父は十年前、私が十歳の時、尊属殺人未遂放火の罪で十年の刑を受けた。今年がその十年目で、あと四十日で出所という時、「心臓麻痺」で獄死したのだった。

 火葬場は山の中腹にあった。
コンクリート造りの鼠色の建物。先の方が煤けて黒くなった煙突。人の骨くずが混じったような、黄色の山肌に赤松が生めかしく周囲をとりまいていた。
 私は息苦しくなる。学生服の詰め衿のホックをはずす。
 眼下は緑、もやがかった平野にのどかな町が横たわる。
「こっちへ運んでくだせえ」
 人影のなかった建物から訛のある声がした。私と叔父が棺桶の前を持つ。運転手と老看守が後ろを持つ。坂になっていて足が滑る。「気をつけなすって」
 老看守が言う。
「そこへ置いてくでせえ」
 職員が粗末な石の台を指差した。
 焼却炉が黒い蓋を開けて待っていた。杉板を挽いただけの父の参千円の棺桶が置かれた。
「最後のおわかれをしてくだせえ」
 タバコのヤニで黒くなった歯を見せて職員が言った。
 私は汗が脇に滲む。
 老看守が帽子を取って瞑黙する。
 最後の父を見る。
 丸刈りの青い服の父。
 焼却炉の扉が閉まる。

「焼けるまでどの位かかるかのう」
 叔父が職員に聞いた。
「二時間や」
「そんなにかかるかのう、重油でやっとるんやろ、今は」
 叔父は満州で死体を焼いた経験を職員と話していた。
 間もなく焼却炉にバアーナーの着火の音がした。
「待合室に行こうか、ここは臭くてたまらんわ」
 叔父が顔をしかめた。きな臭い、いやな臭いが辺りに漂った。

「これからあの息子さんは」

 老看守が叔父に聞いた。
「大学へ行くと言っとりましたが」
 私はこの春、進学しようと再婚した母の居る東京へ行こうとした。だが叔父が私を引き止めた。

 私の手紙
御免下さい。
お父さん、たよりも出さず御免なさい。僕達は毎日楽しく元気に生活しています。お父さんいつか古井に住んで生活していた時、父は「全科目、皆五を取ったら自転車を買ってやる」と言いなさった事覚えていらっしゃいますか。僕は今だに忘れず、一生懸命勉強しています。まだ自転車はいりません。僕は二月期の学習成績は、算国社が組の中で前から三番で、オール五はとれませんでした。それは僕たちのクラスでは五が二人しかつけられないからです。行動のようすはオールAです。今はクラス委員長を任命されています。学習は三学期はしっかり勉強します。僕、妹、母父の幸福は一家そろって生活出来る事です。
 ではお父さんお体をたいせつに。
  さようなら。      一月一日

 昨夜、父の遺品の中にあった、私が小学五年に養護施設から出した手紙だった。
「忘れはせん」と、父の言葉が書き添えてあった。
          
 母の手紙
御免下さい。
朝晩めっきり寒くなりました。
其の後お変わりなくお暮らしですか。私もお陰様と無事に働いて居ります故、御安心下さいませ。月日の立つのは早いもの、今年もあと一ケ月ね。何時面会に行っても元気なお姿を拝見致し心から喜んで帰りますの。
今更申すまでもありませんが、私がいたらぬ女故、可愛い子供、又、貴方様にも淋しい想いをさせたのが、貴男の心を傷つけ誠に申し訳ない事をしたと心から悔やんでいる私です。
何と思っても過ぎ去りし日を悲しんでもどうにもならない故、今度お迎へする日まで少しでも貯金を致し、家族揃って今度こそは楽しい家庭を築こうと今から考えています。
 貴男様は何も心配なさらず、一日も早く模範囚になって下さいね。どうか御無事でお働き下さいませ。
               昭和三十四年十一月二十九日

 母の一番日付の古い手紙だった。
私も、母も、まだその頃は父を中心に生活していた。それが、私の中学三年の時、母が再婚話しを始め、私も高校進学を考え、いつしか父に便りをしなくなった。

 父の日記
前略、必ず面会にいくからそれまで待って下さい。返事で淑子あれこれと七ケ月も過ぎ、過去より現在までを延べる。恥ずかしい事情は誰彼言えず、それにも拘わらず現在の状態を黙殺して満足の砌。俺が腸が痛む故寝て居る時、父兄はお前に別れよと言われて、その事で自分は放火で思いしらせなくてはと、話し合い、其の話し合った事を兄が聞き自分らに両手を付き涙を出して謝る事を見捨てて、どこまでも実行する事になった。其の時にお前が家へ相談に行き、話によればなんでも良い怒らせない様に籍をとれと言われたと、泣きながら話してくれた事を知っているからこそ、お前を信頼していたが故に、子供を任せ菊松方で居る事に話が決定し、五日過ぎて、お前に情無い意地を出しても、どうしてもお前や、子供の将来の事を思うと出来ないから頼む帰ってくれと言うと、何故やらないの、意気地なしと言われ、それでもすまぬ、ごがわけば俺をなぐれとまで言った。間もなく明日来ると話が決まり、来るのを待っていても帰りがないのでやれと言う事で身を隠したに間違いないと思い、全焼になれば俺は死ぬとまで口にした事やら線香まで立ててやるとまで話し合い、何も思い残す事なく実行した。 中略
 毎日お前らの事は少しも忘れず四年も過ぎこれから後も妻子の存在が生きる喜びと明るい希望を抱かせてくれる事は間違いない。 もし淑子、弐拾日までに面会に接しなき時は絶対に現在までの状況は右の魂胆と見做す。 以上 昭和三十七年九月十六日書く。
 発信不有止の為出せない。

最近だった。父の出所が間近だと知らされ、私は叔父に請われるままに「待っています」と手紙をだしたのは。

 父の日記
現在左の腕は片輪にされた。四拾弐年参月九日、薬を服用しろと医務は言う。服用しない「服用せな」「医務はそれなら電気をかけるかも知れない」と言う。脅迫で。以前に電気を受けて、意識が着くまで弐拾日経過して居る。経過後参ケ月、回復と申したいがカチカチは昼前でも鳴るのは同じで以前より悪用したので一切を身を守為に薬を服用願う。参月九日書く。拾日より朝夕と薬がくる。服用するとこめかみの部分が脈動して痛い。胸や脳が苦しくなるし、毎朝起きると口ビルがビラビラにバサバサに成って居る。手紙を書きたいが付嘱を書く事が出来ない。五月四日書く
 父の雑記帳の最後のものだった。

 私は再婚した母の幸福を考え、出所後の父を思い、田舎に留まった。        
 その日、私は学校から帰るとグミの木に登ったり降りたりして、父の帰りを待った。
 田んぼでは田植えも終わり、麦刈りが始まっていた。グミの木は家が高台にあるうえ、一番高い場所で、村が一望出来た。菅笠を被って野良仕事をする人々。日傘をさして田中の道を歩いてくる女の人。チャンバラごっこをしている子供達。その中を父は真っすぐ、このグミの木目指して帰って来るはずだった 私は紅いグミの実を選んでは食べながら父を待った。何時に帰って来るかは解らなかったが、今日帰って来ると伯母は言った。
 私は、どこへも行かないで待つ積もりだった。

一ケ月前、父は私が学校から帰ると放火未遂で手錠をはめられ、警察へ連れていかれる所だった。私に声をかける暇もなく父は連れて行かれてしまった。本家の祖父の居る家の畳が黒く焦げて、煙が所々たちのぼっていた「坊は向こうへ行っとれ」
 祖父の言葉に私は裏山へ逃げて行った。
 暗くなるまでカシの木のざわめきを聞いて山に隠れていた。
 叔父の家で、従兄弟達に交じって食事をする事が辛かった。
 「遊んでばかりいないで、飯を喰わせてもらっているんだから仕事を手伝え」と言われヤギの餌の草刈りや、お蚕の桑の葉つみも学校から帰るとやってきた。
 今日からは父が帰ってくる。
 父はなかなか道に見えて来なかった。何度もグミの木と下の道を往復した。
 歩きかたで判った。ゆっくりと自分の歩調で、真っすぐ前を向いて歩いて来る、白いワイシャツ姿の父だった。
 父が私を見付けた。私はゆっくりやって来る父をじっと待った。
「坊元気だったか」
 私は身体が強ばってグミの木から降りられなかった。
 父がグミの木の下まで来て「どうした」と笑った。
 私は枝にしゃがみ込んでしまった。
「ほら、降りて来い」

 父が手を差し出した。
 私は父の胸に抱きかかえられた。
 私が泣き出すと父も泣いた。「ゴメンな」と言って父の涙が私の頬に落ちてきた。
 父が頬ずりしてきた。髭が痛かった。脇臭の匂いが息苦しかった。
「もう行かないで」
 私はやっとこれだけを言った。

 私は小学三年生の時のこの記憶を頼りに、父の帰る日を待ったのだった。

「焼きあがりやしたえ」
 職員が伝えにきた。
 まだボソボソと煙が立ち昇る、赤い火だまりの鉄の箱が炉から取り出された。
 紫に焼けただれたその鉄の箱には、父の骨がネリミルクのような白さで光っていた。
「四十二歳だもんな、骨がきれいやわ」
 叔父が足の方を拾った。
「ほら、早くそこにある咽仏を拾え」
 私がいつまでも箸を持ったままでいると叔父が促した。
 私の額からは汗が吹き出ていた。
「さあ、このくれえでええやろう。」
 叔父が箸を置いた。
 私は骨拾いをやめられなかった。
「そんなに骨壷には入らんぞ」
 叔父が笑った。
 私のブリキ缶には軽石のような鼠色に変わった骨が山になっていた。
「本当にもうええぞ」
 叔父が再度言った。
 職員が骨を白い壷に流し入れた。入りきらなかった私の拾った骨は元に戻された。
 箸を置いた私の手に痛みが走った。いつしか赤く充血し、火傷を負っていた。
                            了


「幸せという感情について」 ―ノスタルジァ―

2017-04-09 10:53:03 | 文学

「幸せという感情について」
―ノスタルジァ―
 
 故郷行き。―ノスタルジァの中に在る幸せという感情を探る。生きた時間、記憶されている出来事、事物。失われた時と、見出された時。              
 
山のあなたの空遠く 「さいはひ幸」住むと人のいふ。
ああ噫、われひととと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く 「さいはひ幸」住むと人のいふ。
 
 幸せという感情について考えてみようとしたとき、この句がまず浮んだ。少年時、私は幸せを山のあなたに見てはいなかったように思う。当面の生活、そのことで精一杯であった。後年、信州人であった友人が、山のあなたとは実感である、山に囲まれ暮らす者にとって、それは憧れであったと言った。
「幸せとは、相対的なものである。」「幸せとは、人それぞれに多様なものである。」「幸せとは足ること。」と、人は幸せをいろいろ定義をしてみるが、人はその人それぞれの幸せというものに向かって生きていることには違いないのだった。

 唐突に思い出したのは、芥川の『蜜柑』であった。奉公先に出向く娘が、列車の窓から、踏み切りで見送る弟たちに投げ放った、鮮やかな蜜柑の黄色と、その光景を見ていた芥川の、人に寄せる感情の中にある、幸せというものに接した時の喜びが描かれてあった。
そういえば、ドストエフスキーの中にもあった。囚われの日、突然に思い出した少年の日の記憶、狼におびえた私を、貧しい農奴のマレイが「坊ちゃん怖がらなくてもいいよ」と、十字を切ってくれた光景のこと。
幸せという感情が、見出された時の中にあるような気がする。私にとって故郷行きは、こうした私の見出される時の喜びであった。
私は私の幸せという感情を探ってみようと思う。

私は養護施設に来てまだ間がなかった。昼休みの喧騒の校庭に、一人片隅で。過去を反芻していた。切り替え、慣れていかなければ――。
「俺、初美、横山電気の、」
「俺と親友にならないか」
少年が私に近づき言う。
私は一瞬戸惑っているが、その少年の満面の笑みを浮かべた、そばかすだらけの顔を見て、
笑い返している。
私はこの何年間接したことのない、さわやかなものに出会っている感じがして、心ほころんでいる。
「ああ、いいよ」
私は自然の成り行きのように答えている。
「これは親友の証だ」
そう言うと、少年はポケットから何かを取り出した。星の形をした1センチほどの鉛を削って作ったメダルだった。手に取りよく見ると、星の山を立体的に浮かび上がらせ、精巧な作りだった。
「俺と、お前と一個ずつ」
少年は同じものを、もう一つ見せる。

会うのは10年振りになる初美君を前に、50年前の光景を思い浮かべていた。
「最初に出会ったときのこと覚えている?星のメダルをくれて」
「そんなものあげたかなー」
照れくさそうに笑っていたが、本当に覚えていないようだった。私はそのことを切っ掛けに、