鳥と犬と猫と、ときどき雀

ー鳥2羽と保護犬2匹と捨て猫2匹との生活を綴ったブログですー

八割れ猫ウニとシッポナの成長度の違いから思うこと

2022-06-15 | 猫のこと

捨て猫として家に保護された八割れ猫のシッポナとウニはこの6月で1歳になりました。(獣医の保護当時の月齢から換算して)450-500gだった体重も3kを超え、兄弟なのに個性も全く違う成猫に育ちました。

 

シッポナは変わらず自由猫で、ちょっとしたドアの隙間を狙ってベランダや廊下に逃げ出したり、餌を準備する間、廊下で待機させるのですが…、ドアも開けて入ってしまいます。そのバイタリティーたるや物凄くて、これは外に出てしまったら帰って来ないだろうと予想するほどです。

一方ウニは、慎重で怖がりで甘えん坊でいつもシッポナが出ていった方を眺めて覗いてから意を決したように出ていきます。

観察していると、シッポナの方が強いイメージです。

 

ところが7か月目に入ったことから、ウニがシッポナを追いかけて首当たりを噛んで押さえつける仕草を見せるようになりました。シッポナは「ウギャ~ッ」と鳴いたり「シャーッ」と怒りますが、抵抗もせずにいます。(しないのではなくて出来ないのかもしれません)

ネットで調べてみると、どうやらマウンティング(どちらが上位者かを示す行動)をしているようです。

保護した当初からウニの方が体格が良かったのですがウニの顔が丸くなってきています。そういえば狩猟本能はシッポナより強く鳥を放鳥すると狙いを定めた姿勢をとるので、別部屋で待機してもらうようになりました。

 

かかりつけの獣医によれば、オス猫は縄張り争いにも耐えられるように頬の皮が厚くなってくるため横長の平たい丸い形になってきます。これはオスのホルモンが色濃く出ている証拠です。

 

猫の世界では顔が大きいほど強いという説もあるほどで、まさに面の皮が厚い猫ほどボス猫の素質があるという訳なのです。

ウニは自分の方がボスであることをシッポナに教えているのだろうと思うのですが、そういえばシッポナの顔の輪郭は赤ちゃんの時のままの▽顔で、あどけなさが残っています。(分かりにくいですが、写真の上がシッポナ下がウニです)

同じ日に生まれた兄弟でも成長度の違いがあり上下関係があることを初めて知りましたが、本能が色濃く残っている証拠なのでしょう。

 

そんなウニとシッポナの行動から人間の成長度の違いに思いを馳せました。

一般に人間の成長度は年齢、肉体の成長であると思いがちですが、年配の人でも自己中心の人がいたり我がまま放題の人がいたりしますし、若くても謙虚であったり奉仕の精神があったりと心の成長と年齢や肉体の成長は関係ないように感じます。

また一人ひとりの考えが違うことからも成長度とは、見た目ではなく人間の本質に関わる問題なのだと思います。

 

そこで地上での成長度の違いに触れているシルバーバーチの言葉を抜粋してみたいと思います。(*1)

「地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。

霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上はさまざまな発達段階の者が混ざり合って生活しております。

ということは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。

かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。

そこに地上生活の存在理由があるのです。

そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。

言いかえれば地上は学校です。

そこでいろいろと学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活に必要な教訓を身につけるのです。

苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです」

シルバーバーチの霊訓10 P187-188

 

このシルバーバーチの言葉の「地上は学校」というのは驚く表現だと思いますが、よくよく考えてみると人間同士、家族といえども考え方の違い視点の違いがありTVのニュースなどを見ていても、こんな風に考えているんだ…と思うことがしばしばです。

私は実母と同居していますが、母は子どもの虐待のニュースを見るたびに、「まだ小さいのに可哀そう、痛ましいわ。」と口癖のように言い、娘は「虐待するくらいなら生まなければいいのに」と、シラッと言います。

夫は「可哀そうだけど、死後の世界の方が幸せなんだろう」と話し、私は、「この子はどういう思いでこの親のもとへ生まれることを決意したのだろうか?」と考え、「苦しくて辛かった体験の埋め合わせがなされることを願ってしまいます」そして「親の行為は明らかに摂理に逸脱していますし、霊界では子どもを大切に育てようと決めてきた約束を果たせなったということで、死後には大きな後悔をするのだろう」…と、心が重たくなります。

話は逸れてしまいましたが、何を言いたいかというと人はそれぞれの視点で考え判断しているということで、その考えや判断というのは一人ひとりの意識の段階で変わってくるということなのだと思います。

 

シルバーバーチが言うように、地上世界は発達段階の違うものが混ざり合って生活していて、この体験がとても大切なのだと思いました。

どう大切なのかといえば、成長の違いから意見の衝突があったり、人から責められたりと人生は良いことばかりでなく自分にとって辛いことや苦しいことが多々ありますが、自分とは違う考えという対照的な思いは視野を広げてくれるからです。

 

地上が学校で、今誰もが体験を通して学んでいるのだと思うと、相手の言葉や行為は私にとっては成長のためのものになります。その言葉や行為を自分がどう受け取り、どう対していくかによって教訓を身につてけていけるのです。

まさにシルバーバーチの言葉の通り、苦悩は喜びなのだと思いました。

またその人がいればこそ、教訓が得られるのですから誰もが貴重な存在となれば、むげにその人のことを嫌うことはできません。私の心の成長の教師としての役目を果たしているのですから…。ありがたく受け入れて、自分の言葉や行為を正すのが良いのだと思います。

 

反対に相手にとって私は忌み嫌う存在というわけですが、ということは私は相手にとっての学びの存在になっているということなのです。こう考えると地上生活の存在理由は貴重なのだと感じますし、神の創られた世界は本当に叡智にあふれているのだと感嘆します。

誰もが存在する意味があり、互いに影響を与え合っているということなのです。

 

また私たちは苦悩ばかりではなく、心を温める出来事や嬉しいこと、人から親切にされることも沢山あります。

先日、重たい荷物をもって階段を上る私に「俺が持っていくよ」と息子が声をかけ変わって運んでくれました。何でもない日常の出来事ですが、こうしたちょっとした親切に私たちは喜びを感じ心を温め、今度は自分が親切にしよう!と思えます。

小さな親切は親切を呼び、その親切はどんどん広がっていくのだと思います。

例えば日本で災害がおきると各地からボランティアの方々がやってくるのもそうなのではないでしょうか。それを見て自分も参加しよう!という思いになるのだと思います。

 

他者の考えに共感したり、疑問が生じたり、嬉しかったり、ムッとしたりする経緯から、学んだり反省したり、励みになったりできるのです。

光があれば闇があり温かさがあれば冷たさもある中で、今いつか住むことになる霊の世界での生活に必要な教訓を学んでいるのだな…としみじみ思い、シルバーバーチの言葉は貴重な時間を無駄にしたくないと感じさせてくれます。

 

しかし地上人の多くが地上限りの人生と思っていて、どうせ一度限りの人生なら好き勝手に生きようと考えていたり、死後の世界があることや今地上で生きている意味を見出せずにやけになったり、心の病に苦しんでいたり、自ら命を絶ってしまったりする…のだと思うと、地上生活の存在理由を知ってほしいと思います。

苦しいことも死後の世界での喜びを心に乗り越えてほしい、親切を更に広げてほしいと…そして何より自分がそうでありたいと切に思います。

ウニとシッポナのマウンティング行為のことを思い出しながら、そんなことを思った6月の雨の午後でした。

 

 

(*1)「シルバーバーチの霊訓」シリーズは、現在スピリチュアリズム普及会で復刻・出版されています。
 
(*2)  「関東シルバーバーチの会」という、「シルバーバーチの霊訓」を学ぶ読書会のメンバーが「あいのしんこと舎」を設立し、自費出版にてスピリチュアリズムの知識を分かりやすく絵本にしました。

その中の「コトとシンのうちゅういちすてきなおはなし」と、  「コトとシンのうちゅういちたいせつなおはなし」には、「全ての存在が進化・成長することの大切さやそれを願う神の心」が描かれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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