痛い(州´゜◆゜)>イタタ ★☆★☆日記

私の思う日々の疑問を伝えてみたい。

罪の意識のあるなしを越えて神の愛のしるし。

2022-04-15 16:20:02 | 日記

 

罪の意識のあるなしでたとえゆるされていると

聞かされても喜びの度合いはそれぞれに違って来るのでしょう。

「多くゆるされた者は多く愛するようになる」

 

わたしは多くの過ちを犯してきたと思う自覚があるのも

自分を照らす光を持っているからでしょうか…。

罪意識の高さ、低さと言うものがあるとするならば、

この罪に対しての概念や教えが分かっていないと

正しくは自分を見ることはできないのかも知れませんね。

 

十戒のおしえ、おきてに反すること、福音書に書かれて

いること…神のおしえが規範になっていないと

多分人間は自分を規範にすると、自分にも人にも甘くなるか、

または自分にも人にも厳しくなるかになってしまうのかも知れませんね。

 

神様の教えはすべての人間にとって必要なことだと

思いますね。

神によって造られた人間は神様の教えによって

真の幸福に至るように招かれていますから。

罪と言うものがどんな風に人間を苦しめ、霊魂を

傷つけることになるのか、

罪を犯したことが多少でもあるのならお分かりになるでしょう…。

 

そしてゆるされるという恵みを受けた人ならその喜びが

どれほどかよく分かると思いますね。

罪意識が強すぎてそのことに捕らわれてしまうと

心の自由が奪われてしまうような気がします。

 

そもそも完全ではない人間はその人の心のままに

生きていて罪の自覚があればそれを避ける努力をし、

また犯してしまった罪に対してはゆるしをいただくように。

その繰り返しが人間であって、過度に自分を

追い詰めることはしなくてもいいんだと思いますね。

 

この世の罪(犯罪)は法律が裁きますが、聖書がいう

心と行ないの罪は神様がゆるしてくださいます。

ゆるされた喜びをかみしめて、感謝の内に歩めますように。

キリストの十字架はゆるしの象徴であり、神の愛のしるし。

それを無条件に誰でも受け取ることができるのも

神様からの全人類への救いのみわざだと思うのです…。

 

 

                 

 

 

 

 

 


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