まず注目したいのは、冒頭の雨の描写である。
「濡れはしないが、なんとはなしに肌の濕る、霧のやうな春雨だつた」
「春雨」という言葉ひとつで、この物語全体を表していると言っても過言ではないだろう。詩歌にもよく用いられる季語としての意味は、「しっとりと暖かく降り包む春の雨」である。静かに細々と降り注ぐ「春雨」が、詩的な情景を連想させ、この短い物語がまるでひとつの詩であるかのような錯覚を起こさせる。また、俳句のように短さの中にも凝縮された風情が感じられる。
川端は、『雨傘』が収められている「掌の小説」について次のように述べている。
「この巻の作品の大半は二十代に書いた。多くの文学者が若い頃に詩を書くが、私は詩の代りに掌の小説を書いたのであったろう。無理にこしらえた作もあるけれども、またおのずから流れ出たよい作も少なくない。今日から見ると、この巻を「僕の標本室」とするには不満はあっても、若い日の詩精神はかなり生きていると思う」
『雨傘』には自伝的な要素があるといわれているが、それが露呈していないところがまた詩的な要因であろう。
「春雨」には他にも様々な効果がある。少年少女の淡い初恋の背景として、「霧のやうな春雨」は相応しい。しかし冒頭の雨と最後のシーンで二人が傘を差す時の雨とは、別の効果があるといって良いだろう。それは二人の成長である。むしろ大人になった少女の方を表しているのかもしれない。少女が少年の傘を持って写真屋から出た時の少し大人びた姿に、「春雨」のしっとりとした情景はそれもまた相応しいだろう。また、冷たい雨ではなく、暖かさのある雨だからこそ、まだ始まったばかりの二人の小さな恋を優しく見守ってくれているような安心感がある。最初はまだ二人とも一つの傘に入りきれず、体が半分濡れている状態だったが、「春雨」でずぶ濡れになることはない。傘を差すか差さないか迷うほどの細い霧のような雨が、傘の中の彼らを包んでくれているのだ。
そしてはにかんでいた若い二人の距離を縮ませた「写真」。まず、この写真は少年の父親が転任するにあたっての別れの写真ということだが、一体誰との別れだろうか。父親へ渡すための写真であるとすれば、少女が一緒に写る理由がない。つまり、少年は父親と共に引っ越すことになり、これは少女への別れの写真なのではないだろうか。官吏の息子である少年はこの地で少女と出会い、記念に最後の写真を撮ることになったのだ。まだ二人が出会ってから日が浅いのか、お互い恋心を抱きながらも恋人同士といえるほど親しいわけではないだろう。カメラの前というものは、たとえ二人のような状況でなくてもどこか照れくさいものである。構えようとしてぎこちなくなる自分の姿が目に見えるからである。特にこの二人の場合、店に入る前からかなりぎこちない雰囲気が漂っている。恥ずかしさを引きずったままカメラの前に立たされ、一つの傘でやってきた二人は極めて緊張しているのだ。写真というものは一生残るものである。おそらく最初で最後のこの写真を、二人は最高のものにしたいと考えているはずである。せめて写真の中だけでも二人のつながりを残そうと、少年は少女の指に触れるのが精一杯だったのだ。これは二人がカメラの前という特殊な空間にいたからこそ出来たのかもしれない。互いが目を合わせることなく、緊張している中で、少年はさりげなく少女に触れることが可能となったのだ。
「一生この寫眞を見る度に、彼女の體温を思ひだすだらう。」
写真に写るとき、その写真を見るときのことを考えるのはごく自然なことである。少女に触れた少年は、その後彼女の髪の毛を気にする気遣いができるほどに成長している。そして少女が化粧室に駆けて行った後、しばし二人は一人の時間を持つことが出来たのだ。そこで少し二人の間の緊張がほぐれ、少女は少年のおかげで明るさを取り戻し、その姿を見た少年もまた明るい気持ちになる。写真という不思議な空間から逸脱した瞬間をきっかけに、二人は真の自分を取り戻すこととなったのだ。写真の中では二人の時が止まり、それが未来へと残されていくことを確認した時から、二人は少し大人になり、夫婦のような一体感が芽生えたのだ。
「春雨」「写真」「傘」―これらは会話もほとんど交わされることのない二人を結びつけると共に、小説の中に詩的情緒を滲ませる役割を果たしていたのだ。謙虚で奥ゆかしい、まさに日本的な詩情あふれる作品と言えるだろう。
〈参考文献〉
・『掌の小説』 川端康成 昭和四十六年三月発行 新潮社
・『入門歳時記』 大野林火著 二〇〇四年八月発行