私は江戸時代の測量家、伊能忠敬(1745~1818)の研究会会員です。花のブログになぜ忠敬がでてく
るかとといいますと、つぎのような植物画との出会いがあったからです。
有名なシーボルト事件の一方の立役者、高橋景保(かげやす)は父親の代から伊能家とは家族同様
の付き合いがあり、江戸にあって全国測量の監督をし、忠敬没後に測量記録を基に「大日本沿海與地
全図」いわゆる伊能図を完成させました。景保はのちにこの地図などをシーボルトに贈り,獄死していま
す。
シーボルトは 忠敬没後5年に長崎出島のオランダ商館付き医師として来日しますが、日蘭関係立て
直しのために日本のあらゆる情報を収集する任務も帯びていました。その任務と博物学者としての旺盛
な知識欲をみたすために出島出入りの絵師、川原慶賀が雇われます。慶賀は商館員から遠近法、陰影
法など西洋画法を学び、シーボルトの求めに応じて動植物の細密画、風俗、風景、肖像などあらゆるも
のを描き、記録しました。それらの絵画はほとんどがオランダに渡り、その原画をもとにシーボルト著『日
本』『日本動物誌』『日本植物誌』の図版の下絵がつくられました。
2002年8月、千葉県佐倉市立美術館で 「シーボルト・コレクション 日本植物図譜展」 が
開催されました。いきさつははぶきますがロシアのコマロフ植物学研究所からの里帰りで、「日本
のボタニカル・アートの原点」と副題がついています。展示室内は凛とした雰囲気が漂っていま
した。日本画と西洋画の融合、その美しさと格調のたかさに感動のあまり鳥肌がたちました。
ほとんどが慶賀の作品でしたが他の数人のなかに桂川甫賢(ほけん)の名をみつけたときは驚
きました。桂川家は代々将軍御典医の家柄で、甫賢は6代目です。
オランダ商館長は4年に1度将軍に拝謁のため江戸へ参府します。甫賢は『シーボルト江戸参
府紀行』(呉秀三訳注) に登場します。シーボルトの江戸参府は1826年1度だけです。もちろ
ん慶賀も同行しています。1か月余の滞在のあいだ景保どうよう甫賢も大槻玄沢を伴って宿の
シーボルトを数回訪ねています。この宿で地図を贈る約束をしてシーボルト事件に発展し、景保
は哀れな最期をむかえます。甫賢は押し葉標本を贈ったと『江戸参府紀行』に書かれていますが
目の前にある甫賢の絵もそのとき贈られたのでしょうか。計算すると176年経っていますが、まる
できのう描いたような瑞々しさです。
私も日本のボタニカルアートに挑戦したい。こどもの国にお願いして絵を描くための枝を切らせ
てもらいました。爾来、「日本のボタニカル・アートの原点」川原慶賀に私叔して描いております。
えにしの糸
6歳ごろからだったでしょうか。きょうだいたちが勉強をみていただいていた先生が本職は日本画
家で、絵を描くことがすきだった私は水彩画をお習いしていました。大きなものは絵日傘、小さなも
のは野球のボウル、お手玉、少し蓋をひいてマッチ棒がみえるマッチ箱、植物では庭のムラサキツ
ユクサ、ビロウドソウ、ダリア、キンセンカなどを黙々と写生しました。
先生は私の祖父母ぐらいの年齢で、植物がたいそうお好きな方でした。、お稽古がすむと私を助
手に植物採集にでかけました。まだ護岸工事をしていな かった近くの川辺へいったり、いまは○○
山住宅地となっている丘陵地へ分け入ったりして野草を採集してくると標本作りのお手伝いです。
重ねた新聞紙に野草を挟んで上に重い本を何冊かのせました。
私が10歳ごろだったでしょうか。母がご近所のお宅で先生をお招きして安達式挿花のお稽古をし
ていました。学校から帰ると見にいったものです。そのときに使ったコンポートや黒い水盤はいまで
もあります。
そのような子どものころの記憶、体験が半世紀以上もたって偶然安達潮花つばきコレクションに出
会ってひとつになり、シーボルトコレクションに衝撃をうけて黙々と写生したのがここにご披露してい
る椿たちです。