検察庁法案改正に関わって、タレントの指原莉乃さんの意見が一部注目を浴びている。以下、ハッシュタグの依頼に対するテレビ番組での発言。
指原莉乃「来てました。でも私はそこまで勉強出来てなかった。勉強して書いている人も沢山いると思うけど、もしかしたらたった一人の言ってる事を信じて書いてる人もいるんじゃないかなと思っちゃいます」
彼女の慎重な姿勢に賛同する人がいるようだ。
そこで、彼女の発言の問題点を指摘してみよう。
まず、勉強したほうがいい。中学の社会の授業で、国家と検察、権力の話はされている。それを知らないとすれば、自身の無教養を反省するべきだ。ただ誰だって、そんなものだろう。だから、今勉強すればいい。
加えて、社会でタレントとしてそれなりの地位を獲得しているわけだから、そういう社会活動している中で身につけた教養もあるはずである。そのような教養から「#検察庁法案改正に抗議します」問題に関する意見があるはずだ。
自分が知らないから意見を言ってはいけないのかというと、それは間違っている。これはソクラテスの無知の知ではない。無知の知は知らないことがあることの自覚であり、そういう限定的な知識で生きていることを自覚することだ。
どれだけ頭がいい人間であっても、知識(教養)は完全ではない。その不完全な状態で、全ての人間が自身の意見を言うのである。だから、知っている人だけが意見すればいいというのは的外れだ。なんせ難しい科学の問題ではなく、政治という我々の生活に関わる我々の問題だからだ。
だから、今生活している中で培われた生活実感(民衆理性といってもいい)から意見すればいいのだ。そして、対話する中でよりよく知ることができるのである。だから、意見を言うのであり、知らないから意見を言うことを躊躇するという姿勢は知へ向かおうとしないことにさえなる。
彼女を聡明であると評価しているものも多いと思うが、単に立ち居振る舞い、今であればポジショントークがうまいのであり、業界を生き抜くすべをよく知り、より実践しているということになってしまう。
そして、実はこれほど政治的発言はない。ある問題に対して意見しないというのは、ある意見AとかBなどの意見に加えて、「意見なし」という意見を作るのだ。「意見なし」という意見が多ければ、社会や政治に対して無関心という態度になる。無関心な人間が多い社会が良い社会にならないことは明白である。なぜなら、権力者がAという意見をよしとする場合、この権力者が間違った方向性に向かっていることもある。そうすると、無関心とは実質的には間違いの背中を押す勢力になってしまう。
じつは指原さんの意見から見えてくることがある。神のような視点からの意見が正しいという超越的視点である。これは勉強して知っていることの最高点が神の視点である。その反対が知らないから意見がないという視点であるが、神の視点がひっくり返って、何も知らないという絶対的な相対主義になる。この世に真理はないという視点でもあるから、超越的視点をひっくり返した、何も知らないということを知っている逆説的な超越的視点である。
人間はこれらの間にある。「知りもしないのに意見を言うな」との意見は「知らない人は意見を言えない」という意見へと転化する。知らない人はその認識は正しくないので、どのような意見を言ったところで、必ずその意見は相対化される。”俺”はそれを知っているという超越的な立場である。
繰り返しになるが「知りもしないで意見を言うな」あるいは「知って入れば意見を言ってもいい」との意見はそういう立場に立てるということで、神の視点、超越的視点である。人間は、繰り返すがこれらの間にあるので、対話するし、意見を言う存在である。
彼女は「知りもしないので言わない」と言うのは相対主義だが、【「知りもしないので言わない」ことは正しい】という点で超越主義である。超越主義はその中身に相対主義を置くことができる。
先に触れたが、彼女を聡明であると考える人がいるようだが、明らかな政治的無関心の立場である。彼女に質問すれば、「そんなことはない」と言うかもしれない。「色々考えている」と言うに違いない。しかしだ、言動が政治的無関心に接合してしまっている。なんてことはない。普通に意見を言えばいいとう常識を忘れているのだ。
さらに彼女のメディアリテラシーの問題がある。ネットの意見を鵜呑みにしてはいけないと通俗化されたリテラシーの受容である。確かにその通りだろう。確かにネットには玉石混交の情報が入り混じっている。そこから何が真実なのか、信じていいものなのかを選択できるのがネットリテラシーである。
ただ検察庁法案改正に関しては真偽の問題として捉えることではない。事実として検察庁法案改正の問題がある。それに対する意見表明であり、価値判断である。嘘や怪しい情報なのではなく、政治の情報なのである。どういう意見が正しいか?正しい意見だけは言っていいとすれば、それでは人々は意見が言えないことになる。
怪しい情報を「怪しい」と評価するではないか。
何が世間的に正しい意見かという視点であれば、あるいは個人の意見として、そういうときに何を言えば正しいのかという視点であれば、そういう時に使用されるのはポリティカル・コレクトネスである。そう、結局空気を読んだ結果の意見である。
彼女のメディアリテラシーは一見正しいようにさえ見える。しかし、単にネットの情報は危ないから注意しろという程度の真偽判定の視点を誤って評価という水準でしてしまって、結局空気を見事に読んだだけである。
本当のことはわからないけれど、こういう政治問題の時は意見表明しないほうがいいと考えているとしたら、カッコ悪い。
きゃりーぱみゅぱみゅとか小泉今日子の方がカッコいいだろう。テレビはカッコいい人を出して欲しい。