さて、話題になったこともあげてみたい。問題を曖昧にする日本の体質は若い人も当然持っている。人気お笑い芸人のEXITの発言を取り上げよう。
EXITの2人はABEMAの出演での森発言に言及している。少し引用しよう。兼近さんは「こういう会見を見ると、普段から女性の方ってめちゃくちゃ我慢しているんだと感じた。女性たちの我慢によって、偉い方は責められることがないからこういう発言が出るんだと思う。権力あるおじさんは、常にまわりの女性に我慢をさせて生きているんだと思う」と述べている。この発言から森氏の女性差別を見てとっている。
続いて次のようなことを述べている。「何よりも今回で気持ち悪いなって思うのが、自分が被害の及ばない所から石をひたすらぶつけて『降ろしてやったぞ』と。目的が引き下ろすというか『なんか偉そうなジジイを俺が降ろしてやったぜ』みたいな感じがすごい伝わってくる。ほんとに見失っちゃってんなっていう。ただただ攻撃することが目的になっちゃってる」。
ここで取り上げた2つ目の意見は批判を浴びていることもあるようだ。確かに「降ろしてやったぜ」と溜飲を下げる輩もいただろう。
僕はこのような言説に自分の考えが何も含まれていないとみる。世の中でよく言われている女性差別やネットの一面をただ切り取って発言しているだけだ。自らの知識に自省や解釈を加えることがない言説とは、矮小化された知識に過ぎない。
僕なりの理解をさらに加えると、頭に情報を入れ、その情報を心で引き受け、血の通った知識にして、そしてその知識は頭に帰っていく。それが自省であり解釈である。
この言説は世間で言われていることをただ繰り返しているので、自省や解釈、理解のプロセスが抜け落ちており、心理学的には情報のヒューリスティックな処理である。簡単にいうと、世の中に流通している考えなるものを自身の考えとみなす、昔の言い方で「大衆」「大量人」の言葉遣いである。
その上で具体的な問題を取り上げよう。森氏の「女性差別発言に見られる女性差別・蔑視」の問題とネットの反応は別問題である。言葉の上で謝罪しただけ、「世間がうるさいから」辞任した行為に対して、森氏が責任(応答責任)を取らないとこと、そもそも問題を理解しないことを問題にしているわけだ。
そこにネットで「偉そうなジジイ降ろしてやった」とのネット民の心理的昇華の問題をつなげると、森氏の女性差別問題への焦点づけがボヤけるのだ。彼の発言は、このようなネットの心理の方に重きを置いている。
今問題になっているのは女性差別問題であるから、そこに付随する現象として、心理的昇華のためのネットの攻撃性は別の問題として抑えておけばいいのだ。
さらに森氏が反省もなく、日本社会が何事もなかったかのように、この問題を自然消滅させた場合、日本社会が諸外国からどう見られるかという問題だけではなく、ただ単に差別を温存する社会であることが実証されるようなものだ。
だから、この問題に焦点を当てて、問題を森氏だけではなく、皆で理解し反省していかなくてはならない。批判を徹底的に行わなければならない。理解するまで、”あえて”「攻撃」しなければならない。これを誹謗中傷とは言わない。偉いおじいちゃんをやっつけたとして、それを解消するという言説は、問題の所在を理解していないし、遠ざけてしまう。これもまたこのような言説が持つ政治性である。
このような焦点を絞らず、議論を曖昧にする行為は、一見バランス感覚を持つように見えるが、実は政治的な言説・行為となり、何が問題かを霧散してしまうのである。「何が問題か」を手放さないこと、そこに帰って、振り返ることこそが求められるだ。そのような行為はかなり自覚的でなければならない。このようなバランスある言説もまた政治的であり、差別を温存する政治につながってしまう。