まずでてくる店でてくる店、「これ、赤字にならないのか?」と疑問を持たせる。
今ネットでよく散見するのが、コスパである。我々は何か見るときに、コスパで考えるように躾けられているわけだ。だから、飲食店を評価するときに、「この定食コスパ最高だな」などと評価する。
しかしながら、この評価はあくまで功利主義だ。損得計算をしているわけだ。ある定食の損得計算は、どのように可能なのだろうか。ちょっと考えてみて欲しい。
ある商品がある。そこでなんとなく「●●●円かなあ」などと想像する。これまでの経験に基づいた判断だ。集合知的な見方を採用するなら、我々の頭の中には商品の見本市ができていて、そこで偏差値のように大体の金額が予想される。偏差値の中央値を一応平均とするので、その平均値が常識的な金額である。
それはひとつひとつの店、そして商品、それらが位置づいている社会的条件で、予想できる。同じドトールでも調布のコーヒーなら220円だが、銀座なら450円と差が出るのは、立地条件や雰囲気によってであると納得する。これが社会的条件。
でも銀座だと高いのが当たり前という社会的条件でさえ、あくまで何となくみんな信じているだけであるから、絶対の価値ではない。つまり恣意的なわけだ。
この考えにコスパを重ねてみよう。銀座で450円のコーヒーはコスパとして見たら、どうだろうか。先ほど指摘した通り、銀座だから納得。でもドトールとしては高いので、人によってコスパの評価は揺れそうだ。ちなみにコーヒー450円は、コーヒーとしてコスパがいいのだろうか、悪いのだろうか・・・などとやっていくと、なんだかわからない。
一応ひとつの事業体として考えれば、そのような金額設定で、いわゆる経営が回ればいいわけだ。ところで経営が回るとはなんだろうか。家賃払ったり、労働者の給料払ったり、設備や材料にかかる経費が回っていることだろう。これにドトールという会社のバランスシートに与える銀座店舗の影響、つまり経営の問題が絡まる。
そして、これらを総合して合理的経営が成り立つわけだ。しかしながら、この合理性の中に計算不可能なものがまぎれ混んでいるとは思いませんか。恣意的な金額が紛れ込んでいます。その金額が経営上問題があると合理的に判断されれば、金額設定を変えることになるでしょう。
それでもなお、金額が変更されれば、客数や客層が変化したりなど新たな変化を生みます。「銀座で450円は安いと思っていたのに、高くなってしまったので、銀座らしい喫茶店に行こうかな」とか、「安くなって、銀座らしさが消えたので・・」など不確定要素が生み出されます。そこでマーケティングよろしく予測して変化をもたらすと、その変化に対して新たな変化が生じます。
何が言いたいのかというと、コスパとは現代の神話だということです。恣意的な物語にすぎないということです。
そこで、「オモウマい店」です。なんだかコスパを考えたら、客側にはいいかもしれないけれど、店側からしたら経営が成り立たないように思いますが、偏差値で考えると、偏差値の中央値ではなく、端っこの方にあるように見えます。
偏差値が高いと東大です。低いと頭の悪い学校ですが、「オモウマい店」は、飲食店の東大ではないかとさえ思います。偏差値70です。経営が成り立たなければ、どうしようもないと考えがちですが、なんだかやっているのです。それはバランスシートで見れば、なんだか成立していて、それは店舗だけではなく、家族や共同体、地域社会がバランスシートを構成しているに違いないのです。
でもバランスシートなど関係ないでしょうかね。関係ないか?力強く生きていることが伝わってくるよ。
(つづく)