TBSの番組「グッドラック」で冷凍餃子手抜き論争が生じたらしい。
簡単に紹介すると、女性が食卓に冷凍餃子を出したところ、子供が「おいしい」と喜んでいたら、その旦那が「手抜きだよ」と言ったとか。
僕は「なんかありそうだなあ」と思いながら、女性の不満げな顔が思い浮かんでしまう。
僕の妻は中国人なので、家でよく手作りの餃子を作ってくれる。僕も協力する。「ヘタクソ」と言われ、怒られながらも食いついていく。中国では家庭で妻も夫も子供も一緒に餃子作りをするのは普通のことだ。女性まかせということもない。というより男性が作る。
でも、たまに日高屋の冷凍餃子を買って家で食べることもある。妻も「まあ合格ね」「ちょっと軽すぎる」などと言いながら、「本場は中国」というプライドを醸しながらも美味しく食べている。ちなみに妻は上海出身。餃子は中国東北地方が主なのだけれど(笑)
2ch開設のひろゆき(さん)が出ていて、日本人論を絡めながら、「手抜き」ではなくて、効率化であると「手抜き」論を批判している。さらにメーカーであるプロが作るのだから、冷凍餃子の方がおいしいと。コストもかからないとも。
非常に合理的な考えであると思ったが、料理は「おいしい」ということだけで人々に享受される功利的、快楽的な営みではないだろうとも思ったりした。
妻が作ってくれたから「おいしい」とか、おふくろの味だから「おいしい」とか、子供が頑張って美味しくない料理を母親のために作ってくれたから「うれしい」とか、複雑な現象である。
料理では「おいしい」は数値で計れなかったり、多数決で測れなかったり、まずいのに「おいしい」ということさえある、実は人間の不合理な思いを抱えるのである。
コンビニの弁当は産業が作るが、母親の弁当は当の母親が「なにがしか」を込めて作っている。この「なにがしか」は功利的、快楽的な領域をはみ出すのだ。しょうがなくやっていても、実際行為をしていることを忘れてはならない。すぐ気持ちで物事を測ろうとするのは悪い癖だ。
ちなみに料理にはもちろん快楽的な面(おいしいということ)があるのは当然だが。そういえば、コスパをすぐ言い出す人間の底の浅さを語っていたのは、西部邁さんだったかなあ。まあ僕は保守でもないのだが。
餃子を家族で一緒に作るのは共同性の現れでありうる。ところで、餃子を一緒に作る必要もないけど、何か家族の共同性が現れているのは、日本ではどんなことなのだろうかと思ってしまっていた。
企業が生産した食料は共同性とは位相は違うが、「おいしい」かどうかという価値基準をフラットに適応しては食文化とは総じて企業産になってしまう。文化を全て企業に取られてもなあ……などと考えてしまう。だからといって、皆自給自足になるべきなどと主張する気はないのだけれど。
部分だけではなく、全体を見る意識を持ちたいものだ。冷凍餃子を食べるという行為は人間の全体論的な生活の中で意味が確定する。それは歴史における意味付けも含まれる。大抵は隠されている。効率的な食生活は人間存在のありようどこかにエントロピー増大を発生させる。
ひろゆき(さん)の説は食文化観の近代化とか、功利主義的食文化観ってところになるのかなあ。手作り餃子作りたいとも思うでしょ。