Drマサ非公認ブログ

方丈記とオリンピック

 オリンピックが開幕した。僕自身は乗れないでいる。でも、多分アスリートの活躍を見ると、素直に感動するのではないかとも思う。感動ポルノにならないように、オリンピックを楽しむことになるにしても、批判的精神を忘れてはいけない。喉元過ぎれば、ではいけないのは、誰もが知っているのに、喉元すぎると、忘れたり、感動だけを見てしまうようになるから。

 オリンピックの開幕を記念して、ブルーインパルスの飛行が実施された。それを多くの人々が路上に出て、眺めていた。オリンピックの花火や、そういうイベントを楽しむ人々。

 

 蜜ですね。緊急事態宣言かですね。本当にどうでもいいと行動しているのだから、本当にコロナのこともどうでもいいんでしょうね。

 僕は鴨長明の『方丈記』をたまに読み返す。

 

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

 

 冒頭です。世界は流れ、今の喜びも消える。それが世の常。鴨長明は「起きて半畳、寝て一畳」で生きながら、中世京都の天災や火事を見ながら生きた。そして死に行く人々を眺めながら、諦観を持ちながら、人間が生きることの苦しみにただ耐えて生きた。これが日本人の原型というか、姿ではないかと思う。

 今コロナではあるが、長明の日本人ならどう生きたのだろうか。耐えて生きることができただろうか。感染症に耐えて、人と人が接触しないようにしただろうか。そんなことより、イベントを享受し、過去の思い出と重ね合わせ、喜ぶのだろうか。

 しかし、現代の日本人は耐えることを忘れたのだろうか。とすれば、本質的に日本人は日本人ではなくなったのだろうか。耐えることより、イベントを享受し、モノやサービスを享受して生きること、そちらの方に日本人皆で向かっているように見える。

 政府の緊急事態宣言は確かに合理的ではなく、行き当たりばったりだ。それ以上に、多くの日本人は産業社会で作られた喜びを享受することから逃れられなくなっている。僕は「産業化された心」と密かに呼んでいる。オリンピックは産業化された世界の、最大のサービスとして、享受されるべきイベントである。

 だから政府はオリンピックがしたいのだろう。

 とりあえず近代の終焉?日本だけ?

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