大和魂というと、命をかけて戦うとの意味に捉えられている。
Goo辞書には「1 日本民族固有の精神。勇敢で、潔いことが特徴とされる。天皇制における国粋主義思想、戦時中の軍国主義思想のもとで喧伝された
2 日本人固有の知恵・才覚。漢才 (からざえ) 、すなわち学問(漢学)上の知識に対していう。大和心」とされている。
大和魂は1として広く捉えられている。ちょうど思い出すのが、総合格闘技のE.井上が「大和魂」をPRしながら、絶対折れない心を強調していたのを思い出す。この1の意味での大和魂は、2の意味に武士道が接合され、戦争中の天皇制や軍国主義に接合された過程で、本来の意味を忘れて行ったのである。
これについては小林秀雄が言及している。平安時代の『源氏物語』の中で使われている言葉で、「大和魂を活かすには学問があった方がいい」という文脈で出てくる。大和魂と対になるのは「才」で、それが学問である。当時の学問は漢文の知識である(『学生との対話』新潮文庫)。
そうすると2の意味も微妙になってくる。大和魂は「漢才」と対になるのだから、学問の知識ではないことになる。小林はゆえに大和魂とは、生活者の知恵であるというのだ。これは日本人固有の知恵・才覚なのであろうか。確かにそういう意味ではあるが、それだけに留まらない深度のある意味なのではないか。
僕は良識に近いのではないかと思う。そして、それをあぶり出すのが学問という知識(学識)のありようである。つまり学識は良識の邪魔をするので、そういう時に良識が問われ、大和魂があらわになる。生きた知恵、常識と言い換えてもいい。学問の方が大和魂より下の知であるが、学問もないよりはマシだ。
そこでコロナに当てはめてみよう。コロナに関する学識はマス・メディアや専門家を通じて知らされる。僕たちはそこでちょっとした専門的知識を垣間つまんで、自分の意見かのように振る舞う。そして何が正しいかと議論をする。民衆が学識に溺れている様だ。
民衆は学識を十分消化しきれていないにも関わらず、中途半端に学識が侵入したわけである。あるいは政府のようなお偉いさんが専門的知識や偉い立場で言うことに従う。そりゃ多少の疑問は持つだろうが。科学が人を覆うことの矛盾である。
このような状況で問われるのが大和魂だ。良識である。僕たちが問われているのはコロナの学識ではなくて、それは科学者に任せ、庶民が十分に生活に根ざした知恵を培ってきたのかどうかである。
テレビに出演してコメンテーターが中途半端な学識で語っているのか、真摯に学識を積み重ね、その学識に良識を重ね合わせているのか。その判断は僕たちの良識が試されているのだ。同じことだが、大和魂を培って来られたのかが問われている。
政府や科学者の大和魂(良識)を問うときでもある。