久々の投稿です。
まあ面倒臭い仕事もあったのだけれど、暑くて、バテていました。今日日中仕事がひと段落しまして。
今回はCostcoに関して、考えてしまっていることを。コストコ、もちろん今現在日本でも人気が出ている巨大スーパーです。コストコでの買い物は日本人にあっているのか、日本文化を壊すというか変化させてしまうのではないか、そんなことをふと思ったりする。
娘がカナダに住んでいるので、僕もカナダに行ったときによく行って買い物に付き合ったり、ホッとドックを食べたりしていた。子供がポテトフライに大量のチーズをかけて食べているのを見て、こりゃ体でかくなるわな・・・などと思っていたものだ。
そのコストコが日本でも人気が出ている。コストコの特徴は誰でもわかる通り、大量消費するための合理的なスーパーである。商品がいちいちデカイ。クロワッサンを買った記憶があるのだけれど、30個ぐらいは入っていたと思う。日本の家庭で、そんな数のクロワッサン必要ないでしょ。駅前のパン屋で買ったほうがいいかとも。
まあアメリカやカナダの人々の買い物としては、1週間どころか2週間以上の買い溜めをするのが当たり前だ。1ヶ月かなあ。食べ物も飲み物も。そして、様々な商品が。彼らはそうやって消費生活のスタンダードにしている。だからコストコではなくても、スーパーがいちいちデカイ。
どちらが原因かは知らないが、スーパーの規模に合わせて、消費の仕方が決まる。大量に購入し、車で運び。自宅の倉庫に入れられる。そんな生活である。
日本はそういう買い物の仕方ではないと思う。(変な言い方ですが)多少の大量購入することはあっても、スーパーのレジ袋、今ならエコバックに入るような程度の買い物をするのが、日本のデフォルトだ。だから毎日とか、2〜3日に1回スーパーに行き、そこで買い物の仕方が決められる。それが僕たちが意識しない、日本の買い物文化である。
そういえば、僕が子供の頃であれば、母親が毎日のように竹細工の買い物籠を持って、近所の市場に行っていた。僕の地元では、南樽市場に通っていたはずだ。まあ買い物行くと、おしゃべりが長くて、なかなか帰ってこないのだが、つまりは買い物は地域社会に内在するコミュニケーションの現場であったわけだ。
合理的な買い物とは、そういうコミュニケーションを排除して行くことで、商品購入にのみ限定されて行く、そういう文化の変容を伴っている。みんな意識することもなく、文化は変容する。ということは、この数十年の間で、人々が生きる生活世界、ここでは買い物であるが、変わってしまっている、そういうことだ。
別にコストコに恨みはないのだが、コストコが僕たちに要求する大量購入する世界観を”良し”とすることは、僕たちが変わって行くことである。最近テレビでよく取り上げられるように思うが、日本には日本なりの買い物文化があるだろうから、アメリカやカナダのそれが輸入されても、日本的なもの改変されるだろうとも思うけどね。