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メディアを創る 1

ここは天木直人さんの”メディアを創る”のメッセ-ジを載せています。http://amaki.cc/にもご参加下さい。

NHKの番組変更騒動の真相が明らかになってきた

2005年07月26日 11時01分50秒 | Weblog
7月25日―メディアを創る  天木

 NHKの番組変更騒動の真相が明らかになってきた

 今年1月12日付の朝日新聞が、「NHKが、政治家の圧力で、旧日本軍の従軍慰安婦を扱った特集番組の内容を変更した」と報じて大騒ぎになった。この騒動は、安倍、中川両議員によるNHKへの政治介入があったかどうかという本来の問題が、NHKと朝日新聞のどちらの言い分が正しいかという泥仕合にすり替えられ、曖昧なままに忘れ去られていった。

 それから半年、最近の新聞で二つの興味深い記事を見つけた。その一つは、7月22日付の毎日新聞が報じる、東京高裁に提出されたNHK幹部の陳述書についての記事である。すなわち、この番組の制作に協力した市民団体「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」は、「政治家の圧力で内容が改変された」と、NHKなどに損害賠償の訴訟を起こしていたのであるが、その控訴審で、NHK幹部5人が東京高裁に陳述書を提出していたのだ。
 
  毎日新聞が報じるこれら幹部の陳述書は生々しい。伊東律子元番組制作局長の陳述書では、海老沢前会長秘書から電話で呼ばれた伊東元部長が、「なんだか騒がしいようだな。この問題はいろいろな意見があるからな。なにしろ慎重にお願いしますよ」と海老沢会長に言われ、「ご迷惑をかけて申し訳なく思っています。現場も慎重に扱っています」と答えていることが明らかにされている。


  そして伊東局長はその直後、海老沢会長と話したことを松尾武元放送総局長に伝え、番組内容を松尾局長と話し合った結果、元慰安婦の証言シーン削除などを決めて部下に指示したという。
 
  一方国会対策などを担当していた野島直樹元総合企画室担当局長の陳述書はこうだ。NHKは毎年NHK予算が国会に提出される前後の1、2月ごろ、与野党の衆参議員のうち総務委員会や放送通信関係部会に所属する約450人に個別に予算や事業計画を説明するのであるが、

  その際本件について、「NHKが女性国際戦犯法廷を番組で特集する話を聞いているが、どうなっているのか」、「予算説明の際は必ず話題にされるから、きちんと説明できるように用意しておいたほうがいい」などと古屋圭司衆院議員などから言われたという。そのため、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」事務局長を務めていた安倍晋三自民党幹事長代理へ松尾局長とともに説明に行ったと認めている。


  もう一つの記事は、25日付の朝日新聞の記事である。朝日新聞は、「読者の皆様へ」と呼びかけて、「・・・読者の様々なご指摘を受け止め、取材についても検討を続けてきました。(事件)発端の報道から半年を経たのを機に、番組改変問題とその取材過程について、改めてご報告します」と、新聞の2ページを割いて詳細に記述したのだ。

  この中で朝日新聞は、中川議員と松尾局長は放送前に面会したのか、中川、安倍両議員は松尾局長を呼び出したのか、朝日の取材は結論ありきの強引な誘導だったのか、松尾局長と朝日の記者は取材記事に関する調整の話をしたのか、などの点について、検証している。

  これらの記事からNHKが政治的意図をもって番組内容を変更した事は明らかになった。問題はそれが政治的圧力によるものかどうかである。NHKは直ちに、「新事実の提示がない。政治家の圧力による番組変更の構図がより明確になったとする朝日の主張は理解できない」と応じた。

   圧力をかけたと安倍、中川議員が認めるはずは無い。NHKがいまさら圧力を受けて変更したと認めるはずは無い。何が圧力なのかは当事者の心象の問題であるからどうとでも言える。だからこの話はいつまでたっても平行線である。

  
  しかしこの二つの記事は、常識のある一般国民から見たら、政治家の意向に沿う形でNHKが番組を変えたことを明らかにしているのである。そもそも国会で毎年予算を通してもらうNHKである。そのために毎年政治家一人一人に説明をいっていることを認めているNHKである。それだけでもNHKは中立性をとっくに捨て去っていると言える。

  その際に政治家の中に注文をつけるものがいたとすればどうだ。その注文を聞き入れないと面倒なことになるから聞き入れる。これは官僚経験のある私がすべての官僚の習性として目撃してきたことだ。官僚が政治家の圧力を受け入れるのにNHKの職員が受け入れない筈はない。NHKは安倍、中川の意向を汲み取って番組を変えたのである。

彼女は泳ぎきった

2005年07月26日 10時56分54秒 | Weblog
7月24日―メディアを創る  天木

 彼女は泳ぎきった

 内外に事件が続出している。書きたいことは多くある。しかし今日はこの新聞記事についての感想だけを書きとどめたい。
 24日の東京新聞で見つけた、佐藤次郎記者の「私設 論説室から」の小さな記事だ。
 障害者スポーツセンターを訪ねた時に何気なく見た光景を、彼はこう綴っている。

  「・・・25メートルを往復する女子50メートル背泳ぎ。選手たちにはそれぞれ障害がある。その組の4人のうち3人は2分から3分ほどで泳ぎ終えた。だが、端のコースにはその後もずっと、一人の選手がとどまっていた。彼女は手足がかなり不自由で、手先だけですこしずつ水面を進んでいたのだった。泳ぎは遅々としていた。ちょっと離れた観客席からだと、ほとんど進んでいないようにさえ見えた。だが彼女は泳ぎ続けた。

  5分がたち、10分が過ぎる。やっと25メートルに達した時、そこで挑戦は終わるのかと思ったが、彼女は時間をかけて向きを変えると、また同じようにしてコースを戻った。ついに50メートルを泳ぎきった時、タイムは21分44秒58を示していた。彼女は手助けを受けて水から上がった。その顔に輝くような笑みが浮かんだのが観客席からも見て取れた・・・

  障害者スポーツは、少しずつ、だが確実に発展している。困難は多く、誰もが気軽にスポーツを楽しめるわけではない。それでも様々な人々が、厳しい状況を克服してそれぞれの競技と取り組んでいる。
 もし元気をなくしたら彼らの大会に行くといい。帰りには勇気がわいているはずだ」


 この記事を読んで、なぜか島木健作の短編「赤蛙」を思い出した。私の座右の書の一つだ。

  彼らとは比べ物にはならないが、私にも生まれつきの肉体的ハンディがある。私の人生は一つにはそのハンディと戦うためのものであったのかも知れないと思うことすらある。しかし人は皆それぞれ大なり小なりのハンディや自らの運命と向き合いながら、それと折り合いをつけて生きているに違いない。

  運命に逆らう事のできないひ弱な人間が、自分の人生を恨みたい心と戦いながら、その運命と折り合いをつけて精一杯頑張る時、そこに私は神を見る思いがする。
  
   この記事から連想する光景を思いながら、彼女の笑顔にエールを送りたい。そしてこの記事を書いた見知らぬ佐藤次郎記者に感謝したい。

沖縄の米軍射撃訓練事件に見る国民と政府の限りなく遠い距離

2005年07月26日 10時54分28秒 | Weblog
7月22日―メディアを創る  天木

 沖縄の米軍射撃訓練事件に見る国民と政府の限りなく遠い距離

 国民ということばで我々は何を連想するだろうか。一つの集合体と思ってしまうであろう。ところが実際はそうではない。

  この国を動かしている一握りの人々とその側に立って様々な特権を享受している体制側に立つ人々
  (それは官界、財界、業界、学界などあらゆる分野に及んでいるのだが)が一方にあって

   その対極にそうでない大半の庶民、大衆、労働者などが存在する

  もちろんその中間に多数の人々が存する。しかしその人達も、結局はこのいずれかに属していることになるのだ。

 そしてこの世の中は、目に見えない形で、前者と後者の対立、闘争で成り立っていると思えてくる。
 何故このようなことを私が唐突に言うかというと、先般沖縄で起きた米軍の都市型戦闘訓練に対する住民の抗議と、それに対する政府の対応、世論の冷淡さを見てつくづく感ずるのである。
   
  この平和ボケした日本にあって、国民(住民)の一部が戦争の実戦さながらの脅威にさらされているというのに、政府のこの冷淡な対応をどう考えればよいのか。これを殆ど大きく報じないわが国のマスコミをどう考えればよいのか。くだらないことにヨタ話を繰り返すテレビの解説者や文化人が、わが国民の生命が外国の駐留軍によって蹂躙されていることにかくも無関心にいられるこの国は、どういう国なのか。俺たちとお前たちは別個の国民群であるということなのだ。

 21日、超党派の沖縄県議団が首相官邸、外務省、防衛施設庁を訪問し、訓練の即時中止を訴えた。これに対する町村外務大臣の対応は信じられないものであった。しかし実はこれこそが外務官僚の体質を象徴的に示している。

 「訓練の中止を求めるわけにはいかない」
 
 何故中止を求められないのか。まったく理由は無い。その気になればすぐにでも政府は米軍に中止を求める事が出来る。
   
  イラク占領を続ける米軍の実弾訓練を、住民の生命を危険にさらしてまで遠い沖縄の地で行う理由がどこにあるのか。それを何故止めさせることが出来ないのか。日米安全保障条約があるからこそ、日本政府は中止を求めるべきなのである。


  日米両国の友好と信頼に基づいた軍事同盟の維持の為にも、日本政府は米国政府に中止を求められるのだ。求めるべきなのだ。そしてそれはできるのだ。米国との交渉が面倒なだけなのだ。


  杉浦官房副長官も大野防衛庁長官も、「安全に配慮してやっている」
と人事のように述べるだけだ。彼らがどこまで安全性を確認して発言しているというのか。官僚の作った答弁を繰り返しているだけだ。

 こんな無責任かつ国民に冷淡な政府の大元締めは小泉首相だ。彼はこの問題にコメントしたことがあったか。記者たちは小泉首相にコメントを求めようとしたか。評論家や識者はこのことについて正面から発言をしてきたか。


  この問題の根底にあるのは、日本の国民を無視してきた小泉政治がある。日本の国民を分裂させて統治してきた小泉手法がある。彼のもとで急速に固定化されて行った日米関係の不平等さ、不自然さ、不健全さがある。

  我々はもう一度国民としての一体感を取り戻さなくてはいけない。人の痛みは自分の痛みと受け止め、自分だけ安逸な生活を送っていれば良いという貧しい心を捨てる心の豊かさを取り戻さなくてはいけない。

  もうそろそろ小泉首相の貧相で、いじましい生き様を、日本の生き様の合わせ鏡のように放置することは止めなければいけない。

  95年の少女暴行事件、先日の少女猥褻行為、今度の射撃訓練事件など、どこまで人権蹂躙を放置すれば気がすむのか。その間にわれわれの良心が風化していく。これを許してはいけない。

若手記者が喝破した小泉改革の正体

2005年07月26日 10時24分40秒 | Weblog
若手記者が喝破した小泉改革の正体   天木

 小泉改革のいかさま振りについては、もはや少しでも政策を理解している者であれば皆知っている。

 しかし何故か新聞はこれを書かない。

  それどころか、道路公団民営化からはじまって三位一体改革、年金改革、郵政民営化改革など、どれも官僚との妥協の結果による改悪であるにもかかわらず、いまだに小泉首相は改革者と呼ばれ続けている。

 そんな中で、7月21日の毎日新聞「記者の目」で、青島顕という若い社会部の記者が、小泉首相の偽物ぶりを喝破している。

  小泉首相の後援会機関紙「泉」(81年に創刊)に発表された政治家小泉の「政治信条」を検証しながら、小泉首相の矛盾を次のように批判しているのである。政治部の記者ならここまではっきりと小泉批判はできなかったであろう。そして若い記者であるからこそ書くことが出来たのであろう。


  「・・・首相とその周辺を取材して感じるのは、今回の『解散』に代表される言葉の軽さだ・・・91年5月発行の泉20号には、『政治資金の収支状況が不透明すぎると批判が多いんですから、その透明性を高める改革をはやく始めるべきだと思っているんです』とある・・・しかし小泉首相は自らが関係する二つの政治団体が同じ事務所を使っていながら、家賃などの事務所経費を別々に政治資金収支報告書に記載していた。
 これにより毎年500万円以上の使途不明金が生じている。この点を毎日新聞は昨年来報じてきた。しかし小泉首相は、『法令に基づいた届け出の通りだ』の一点張りで不透明さを高めようとしない・・・

  同じ泉20号には、『海部首相は選挙制度改革に内閣の命運をかけていると言っていますが、自民党内にも強い反対があり、野党全部が反対しているのにできるわけがない。理想を追うのもいいけれどもっと現実を直視してもらわないと困る・・・』とある。まるで郵政民営化法案に内閣の命運をかける今の自分自身に言っているようだ・・・小泉首相が小選挙区制反対の急先鋒だった理由は、地元横須賀で人気のあった田川誠一元自治相やその後継者とぶつかるおそれがあったからだ。打算を理想で言いくるめる政治手法のルーツがここにある・・・


   小泉首相は『封書、はがきは国家の独占事業でいいとして、誰も言わない』、『郵政事業民営化は郵政省だけの問題じゃない。省庁再編にもつながる。財政投融資、特殊法人全部に関係してくる』(泉29号)と述べてきた。

   しかし今回の法案では、民営化後も封書、はがきの独占は続くことになっている。また省庁再編はとっくに終わっており、また財政投融資改革も始まっているので、その観点からいっても郵政民営化法案に固執する根拠はなくなっている・・・」

  青島記者は改めて問う。一体何のために小泉首相は郵政民営化法案の成立にここまでこだわるのかと。そして政治資金規正法の抜本的改革や、国会議員の年金廃止に取り組んだほうがよほど改革の名に値するのにさっぱりそれらに関心を示さない小泉首相は、本当に改革者であるのかと問うているのだ。

  参議院本会議での採決の票読みとその後の政局ばかりが報じられている中で、このような本質的な記事がもっと、もっと書かれるべきではないかと思う。


世襲政治家の勘違い     

2005年07月26日 10時17分23秒 | Weblog
7月21日―メディアを読む
世襲政治家の勘違い    天木

 産経新聞には、時として驚くほど共感できる記事が掲載されることがある。7月21日のコラムニスト・富岡周平氏の「断」という論評もそれである。
 富岡氏は、衆議院議員の小渕優子さんが、社会人を対象にした早稲田大学大学院の公共経営研究科に合格したという新聞記事を読んで、次のように指摘している。

 「・・・小渕さんは、代議士と学生の兼務について、うまく両立させて学んだことを仕事に生かしたいと語っている。志はよしとしなければいけないかもしれない。しかし、多額の歳費をもらい、公設秘書や政策秘書もいる政治家が、仕事の合間に大学に通って勉強するということは、いったいどういうことなのか・・・」
 私もまったく同じ感想を持ってこのニュースを受け止めていた。更に富岡氏は、総選挙の時は休学し選挙運動に専念すると言う彼女の言葉に疑問を呈する。

 「・・・彼ら(政治家)が(政策について)勉強もしないし情熱もないから、大学の外に出たことも無く実務も乏しい連中(大学教員)たちがテレビに出て、政治や経済のことをああだ、こうだと言うのだ・・・」
 そして富岡氏はこうしめくくっている。

 「・・・今日の政治家は内外に問題が山積しているのに公費をちょろまかしたり副業をやったりと、何を考えているのかとあきれる。それからすれば小渕さんはまだいいのかもしれないが、二世、三世の世襲政治家が、(政治家を)職業と勘違いされては困る。あなたたちは公人なんですよ、誰の為に働くのかということを忘れないでほしい」産経新聞で見つけたコラムにまともな意見が載っているのである。
 
 それにしても小泉首相をはじめ、安倍、福田、細田、平沼、谷垣、野田などなど首相候補者まで皆世襲議員ではないか。石原、鳩山なども必死で息子を政治家にさせようとしている。野党の菅直人までも息子を次の選挙で当選させようと必死だ。政治家という職業はそれほどおいしいのか。こんな意識をもって政治家になる彼らに国民の為の政治を行う志があるとはとても思えない。

 

雑感、所感

2005年07月26日 10時11分57秒 | Weblog
2005/07/20 雑感、所感 天木

 最近つくづく思うことがある。この国に政治は必要なのか、政治家は必要なのかと。
 たとえば郵政民営化法案をめぐる連日の報道ぶりを見よ。郵政民営化法案の中味や、ましてそれが国民にとってどう役に立つのかなどという議論はそっちのけで、否決か可決か継続審議か廃案か、そして政権を手放すことをおそれる自民党、選挙をおそれる政治家、政権が転がり込むのを待っている民主党など、そんな記事ばかりだ。

 政治家とそれに寄生する政治記者、そしてそれらのゴシップで飯を食っている解説者やマスコミ業界。これでは芸能記事と同じだ。芸能記事ならまだ許せる。我々の娯楽、時間つぶしの効用はある。しかし政治は芸能では困る。我々の生活を左右する権限を行使しているのだ。それよりなにより税金をつかっているのだ。

 こんな政治や政治家はなくなってもいいのではないか。それらに関する報道は不要なのではないか。ダレも書かなければ、そして注意を払わなければ小泉さんも馬鹿らしくてつまらないパフォーマンスをやめるのではないか。皆がいちいち取り上げるから調子に乗ってふざけ続けるのだ。

 政治や政治家を全廃するというのが無理ならば、せめて政治の役割や政治家の数を縮小し、身銭を切って国民に奉仕する少数の政治家による、最小限の政治にとどめるべきだ

そうすれば我々の関心は、もっと他の有益なところへ向かっていくはずである。ろくな仕事をしないおびただしい数の公職の者たちにあまりにも多くの税金が使われすぎているのである。

所感、雑感

2005年07月16日 11時24分23秒 | Weblog
2005/07/15 所感、雑感

 昨14日夕北京から帰ってきた。生きて行くためには自分の手で生活費を稼がねばならない。今更金儲けでもあるまいと思わないわけではないが、しかしまだこの歳(もうすぐ58歳)で年金はもらえないし、退職金だけで生きて行くには心細い。
 やはり自分の手で生活費を稼いで生きるしかない。そう思って手探りの毎日だ。中国でのビジネスチャンスの模索もその一つである。しかしそんな経験からも多くを学ぶことになる。

 中国では毎日のように抗日戦争のフィルムが流されている。教科書問題や歴史発言の記事が大きく取り上げられる。大田原市の教育委員会が新しい歴史をつくる会の教科書を採用したことが大きく出ていた。山中大臣の慰安婦発言も大きく取り上げられていた。石原慎太郎がフランス語を侮辱したことで訴えられたニュースも大きく取り上げられていた。中国はもはや小泉首相の政権の間は何も動かないとあきらめているようだ。今更反日と騒ぎ立てる事自体ばからしい、日本は勝手に好きなようにやってくれ、そんな印象を受けた。
 
 中国のホテルで世界のニュースを見ながら考えた。日本という国は、よほど恵まれているのだろう。日本発のニュースがいかにも緩んでいる。談合と天下りの話が連日にぎやかに報道されている。ここまで不正な慣行が行われているのに、まるで罪悪感が無い。天下りが商慣行をゆがめているのが明らかなのに、誰も天下りを止めようとしない。

 これは高級官僚の就職斡旋だ。自分で仕事を見つけるのが如何に大変か、自分の手で金儲けをするのが如何に大変か、それがわかっただけでも私は良かったと思っている。しかし日本の官僚は、官僚を経験したというそれだけで天下りが用意されている。何も働かなくても収入が入ってくる。しかも大きな収入が。これが人間を駄目にする。日本の経済構造をだめにする。それでも誰も天下りを止めようとしない。受け入れる側にどういうメリットがあるのだろうか。やはりお上と仲良くしておくことで、仕事がうまくいくということか。その商売人根性が日本経済を駄目にするのだ。
 
 拉致事件の犯行者が曽我さんの証言で明らかになったというニュースが流れた。三年ほど前、小泉首相が初めて訪朝したとき、金正日は一部の不埒な者の犯行だったと認めて処罰を約したはずではなかったのか。あれはウソだったのか。何故小泉首相はその犯行者の処罰、引き取りを認めないのか。政府の拉致問題に対する熱意のなさはひどい。何故そんなにやる気がないのか。

 
 郵政民営化法案をめぐる自民党反対議員と政府のやり取りを見ていると、民営化の中味の問題はもはやどうでもよくて、完全な政争になってしまっている。ここまで感情的もつれになったら、法案が通っても通らなくても、もはや小泉政権の残された一年はまともな政治は出来ないであろう。解散、総選挙をして政界再編をして出直すほかはない。もしこのまま小泉政権が続けば、その一年は行き詰まった政治状況のなかでの政権運営となるであろう。力強い政策が打てないままの一年が過ぎる。日本は経済、外交でそんな余裕は無いはずなのに。


 日本とは関係のない、米国と英国の問題であるアラブの反米、反英自爆攻撃に、何故日本が大騒ぎをするのか。自衛隊をイラクから撤退するだけで、たちどころに日本の安全は保障される。米国の中東政策から手を引いて日本の外交は他にやることが一杯あるはずだ。安保理常任理事国入りなど、どうでもいいことばかりにこれだけのエネルギーをかける事に誰もおかしいと考えないのであろうか。
 
 日本はどこか緩んでいる。それだけ日本という国は余裕があるということなのか。国民が怒らない。危機感を示さない。もうどうでも好きなようにやってくれということなのか。それはそれで無責任だと思うが・・・これからの長く、暑い夏も、やがて政治が夏休み状態に入って、ずるずると過ぎ去っていくのであろうか・・・

取材源秘匿を許さない米国

2005年07月16日 11時19分16秒 | Weblog
7月10日―メディアを創る

 取材源秘匿を許さない米国

 7月6日、ワシントンの連邦地裁は、米紙ニューヨークタイムズのジュディス・ミラー記者に対し、法廷を侮辱したとして収監した。これは、6月28日に米連邦最高裁が、取材源の開示を拒否した米記者二人を有罪と判定したことを受け、それでも開示を拒んだミラー記者を地裁として収監せざるを得なかったからである。
 
 9・11事件をきっかけにブッシュ政権は愛国者法を成立させ、民主主義の基本を次々と崩してきた。そして内部告発を抑制すべく取材源の秘匿を否定する政策を導入するに及んだ。
 ミラー記者は、「秘密を守る信頼がなければジャーナリズムたりえず、自由な報道はありえない」としてジャーナリズム魂を貫き、そして収監された。

 見せしめのようなこの判決の効果が早速現れた。10日付の読売新聞は、米オハイオ州の有力紙プレーン・ディーラーが、8日、機密文書を入手して書いた特ダネ2本の掲載を見合わせたと報じている。もちろん、捜査当局に情報源の開示を迫られることを恐れたからである。それを拒んだら、ミラー記者と同様に、プレーン・ディーラー紙の記者も収監される。編集局長としては慎重にならざるをえないのだ。

 困った事になった。米国のまねをする日本のことだから、日本にも同様の報道規制がなんらかの形で導入されることは時間の問題であろう。そう思っていたら、8日の毎日新聞に気になる記事を見つけた。7日東京高裁が、東京地裁の判決(04年12月)を取り消し、新潮社に300万円の損害賠償支払いを命じる逆転判決を言い渡したという記事が大きく掲載されていた。


 この裁判は、平沢勝栄衆議院議員がパチンコ業者から違法献金を受けたという週刊新潮の記事に対し、名誉毀損で訴えた平沢氏の訴訟について、一審判決は「情報の具体性などから真実と信じる相当な理由があった」として平沢議員の訴えを退けたのに、東京高裁はそれを取り消し、一転して新潮社に損害賠償支払いを命じたという記事だ。

 驚くべきは、その理由の一つとして、「取材源秘匿により、真実と信じたことの立証責任を免れることは、原告の反証の機会を奪う事になり、許されない」として、「情報源はパチンコ業者と認められ、業界の性質を考慮すると告発者が秘匿を望むのは合理性がある」とした一審の判断を否定した事である。

 裁判長は明らかに米連邦最高裁の判決を念頭に置いていたのであろう。またしても一つ、報道者への締め付けが増えた。そして我々は真実を知る権利を奪われていく。

テロという言葉を安易に使うべきではない

2005年07月16日 11時17分34秒 | Weblog
7月9日―メディアを創る

 テロという言葉を安易に使うべきではない

 英国で起きた無差別爆破事件について、今我々が考えるべきことは何か。それは「テロに屈しない」ということでは決して無い。このような非人間的な無差別暴力行為が起こらないよう、その原因を見つけて除去することだ。世界が一致してその努力に力をあわせることだ。

 9・11事件といい、今回の爆破事件といい、その原因は極めて明白だ。パレスチナやイラク、アフガンで起きた米国の国家的暴力とそれに加担する英国に対する自爆的報復なのだ。そのことは犯行声明で明白に述べられているではないか。世界はそれを知っているはずではないか。
 世の中には、「テロ」と呼ばれる反体制的違法な暴力行動は、その原因の数だけ存する。しかしそれらを一把一からげにして「テロは断固許さない。徹底的に戦う」と唱えることは、間違いであり、問題の真の解決にはつながらない。むしろ、みずからの権力行使を正当化するために権力者が世論誘導する、その道具にされるのがオチだ。
 
 考えても見るがいい。イスラエルや米国に加担してパレスチナ人をいじめていなければ、あるいは米国の不当なイラク、アフガン攻撃に加担していなければ、今回のような暴力の脅威にさらされることは決してない。米国の巨大な暴力に叩き潰されようとしている彼ら反米武装組織にとっては、そんな余裕は全く無い。

 日本のように中東問題に手を汚していない中立的な国は、このような暴力の危険からまったく関係の無い国であった。それどころか日本は中東から好意的に受け止められ、助けを求められる国であった。もし自衛隊をイラクに派遣するような誤りを犯していなければ、今回のような暴力行為の危険に日本は全く無関係でいられたのだ。
膨大な予算を組んで警備を強化したり、駅前のゴミ箱を撤去するといった異常な仕事を末端の職員に強いるよりも、自衛隊をイラクから撤退させるということを宣言するだけで、たちどころに日本の安全は確保される。それはテロに屈することではない。いままでの間違いを正すだけのことだ。米国とアラブの戦いに中立になり、真の中東和平を訴える本来の日本の立場にもどるだけのことだ。

 日本のメディアは、再び「テロ報道」一色で塗りつぶされている。これは二つの意味で有害である。一つは国民をいたずらにテロの恐怖に陥れることだ。もう一つはテロ騒動により、小泉失政の深刻なツケに関し責任追及が追いやられてしまうことだ。
アルカイダがどうのこうのとか、真犯人はだれであるかとか、一般市民に向けられた暴力は許されないとか、テロには世界的結束が必要であるとか、そんな議論は何の意味も無い。俄か専門家とメディアの金儲けと時間つぶしに貢献しているだけだ。それが終わると次は芸能、スポーツなどの話題にすぐ切り替えるドライなメディアは反省すべきではないのか。

 その間にも、多くの人間が、米国の暴力とそれに抵抗する反米組織の暴力の犠牲に泣いている。その痛みをもっと真面目に受け止めるべきだ。何で世の中はこんなに暴力的になってしまったのかと。誰がそれで一番利益を受けているのかと疑うべきだ。

 専門家よ、メディアよ。もっと本当のことを語ってくれ。もっと深刻な事実を語ってくれ。テロに屈してならないのは当然である。貧困や人権を抱える中東のイスラム社会にも民主化は必要だ。

  しかしその前に、まず、アフガンやイラクの治安と人権の回復が先だ。米、英の軍事占領の終結が先だ。中東問題の要であるパレスチナ問題の公正な解決の為に、イスラエルと米国の横暴さを糾弾することが先なのだ。
 
  何故こんなわかりきった真実を誰も指摘しないのか。そういう偽善さこそ、「テロ」を助長していると私は確信する。



自民党改憲要綱案と桝添要一議員の発言

2005年07月16日 11時13分02秒 | Weblog
7月8日―メディアを創る

○自民党改憲要綱案と桝添要一議員の発言

 自民党新憲法起草委員会が「要綱案」なるものを7日発表したらしい。8日の各紙がそれを取り上げている。今、改憲を急ぐ理由も正当性もまったく無い、と考える私にとっては、このような自民党の作業自体に否定的であるが、それにしても自民党内の意見の不一致を覆い隠す中途半端な妥協案だ。おまけに連立政権である公明党の立場を取り入れなければならない。補完政党といえども野党第一党の民主党にも配慮しなければならない。

 国家の基本法である憲法について、こんなずさんな要綱案を持ちだして改憲を急ごうなんて、国民を舐めている。自民党結党50周年の11月に間に合わせたいという理由だけで急いででっち上げる自民党にそもそも改憲を提案する資格はあるのか。それに自民党は郵政民営化法案をめぐって分裂してしまっているではないか。結党50周年どころではないのだ。

 そう言いたいところに、8日の読売新聞に次のような桝添要一・起草委事務局次長の言葉が紹介されていた。この自民党にしてこの議員ありだ。
 「最大の目玉は、9条を改正し軍隊を持つことを打ち出したことだ・・・(集団的自衛権の行使は明示されていないが)自衛権は個別的と集団的とに分けられない。憲法レベルで書くかどうかを議論するレベルではない。

 個別的か集団的かという不毛な議論は自民党ではもうしない・・・(国会での改正発議要件の3分の2以上の賛成を得るために)民主党も公明党も支持してくれる内容を考えた場合、自民党の色が薄まるのは仕方がない・・・(こんどの案では)

  国会の改正発議要件を緩和するよう96条の改正も打ちだした。9条と96条の改正が実現すれば、風穴を開けることが出来る・・・」
      語るに落ちるとはこのことだ。


○アイラブユー、ミスターブッシュ

 今回のサミットでは、日米首脳会談は行われないという報道が6月末から早々と流されていた。外務省幹部は、その理由として、「双方の日程上の都合だ」、「小泉首相とブッシュ大統領は良好な関係にあり、サミットのたびに首脳会談を開催する必要はない」と強弁していた。また「国連安保理拡大や米国産牛肉輸入再開問題などで意見の違いがあり、そうした事情からあえて首脳会談を開かないのだ」と、あたかも戦略的に考えた上での方針であるかのような報道もなされていた。
 
 ところがそんなウソはすぐばれる。8日の産経新聞に、ブッシュ大統領は、ブレア首相とは会うが、他の元首との個別会議は一切見送った、これは日程的に時間がとれないということではない、サイクリングをして警護官と衝突しているくらいだから、時間は十分にあったはずだ、ブッシュ大統領が対話嫌いなのだ、問題を抱えている国の相手と話したくないのだという記事がのっていた。要するに小泉首相は会談をしたがっていたのに、振られたわけだ。日米同盟関係は米英同盟関係にはなれないということなのだ。
 振られたわけなのか、小泉首相はエリザベス女王主催のサミット晩餐会で、59歳の誕生日を祝う各国首脳が「ハッピーバースデー」を合唱した後で、一人斜め前の大統領に向かって一人、エルビスプレスリーのヒット曲、「I want you, I need you, I love you」を口ずさんだらしい。そして何を考えたのか、やおら、「日本人が米大リーグの首位打者になり、米国人が横綱になり、欧米人がすしを食べる時代が来るとは想像できなかった」と大統領に話しかけたという。そしてその時の状況を、日本の新聞は、「大統領はすかさず『これこそグローバリゼーションだ』と合いの手を入れ、親密さをアピールした」と一斉に書いている。

 これは外務官僚と同行記者の八百長記事だ。首相のセリフも歌もすべては官僚が用意したパフォーマンスだ。英語が出来ない者ほど英語でつまらないことを喋りたがる。同行記者は同行記者で、もともと書くことの少ない今回のサミットで、何かエピソードはないかと外務官僚に知恵を授けてもらう。
こんな記事を新聞に載せるほうもどうかしている。所詮はわが国の出番はないサミットということだ。