どうでもいい四百字 第二中間貯蔵施設

どうでもいい四百字 2480

子曰わく、訟えを聴くは、吾なお人のごときなり。必ずや訟え無からしめんか。「判決を下すのなら私だって出来る、それよりも訴訟の無い社会にしたい」と孔子センセイは2500年前に仰ったそうな。ヨノナカ理想通りにはいかないものである。統治者が徳を実践し人民がそれに倣う社会を孔子は目指したのであるが、そんなに都合よく有徳者が出てくる筈も無く、法治で妥協しているのが現状である。法で治める以上、裁判が日常茶飯事になるのは致し方ない。何より徳治は、言い方は悪いが為政者の胸先三寸で全てが決まる。昨日と今日とで決定が変わるのでは釈然としない所も出てくるだろうし、何より「俺が有徳者だ」と自称する奴が恣意的に物事を決めていく場合が過去の事例では殆どである。民主主義とも非常に相性が悪く、徳治が為される将来は恐らく来ないだろう。部分的にはAIがその役目を担う事はあろうが、人民の性分からして裁判沙汰は無くなりそうもないのである。

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