アメリカで流れているテレビCMを見ていてときどき驚かされることがある。
その最たるものが弁護士事務所のCMだ。
“肺がんと診断された皆さん、昔アスベストを使って仕事をしていた経験はありませんか?あなたの人生を取り戻すために○○弁護士事務所にご連絡ください”
という類のものだ。
会社を訴えて賠償金をとりましょうという主旨なのだと思うが、
まさに訴訟社会アメリカならではのCMだなーとつい感心してしまう。
なんせ世界に存在する弁護士の80%がアメリカにいるというのであるから、アメリカ国内での顧客争いが大変なのも当然だろう。
ところで裁判といえば、日本でも司法制度改革の目玉として裁判員制度が導入される運びとなった。
一般から無作為に選ばれた市民が審理に参加し、有罪・無罪の評決および量刑の決定を行うという。
審理が市民のみで行われるアメリカの陪審員制とは違い、裁判員制は従来からの裁判官も審理に加わる。そのほうが法律の知識のない市民にも判決が出し易くなるのだという。
なるほど、、、
でもなんとなくわかりにくいのでいくつか関連サイトをのぞいてみた。
今の裁判官制度のどこがダメで、なぜ裁判員制度なのか?という単純な疑問がわいたからだ。
しかし、この疑問に明確に答えてくれているサイトはなかなか見つからない。
どれもみな、先ず“裁判員制度ありき”的な論調が多い。
“先進国において市民が裁判に参加していないのは日本ぐらいなものだ”という物言いがほとんどだ。もちろんそれについてはそうなのだろうが、二つの制度を客観的に比較して解説しているページがほとんどないので今ひとつ感覚が掴みにくいというのが実感だ。
ある市民運動家はこう言っている。
“現在の裁判制度は市民不在である。警察の捜査内容が事件被害者およびその家族にまともに知らされる機会すらない。家族は泣き寝入りするしかない。これからは裁かれるべき人間がしっかりと裁かれる制度が必要だ”
どうやらこの新制度の根底には“現行制度は市民的感覚を欠いている。罪を裁くのは市民の仕事であり御上の仕事ではない”という理念が存在しているものと思われる。
しかし、この市民活動家のロジックからすると“現行制度では、本来裁かれるべき人間が裁かれていない”ということになるのだが、それは本当だろうか?
現在のような社会的ルールが確立される以前の中世においては、仇討ち制度や、公開処刑制度など刑の執行に庶民が参加し、蓄積した怨念を発散させるというシステムがあった。
近代に入り統治権力による裁判という形式が導入され、刑の執行を統治権力が代行するようになるに至って、社会は“秩序”を維持する代わりに一般市民の怒りや怨念の捌け口を極小化してきたという側面がある。
当然のごとく、市民の間にルサンチマンが増大し、それに伴い厳罰化を望む声が大きくなり、主体的に犯罪者を裁きたいという欲求が生じる。
僕は、新しい制度を導入することには賛成だ。
つべこべ言うばかりでなーんにも変わらないよりは、少しずつでも変わって行けるほうがまだましだと思っている。
一人の裁判官だけで人を裁くのはナンセンスだ。
法律に精通しているお勉強のできる優秀な裁判官だけが公正な判断を下せるなどという理屈には何の説得力もない。
複数の人間が評決および量刑の決定に関与するというプロセスがより民主的であろうということも充分に理解できるし、捜査内容を被害者家族に通知する制度が必要だというのも当然のことと思う。そういう意味で裁判員制度は非常に合理的なシステムだと思う。
ただし、先の市民活動家の意見をそのまま鵜呑みにすれば、裁判員制度導入は同時に、蓄積した怨念を発露(これはこれで充分に必要な要素ではあるけれども)させるシステムともなりうるという事実にも我々は気づいておく必要がある。
少年が殺人を犯した場合、親も市中引き回しの上、打ち首獄門にしろなどという意見が出ることがあるが、今回の新制度は、まかり間違えばこのような“市民的感覚”を代弁する役割を担う可能性はないだろうか?(なんて言い過ぎかな?)
僕は、裁判員制度に期待をしている人間の一人ではあるけれども、先の市民活動家のような発言には少なからず疑問を抱かざるを得ない。
繰り返しになるが僕は市民参加には賛成だ。しかし近代社会の目指してきた社会秩序とのバランス感覚を失うことがあってはならないと思うし、細かな制度上の議論をする前に、僕のようなよくわかってない人々に対して、裁判員制度の持つ意味についての宣伝をもっと広く行ってほしいと思う。
“市民感覚”というものが、テレビのワイドショー的な“俗情”と一線を画すものであって欲しいと切に願う。
その最たるものが弁護士事務所のCMだ。
“肺がんと診断された皆さん、昔アスベストを使って仕事をしていた経験はありませんか?あなたの人生を取り戻すために○○弁護士事務所にご連絡ください”
という類のものだ。
会社を訴えて賠償金をとりましょうという主旨なのだと思うが、
まさに訴訟社会アメリカならではのCMだなーとつい感心してしまう。
なんせ世界に存在する弁護士の80%がアメリカにいるというのであるから、アメリカ国内での顧客争いが大変なのも当然だろう。
ところで裁判といえば、日本でも司法制度改革の目玉として裁判員制度が導入される運びとなった。
一般から無作為に選ばれた市民が審理に参加し、有罪・無罪の評決および量刑の決定を行うという。
審理が市民のみで行われるアメリカの陪審員制とは違い、裁判員制は従来からの裁判官も審理に加わる。そのほうが法律の知識のない市民にも判決が出し易くなるのだという。
なるほど、、、
でもなんとなくわかりにくいのでいくつか関連サイトをのぞいてみた。
今の裁判官制度のどこがダメで、なぜ裁判員制度なのか?という単純な疑問がわいたからだ。
しかし、この疑問に明確に答えてくれているサイトはなかなか見つからない。
どれもみな、先ず“裁判員制度ありき”的な論調が多い。
“先進国において市民が裁判に参加していないのは日本ぐらいなものだ”という物言いがほとんどだ。もちろんそれについてはそうなのだろうが、二つの制度を客観的に比較して解説しているページがほとんどないので今ひとつ感覚が掴みにくいというのが実感だ。
ある市民運動家はこう言っている。
“現在の裁判制度は市民不在である。警察の捜査内容が事件被害者およびその家族にまともに知らされる機会すらない。家族は泣き寝入りするしかない。これからは裁かれるべき人間がしっかりと裁かれる制度が必要だ”
どうやらこの新制度の根底には“現行制度は市民的感覚を欠いている。罪を裁くのは市民の仕事であり御上の仕事ではない”という理念が存在しているものと思われる。
しかし、この市民活動家のロジックからすると“現行制度では、本来裁かれるべき人間が裁かれていない”ということになるのだが、それは本当だろうか?
現在のような社会的ルールが確立される以前の中世においては、仇討ち制度や、公開処刑制度など刑の執行に庶民が参加し、蓄積した怨念を発散させるというシステムがあった。
近代に入り統治権力による裁判という形式が導入され、刑の執行を統治権力が代行するようになるに至って、社会は“秩序”を維持する代わりに一般市民の怒りや怨念の捌け口を極小化してきたという側面がある。
当然のごとく、市民の間にルサンチマンが増大し、それに伴い厳罰化を望む声が大きくなり、主体的に犯罪者を裁きたいという欲求が生じる。
僕は、新しい制度を導入することには賛成だ。
つべこべ言うばかりでなーんにも変わらないよりは、少しずつでも変わって行けるほうがまだましだと思っている。
一人の裁判官だけで人を裁くのはナンセンスだ。
法律に精通しているお勉強のできる優秀な裁判官だけが公正な判断を下せるなどという理屈には何の説得力もない。
複数の人間が評決および量刑の決定に関与するというプロセスがより民主的であろうということも充分に理解できるし、捜査内容を被害者家族に通知する制度が必要だというのも当然のことと思う。そういう意味で裁判員制度は非常に合理的なシステムだと思う。
ただし、先の市民活動家の意見をそのまま鵜呑みにすれば、裁判員制度導入は同時に、蓄積した怨念を発露(これはこれで充分に必要な要素ではあるけれども)させるシステムともなりうるという事実にも我々は気づいておく必要がある。
少年が殺人を犯した場合、親も市中引き回しの上、打ち首獄門にしろなどという意見が出ることがあるが、今回の新制度は、まかり間違えばこのような“市民的感覚”を代弁する役割を担う可能性はないだろうか?(なんて言い過ぎかな?)
僕は、裁判員制度に期待をしている人間の一人ではあるけれども、先の市民活動家のような発言には少なからず疑問を抱かざるを得ない。
繰り返しになるが僕は市民参加には賛成だ。しかし近代社会の目指してきた社会秩序とのバランス感覚を失うことがあってはならないと思うし、細かな制度上の議論をする前に、僕のようなよくわかってない人々に対して、裁判員制度の持つ意味についての宣伝をもっと広く行ってほしいと思う。
“市民感覚”というものが、テレビのワイドショー的な“俗情”と一線を画すものであって欲しいと切に願う。
いろいろな人が意見を言って、司会の様な形で
裁判官が意見をまとめるのがいいのでしょうかね。
裁判官にもいろいろな人がいますよね。本当に。
我が父親も若い頃に司法家を目指していましたので、
周りの人の話をいろいろと聞いたことが・・・
というか、父親自体、こんな人が裁判官だったら
さぞかし常識外れのおもしろ判決がたくさん
でてきそうだな、なあんて人間なので・・・。
まじめな話、裁判官によって判決の内容が変わる
こともあるようです。国の権限を巡る裁判で、
内容が思い出せないのですが『この裁判官だから
国が敗訴したのだろう』とかいうコメントが
新聞に載ってましたしね。人によって判決が
変わってしまっていいんでしょうかね?
名前は聞いたことあるけど、どういう話だったか全然覚えてません。
それってロス疑惑のずっと前のことでしたっけ?
ところで善悪判断の基準というのは実は意外と人それぞれではっきりしないものだと思います。
直感的に自明と思われることが厳密なことを言い出すと途端に怪しくなってきちゃったりなんてことはよくありますよね。
極端なこと言えば人を殺して勲章もらってる人達だって世界中にたーくさんいるわけですから、、、
でもそう考えると何が善で何が悪かなんて分かっているのはそれこそお天道様ぐらいだって話には結局ならざるを得ないと思います。
裁判というものがそういう意味での人の善悪を判断しなくてはならない場なのかどうか僕には良く分かりませんが、いずれにしても素人にでも良く分かる何らかの判断の基準を提示することは必要だと思います。
極論すれば、裁判員の皆様の頭の中をいかに洗脳するかで被告人の運命が決まってしまうのかもしれません。
それこそ日本版O.J. Simpson裁判なんてのも出てくるかもしれません。
(とはいえ、あそこまでのパフォーマンスができる弁護士が日本に育っているのかどうかは僕にはよくわかりませんが、、)
ただし、だからと言って司法試験に受かった優秀な裁判官だからこそ俗情に流されない公正な決定ができるのだという考え方には個人的に疑問を感じます。
優秀な人間にもいろんな人がいます。
頭の固い人、やわらかい人、強情な人、柔軟な人
俗情たっぷりの人、テレビの話題には一切ついてこれない仙人のようなひと、、、、
裁判官だって例外ではないでしょう。
彼らは当然のごとく豊富な法律の知識は持っているけれども、だからこそ公正な立場にいられるとはいえないのではないでしょうか?
と言う意味では、陪審員制ではなく裁判員制を選択するという方向性は悪くないように思えます。
いろんな意見の人が話し合って一つの結論に至るというプロセスは大切だと思います。
TVの見過ぎかも知れないが
法的知識の一切ない私が
先生と呼ばれる雄弁な弁護士の話を
鵜呑みにしないはずがないし、
被害者の悲惨な話に同情しない自信もない。
たとえ真実がどうであれ、目の前の
被告というレッテルを貼られた人間を
公平な目などで見れるほど立派な人間でもない。
もしかしたら金などにも目が眩むかもしれない。
TVや週刊誌の記者の言葉にいちいち踊らされる者が
人を裁くことなどできるのか。してもよいのか。
少なくとも裁判官は知識がある。
勉強しているからだ。
人を裁くという心得も私より持っているだろう。
私がもし間違いで(あるいは本当に)被告になってしまったら、
罪を償うにしても、冤罪を唱えるにしても
知識があり冷静な判断を下せる可能性の高い
裁判官のほうを選ぶだろう。
被害者でもやはり同じだ。
最も、雄弁なスター性のある弁護士を雇えるだけの
余裕があればきっと話はかわるのだろうが。
目の赤いセミってどういうこと?
ロス疑惑覚えてる!!
小学生くらいだった気がする・・・。
水之江滝子がどうしたっていうのなかったっけ?
いつの話だっけ?
結局、判断基準がよく分からない中で
判断されていく可能性があるわけでしょ?
基準はなんなのかが問題なんじゃないかなと。
そのうち僕の方でも写真をアップするかもしれませんよ、、
ちなみに、裁判員制度が適応されるのは殺人事件や傷害致死などの重大犯罪に限られるそうです。判断が一番難しそうな気がしますけれども、果たしてどのようになるんでしょうかね。とても気になります。
僕がちっちゃい頃に
“ロス疑惑”という一連の報道があって、三浦和義さんが日本中で完全に犯人に仕立て上げられてましたよね。
あれは一部マスコミがろくな裏づけも取らずばんばん記事を書いてしまったために起きた冤罪事件であったわけですが、もしロス疑惑が裁判員制度のもとで起こったとしたら、、、一体どうなるでしょうかね、、
怖かった・・・。
善か悪かという判断をするのか
恥ずかしいのか、そうじゃないのかの判断をするのか、
どうするつもりなんでしょうねぇ・・・。
日本は「恥」概念の国と言われていますでしょ?
「善」「悪」の概念は絶対的基準がないと出来ない
わけで、そうなると、相対的な「善」「悪」って
存在し得ないわけでしょ?
どんな判断をしていくんでしょうね・・・?