William C. Faulkner(W. C. フォークナー)、Light In August(八月の光)
ミシシッピ州では不思議な光に満ちる日が8月に、幾日かあるのだそうです。
アメリカ南部の、独特の因習に満ちた閉塞感の中で描かれる「南部の物語」。フォークナーの作品としては比較的読みやすい(「比較的」です…笑)最も長い(文庫本650ページ)作品であるけれども、あまり長さは感じない。
多くの登場人物が出てきます。フラッシュバックによって過去と現在を往復させながら複数のプロットを絡ませていくフォークナー独自の手法がとられていますが、代表作のSound and Fury(響きと怒り)ほど複雑ではありません。(「響きと~」も好きですが)
どの人物も過去に深くとらわれていて、それも南部の「超」がつくほどの保守的な環境の中で、喘ぎながら生きる姿が悲劇的でもあり、喜劇的でもあります。最初に読んだときはこれほどまでに「過去に縛られる」というのが…どうもピンときませんでしたが、自分の「歴史」が長くなると共に(つまり歳を重ねると共に…ということです)わかる部分が増えてくるから不思議です。
若い女性リーナが自分を捨てた恋人を探しに臨月のおなかを抱えて旅する場面から始まります。しかし、恋人とは一緒にはなれないだろう…という予感が最初からあります。臨月のおなかを抱えて旅をし、旅先で出産するというのは、向こうの人には「聖母マリア」を想起させる部分もあるようですね。リーナも生命力と女性美を讃えるシンボルとして描かれているようです。
リーナに救いの手を差し伸べたのはバイロンでした。彼は真面目な人間でしたが、平凡な日常を繰り返すだけの人生で、ロマンスや新しいチャレンジなどとは無縁でした。彼はリーナとの出会いをきっかけに自分を変えたいと考えるのです。出産までの面倒を見て、赤ん坊を抱えたリーナと一緒に旅をするバイロンでしたが、彼女の愛を得ることは容易ではありませんでした。たまたま旅の途中で知り合った男の言葉として、バイロンはあまりに男性としての魅力に乏しく、彼の思いが成就するなんて想像しにくいと述べられます。しかし、お互い「いつの日か」を夢見ながら二人で旅を続けることになります。
最も多くのページを割いて語られるのはジョー・クリスマス。彼の中には黒人の血が混じっていると言われていました。これはあくまでも「言われていた」ことであって、確証はありませんでした。彼の肌は黒くなく、どちらかといえば南欧生まれの人に見えたと書かれています。しかし、彼は最後まで自分のアイデンティティーがわからずに苦しみます。当時、1930年代の南部では「自分が黒人なのか白人なのかわからない」ということがどれほど致命的なことだったのか重苦しく胸に迫ってきます。異端を忌み嫌う人々。そして、自らの中にあるかもしれない「異端」を怖れて混乱する人間。破天荒な抵抗を続けてきたジョー・クリスマスもやがては死を覚悟して自分の運命を受け入れます。しかし、こういう選択肢しかなかったのは、やはり痛ましい。
もうひとりの重要人物、ハイタワー牧師。小説中での彼はモラル、罪、贖罪と再生などにかかわる重要な役割として描かれていますが、どうも読みが足りないのか…彼についてはまだ分からないままで…
これは南部の特殊な社会で起きた、
あくまでも特殊な話なのでしょうか
現代の社会でもアイデンティティー・クライシスに陥って苦しむ人は少なくありません。現代の私たちは、何ものにもとらわれることなく自由に生きている「つもり」でいるけれど、本当はどうなんでしょう…
フォークナーがこの作品を発表したのは30代後半でした。「作家」という人たちは私のような凡人には想像も及ばない力を持つ人たちであることまでは理解できるのだけれども…しかし、どうして30代の人がこれだけ多様な人間の生きざまを緻密に描けるんでしょうか。
私など、たとえ100年生きていても無理だと思われます。
いまだに自分の人生さえもよく分かっていないというのに…
