昨年亡くなった父のマンションをようやく片付けた。老人の一人暮らしだったから、本と身の回りのものが少しばかり。本は近所の小さな古本屋に売り、荷物は処分屋に引き取ってもらうことにしたが、個人的な手紙や祖父母の家を売る際に持ってきたと思われる古い写真や祖先の遺品や絵などの扱いには困った。
もともと6年前に相続税を支払うために母屋である祖父母の家と我が家を取り壊して土地を売却することになり、その際に処分した品は数え切れぬ程のものだったらしい。
父のマンションにあったものはその一部だが、それでもかなりの数だった。
私自身は当時海外に暮らしていたのでまったく知らなかったのだが、この度の片付けを経験してあの古い一軒家の物を処分する大変さを身をもって知ることになった。
思い出せば、当時、父から祖母(父の母)の嫁入り道具である桐のタンスがあるといわれ、大好きだった祖母の形見として欲しかったものの、実家もなく置き場所が無かったため、また海外に輸送する料金もあまりに非現実的だったので、あきらめて売ってもらったことがあった。
こんなことを経験すると、小さな物はともかく家具など大きなもの(ましてや家もだが)に「末代まで残せる物を」という概念を持ちにくくなってしまうな、と思ってしまう。何かを手に入れるとき、どうせ買うなら良い物を・・・と思う気持ちの裏には、その使い心地や見目形の美しさなどの「気に入った」感もさりながら、「長く使える」
からということもあるのではなかろうか。
最近は新しく建てる家に、古い家の欄干や木材を用いたりするようであるが、それも悪くないなと思う。
ただ、そういう特殊なケースをのぞくと新しい現代的な建物に古い家の物をマッチさせるのはなかなか難しい。
日本家屋はどうやってもどってくるのだろうか? 古民家や京都の町屋の改築ブームはあるものの、東京で快適な日本家屋にすむのは難しいだろう。
日本の工芸を促進させるためにも、相続税などによりどんどん切り売りされる家や土地をもう少し元のままにさせることはできないだろうか。
そんなこといったら「平等主義」に怒られちゃうかな。
もともと6年前に相続税を支払うために母屋である祖父母の家と我が家を取り壊して土地を売却することになり、その際に処分した品は数え切れぬ程のものだったらしい。
父のマンションにあったものはその一部だが、それでもかなりの数だった。
私自身は当時海外に暮らしていたのでまったく知らなかったのだが、この度の片付けを経験してあの古い一軒家の物を処分する大変さを身をもって知ることになった。
思い出せば、当時、父から祖母(父の母)の嫁入り道具である桐のタンスがあるといわれ、大好きだった祖母の形見として欲しかったものの、実家もなく置き場所が無かったため、また海外に輸送する料金もあまりに非現実的だったので、あきらめて売ってもらったことがあった。
こんなことを経験すると、小さな物はともかく家具など大きなもの(ましてや家もだが)に「末代まで残せる物を」という概念を持ちにくくなってしまうな、と思ってしまう。何かを手に入れるとき、どうせ買うなら良い物を・・・と思う気持ちの裏には、その使い心地や見目形の美しさなどの「気に入った」感もさりながら、「長く使える」
からということもあるのではなかろうか。
最近は新しく建てる家に、古い家の欄干や木材を用いたりするようであるが、それも悪くないなと思う。
ただ、そういう特殊なケースをのぞくと新しい現代的な建物に古い家の物をマッチさせるのはなかなか難しい。
日本家屋はどうやってもどってくるのだろうか? 古民家や京都の町屋の改築ブームはあるものの、東京で快適な日本家屋にすむのは難しいだろう。
日本の工芸を促進させるためにも、相続税などによりどんどん切り売りされる家や土地をもう少し元のままにさせることはできないだろうか。
そんなこといったら「平等主義」に怒られちゃうかな。