幸せってなんだろう。
たまに考える。
その都度、何某かの結論を見つけたつもりになって
また日常に戻って行く。
いつかまた疲れた時、また考える。
幸せって何なんだろうって。
人の価値観は様々だから
幸せのカタチも様々なんだろう。
そうじゃなかったら、
車も服も装飾品も全部同じデザインで、
同じ金額で同じ形のものが店にズラっと並ぶに違いない。
みんな価値観が違うから、この世の中は回ってるんだろう。
小さな金平糖を舐めるだけで幸せを感じる人もいれば
プールいっぱいのキャビアを喰らっても満たされない人もいる。
それでいいんじゃないか、と思う。
だけど
あまりに価値観が違い過ぎる者同士が互いに深く関わった時、
「価値観の相違」では済まされない大きな齟齬が生じる。
そうなるとそこにあるものは、
幸せとは到底言い難い、荒んだものとなるだろう。
それでも互いに共有する何かが保持出来ているのなら
それを胸に、互いに意見をぶつけながらでも
きっと前に進めるに違いない。
皮肉なものだと思う。
個人間の齟齬、衝突、破綻は世に絶えないのに
それらを糧としながら社会は何事もなかったかの顔をして回る。
小さな歯車たちの悲鳴を、大きな歯車は聞いてはくれない。
幸せって
ある種「自分勝手」なものだと思う。
その表現を醜いとか、不適切だとかは思わない。
慈善事業に尽くす人間が倫理的に美しいとしても
それを進んで好んでやってる人間は、きっと幸せだからやってるんだろう。
温かい家庭を作りたい、守りたい。
愛する人を、徹頭徹尾愛したい。
それは何故?
貴方がそうしたいからに他ならない。
自分がどうしたいか
自分がどうありたいか
それを第一義に考え、決断し、行動する。
そこにこそ「幸せ」はついてくるんではないのかな。
それをこそ理解出来る人間だけが、家族になれるんじゃないのかな。
怠惰を重ねて傲慢に徹し、
他者を蔑ろにしながら己の欲を尊重する人間に
貴方のその思いは届かない。
いつからそうなった?
最初からそうだったのだ。
何も不思議な事ではない。
幸せを複雑に考える事はない。
幸せでないからと嘆く必要もない。
ただ自分で自分の人生を真摯に考えて、着実に突き進む以外に
採るべき手段はないのだ。
痛かろう、苦しかろう、消えてしまいたいと毎日思うだろう。
食うものは砂、飲むものは酸のように感じるかも知れない。
昼であっても目の前は暗く、夜になれば尚一層悲観に満ちる。
壁はまるで氷のように冷たくて、鏡が映すのは悲しそうに疲れた己の姿だろう。
何をしていても生きている実感がなく
眠っていても起きていても何ら変わらない虚ろな空気に支配され
小さな物音に動じ、大きな声に怯え、怒りと恐怖と後悔しかない。
だけど、一頻りそれを味わったのなら、貴方は歩を進めるべきだ。
何も残らなかったと手元を見るな。
両手をジッと見つめるのは、死を待つものが取る行為だ。
目に見えるものに、大した価値はない。
手に取れる物は、貴方の生命を強くするものではない。
心配しなくても、貴方は前に進んでる。
それこそが財産だから。
何万言の薄っぺらい言葉より、
メッキ臭い金色より、
豪奢なドレスより、
年月だけを重ねた思い出よりも、
今疲れ果てて、それでも尚生きようとする貴方の心を信じてやれ。
そんな貴方の、本当の意味での幸せを心から望む者の心を見てやれ。
苦境に立った時に貴方を支えようとする人間は、貴方の幸せを望む者。
追い風の時に貴方に美辞麗句を並べる人間は、己の幸せを望む者。
幸せってなんだろうね。
幸せ幸せって人は言うけど、
幸せじゃなかったら生きられないのかな?
僕はそんな事もなかったし、
だけどもどんな時でも支えてくれる人がいたし、今もいるから
それで良いと思って生きて来たよ。
そんな人たちと生きていられる事こそが、
もしかしたら本当の幸せなんじゃないかと思うようになったよ。
一日の幸せで、十日の苦痛を切り抜ける。
そう考えて、生きてこれた。
貴方は、どんな幸せをこれから見つけるんだろうね?
どうか、本当の意味で貴方らしい、重厚で人情に溢れた
幸せに出会える事を祈ります。心から。