訪問リハビリ開始直後は、もう明日にでも歩けそうな勢いに期待も膨らんだものですが、残念ながらいまだ自力で歩くことはできていません。
週2回のリハビリを続けたおかげで確かに筋力は1年前より快復したので、ベッドから起き上がったり、食卓へ移動したりすることは自分一人で何とかできるようになりました。それだけでも介護するお義母さんにとってはとてもありがたいことです。
ただ、風邪を引いたり、うっかり水分補給を怠って脱水症状を起こしたりすると、すぐに熱を出して途端に動けなくなってしまうので、膝と腰に持病を抱えている義母にとっては、動けない義父をベッドに寝かせるのはとてもシンドイことなんですね。
そんなときは電話して私ら夫婦を呼んでくれればよいのに、迷惑かけたくないのか、自分でやりたい気持ちが強いのか、ついつい遮二無二やってしまいます。
先日も無理がたたって、夜中にひどいめまいと吐き気でどうしようもなくなり、救急車を呼ぶ事態になってしまいました。
CTとMRI検査をし、結果的には「めまい病」という診断で、脳に異常はなく、点滴で症状はだいぶ治まったので、入院することもなく即時帰宅が許され不幸中の幸いでしたが。。
義母は自分がそんな状態でも、義父のことを先に心配するような人です。
「私が倒れたらおとうさんが困る。だからがんばる」
そんなに1人で抱えてがんばらないで──と言いたいのですが、
「私がおとうさんにやってあげたいから、世話してあげたいからやってるんだから、いいんだよ」と。
ふと、「がんばる」は「頑張る=頑な(かたくな)に張り切る」こと、そして「我を張る」(我が我がと主張する)ということ──という、平山先生の言葉を思いました。
人にやってあげたいと思うのは、ひょっとしたら「私が」そうしたいのであって、される側が果たして本当に求めていることなのか……ちょっと立ち止まって考えてみることも必要なのかもしれません。
お義父さんにしてみたら、おかあさんに元気で居てもらうことを何より願っていて、そこまでやってもらうことなんて望んではいないのかもしれない、もしかすると…ですけど。
昨今の介護現場では、「マイナスの介護」が注目されていて、つまり何もかもやってあげる姿勢から、本人がやれることはやらせる、介護者がなるべく手を引く姿勢へということで、驚くべき成果を上げ始めているとのこと。
本人が興味を示すことを見つけられるような環境をつくり、やりたい意欲を持つことで、さまざまな機能回復にもつながっているのだとか。
介護する側、される側、本当に求められているのは何なのか──
難しい課題ですけれど、人が「生きる」ということにおいて誰もが考えていかなければならないことなのではと、改めて思いを深くいたしました。
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