とうとう『広告批評』が最終号になってしまった。厚さも2~3倍近くある。高橋源一郎が出ていた文学特集の時はよく買っていたものだが、続々とこの手の雑誌が休刊になるのはなんとも痛ましい。
この最終号で一番面白かったのが、中島信也&箭内道彦司会による、豪華過ぎる広告クリエイター40人のシンポシオンである。内容は、「若年貧困層」をテーマに「未来ある若者が力を発揮できる社会を作ることが、この国の企業にとって本当の幸福でもある。そのためにクリエイティブが何が出来るか」という生オリエンをコメンテーターが即プレゼンするという、むちゃくちゃながらも大変面白い内容だと思う。
かつてサルトルは「飢えた子供達の前で文学は何が出来るか?」という問いをしたが、今やこの「クリエイティブは世の中に何が出来るか?」という命題は、かつてサルトルが提示した以上に日本で言葉、映像、イラスト、絵画、漫画、音楽など何かを表現して形にする人全てに関わる重要なテーマでもあると思う。つまりは日本全体をどうすれば活性化できるのか?という最も必要な面白い提言やヒントが数多くここにちりばめられているように思えるからだ。
この手の座談会でよくあるのは、業界の人間による内輪同士の褒め合いに終始するという、内側からの一方的な視点のみで話が終わってしまうこともある。開催者が「広告批評バンザイ」という懐かしい昔話に花が咲く、という展開を嫌ったこともあって、パネリストは面食らいながらも面白い意見をかなり出していた。
いい広告を見た人がその瞬間幸せになればいい、とか自分たちが作ったCMを見た人が自殺を思いとどまれば・・とか、人々の心の価値観を変えてパラダイムシフトを促す、など受け手側の感情をポジティブに喚起するような広告作りを目指すという意見もあれば、一方で、自分の仕事で手一杯で社会や雇用のことまでは考えることが出来ない、といった現実的な意見もある。
このシンポシオンで出てきた案でぜひやって欲しい、賛成と思うのは以下の二点だ。
・このシンポシオンのメンバーで「地方行脚」をやる。
・クリエイティブの人がニュースを作る。
「地方行脚」は中田英寿が計画中だが、ぜひこのクリエイティブチームのメンバーによる地方行脚があればもっと面白いことがたくさん出来ると思う。また、本質をわかりやすく伝えるのが十八番であるクリエイティブ系の人が作ったニュースコンテンツは大いに世の中を変える可能性がある。
そのためにも世の中を動かすのは畢竟政治であるため、「言葉で伝えられる政治家がいなければいけない」という谷山雅計の意見は正鵠を得ている。「活字離れ」どころか今ほど「言葉」の力が求められている時代はない、というのはかなり言われ続けていることだ。にもかかわらず、状況が悪化したような印象ばかり受けてしまう。
それは、若年貧困層問題は必然的に景気と雇用問題と不可分に結びついていて、若い世代に元気が失われていることと関係ないはずがない。むしろそれだからこそ、受け手が元気になるものを創るというのはきわめて正当な方向性だ。
広告を見た人が触発されてものを買い、それによって金が回り経済効果が発生する。そんな従来のビジネスモデルは、クロスメディアの時代でネット掲示板がある現在そう単純なものではない。広告を見た瞬間に心の琴線に触れるような「何か」があること。その「何か」とは何かというのは、作り手にも受け手にも両方存在する。「何か」が幸せに繋がれば「心の景気」の回復にも繋がっていく。
このシンポシオンは、ものを創る側の根源的な問いに対する新たな可能性と限界を垣間見せてくれる刺激的な意見の集大成のように思える。閉鎖した円環に完結するのではなく、その殻を破るようなその一歩先を俯瞰する視点を獲得するためにも、クリエイティブの概念を押し広げることが重要だ。そのためにも「心の景気」の回復はますます叫ばれ続けるだろう。なにせ元気が出ないと何もできないからだ。
札幌は「テナント募集」とか「広告募集」の看板や公共掲示板など、作り手のための広告ばかりが目立つ。それを不況のせいだけにするのではなく、こんな時代だからこそピンチはチャンスと考える必要がある。
全ての出来事はありとあらゆるメッセージに満たされている。広告ほどメッセージに満ちあふれたものはない。街をいろいろ見回してみよう。コピーライターがどんな思いをこめてそこのメッセージをこめたのかに思いを馳せることは、漫然とメッセージを受け止めるだけの受動的な行為ではなく、能動的でクリエイティブな思考だ。それはまた幸せなセレンディピティにも繋がることでもあるのだ。