L'Appréciation sentimentale

映画、文学、漫画、芸術、演劇、まちづくり、銭湯、北海道日本ハムファイターズなどに関する感想や考察、イベントなどのレポート

第3回モノカキ例会

2009-05-29 15:55:49 | 文学

 前回(第2回)からおよそ半年も経ってようやく通算で3回目のモノカキ例会が開かれた。「モノカキ例会」とはライトノベルから文学、マンガ、アニメ、映画や演劇について、料理を食べながら酒を飲みつつ語り合うという会合である。結成してもうすぐ10ヶ月。メンバーはいつもの通りラノベ作家のH氏、シナリオライターのS氏、蛙鳴堂のN女史である。

 10ヶ月経ってようやく3回という活動実績がなんとも心細いところだが、そろそろ集まろうと誰かが声を掛けても、自分も含めて全員が全員口をそろえて「日程が決まったら教えて下さい」という類のメッセージしか発さないので、開催がしばらく延長され続けてきた。今回は引きこもりがちの生活に業を煮やした(?)H氏の提案によって、めでたく開催が決定した。

 今回の会場は大通駅1番出口の地下1Fにある中国料理屋である。ビルの地下1F全体が飲食店街になっていて、少々迷路状で迷いやすいところに位置している。この店のメイン料理である薬膳火鍋(これが実にうまい!)を食べながら話は進んだ。

内容は・・・
・『ドラえもん』では、町の人たちがドラえもんの存在に驚かず、みんなドラえもんの存在を受容している。こういったことをいちいち指摘していたら作品は成立し得ない!?
・伊坂幸太郎『重力ピエロ』や『ゴールデンスランバー』よりも『砂漠』のほうが読了後の味わいが深い?
・読んでいる間の時間だけが面白いだけの小説にはたして「価値」はあるか?
・今発売されている小説が50年後に残る可能性について。
・阿部和重は初期作品『ABC戦争』を読むべし。
・何か文章を書くときに自分の好きな音楽だけを流すことによって脳の部位が刺激され、飛躍的に筆が進む。それにはiPodの使用が一番便利。
・『刑務所の中』で一番印象に残る場面は、アルフォートを食べるのを楽しみに待つ場面。

 などなど、他にもいろいろな話題が上がった。そのほとんどは私見で独断的なものばかりだったが、実に楽しい時間だった。

 次回の開催はH氏の新刊発売後を予定しているが、はたして?


繰上和美『ゼラチンシルバーLOVE』

2009-05-22 17:12:37 | 映画

 シアターキノで『ゼラチンシルバーLOVE』を見てきた。腰痛になって以来遠のいていた映画ライフが徐々に復活してきた。申し込みギリギリだったが今年もビンテージ会員になった。これで来年3月いっぱいまであまり料金を気にすることなく本数を見ることができるので、シアターキノでの映画ライフは安泰である。とにかく、少しでも気になった映画は無理にでも時間を作ってできる限り映画館で観る、というのが正しき映画ファンのあるべき姿である。

 さて、この『ゼラチンシルバーLOVE』は、元カメラマンにして72才になる新人映画監督である繰上和美の長編デビュー作である。

 薄暗い部屋でカメラマンの男(永瀬正敏)が窓越しにビデオカメラを向けて、川向こうにある小屋の女(宮沢りえ)を24時間撮影している。男はある謎の男(役所広司)から依頼を受けその女を撮影するように頼まれているのだが、依頼人は決して女の正体を男に伝えない。女は毎日ゆで卵を12分30秒でゆでて食べている。あるとき、男は町で偶然にも車の衝突事故現場に居合わせることになる。車を運転していた男は額に銃弾を受けて即死していた。その様子を女はソフトクリームを食べながらじっと眺めている。後日、男は新聞で事故の被害者が大物政治家であることを知る。やがて、カメラマンの男の前にその女が現れ、自分が殺したのだと告白する・・・。

 執拗に繰り返されるのが、女がゆで卵を食べるシーンである。 

 マニキュアが光る指先でつままれたゆで卵がゆっくりと女の口元に運ばれる。口元に卵の先端が含まれると、半熟になっている黄身が口紅で彩られている唇の端にねっとりと広がっていく。液状になっている黄身は女の舌先ですくい上げられ、唇は再び紅い輝きを取り戻す。開くこともなく絶え間なくゆっくりと動き続ける女の唇は、スローモーションのような緩やかさで静かに動き続ける。

 男は巨大なモニターを買い込み、女がゆで卵を食べるシーンを何度も繰り返し再生してスクリーンの前で悶え苦しむ。その姿勢がブリッジのような逆立ちになっているのも、男がよく行くバーでママ(天海祐希)から聞かされた虫の話(砂漠に棲むある虫は夜に逆立をしてしたたり落ちてくる夜露を飲む。だが恍惚となって動けなくなり太陽に焼かれて死ぬ)と同じ姿勢だ。つまり、女の持つ卵に男の体が重なり、スクリーンに映った女の口元に男が持っていかれて食べられるという構図になっている。これは、この「視線ゲーム」の行方を象徴したシーンであろう。

 映画では、ものを食べるという行為は生命を維持するのみならず、その行為自体が究めて怪しげなエロティシズムを喚起させる映像になっている。それはソフトクリームをなめる舌が強く強調されるのも同様だ。生命を象徴する卵を食べる女が命を奪う殺し屋であるように、生と死という対立構造をとっている。それは映画のメインとなっている監視する側と監視される側という構造はもちろん、スチール写真と映像(静と動)、暗闇と光(冒頭の髭剃りや風呂場で写真を現像するシーンなど)のように、映像自体がどこを切り取ってもスチール写真のように計算し尽くした画面構成の中に描かれている。

 久しぶりに画面がメタファーに満ち溢れている構成の作品を見た。次回作も期待したい。


『広告批評』の最終号から  クリエイティブは世の中に何が出来るか?についての考察

2009-05-07 00:45:04 | 本と雑誌

 とうとう『広告批評』が最終号になってしまった。厚さも2~3倍近くある。高橋源一郎が出ていた文学特集の時はよく買っていたものだが、続々とこの手の雑誌が休刊になるのはなんとも痛ましい。

 この最終号で一番面白かったのが、中島信也&箭内道彦司会による、豪華過ぎる広告クリエイター40人のシンポシオンである。内容は、「若年貧困層」をテーマに「未来ある若者が力を発揮できる社会を作ることが、この国の企業にとって本当の幸福でもある。そのためにクリエイティブが何が出来るか」という生オリエンをコメンテーターが即プレゼンするという、むちゃくちゃながらも大変面白い内容だと思う。

 かつてサルトルは「飢えた子供達の前で文学は何が出来るか?」という問いをしたが、今やこの「クリエイティブは世の中に何が出来るか?」という命題は、かつてサルトルが提示した以上に日本で言葉、映像、イラスト、絵画、漫画、音楽など何かを表現して形にする人全てに関わる重要なテーマでもあると思う。つまりは日本全体をどうすれば活性化できるのか?という最も必要な面白い提言やヒントが数多くここにちりばめられているように思えるからだ。

 この手の座談会でよくあるのは、業界の人間による内輪同士の褒め合いに終始するという、内側からの一方的な視点のみで話が終わってしまうこともある。開催者が「広告批評バンザイ」という懐かしい昔話に花が咲く、という展開を嫌ったこともあって、パネリストは面食らいながらも面白い意見をかなり出していた。

 いい広告を見た人がその瞬間幸せになればいい、とか自分たちが作ったCMを見た人が自殺を思いとどまれば・・とか、人々の心の価値観を変えてパラダイムシフトを促す、など受け手側の感情をポジティブに喚起するような広告作りを目指すという意見もあれば、一方で、自分の仕事で手一杯で社会や雇用のことまでは考えることが出来ない、といった現実的な意見もある。

このシンポシオンで出てきた案でぜひやって欲しい、賛成と思うのは以下の二点だ。
・このシンポシオンのメンバーで「地方行脚」をやる。
・クリエイティブの人がニュースを作る。
「地方行脚」は中田英寿が計画中だが、ぜひこのクリエイティブチームのメンバーによる地方行脚があればもっと面白いことがたくさん出来ると思う。また、本質をわかりやすく伝えるのが十八番であるクリエイティブ系の人が作ったニュースコンテンツは大いに世の中を変える可能性がある。

 そのためにも世の中を動かすのは畢竟政治であるため、「言葉で伝えられる政治家がいなければいけない」という谷山雅計の意見は正鵠を得ている。「活字離れ」どころか今ほど「言葉」の力が求められている時代はない、というのはかなり言われ続けていることだ。にもかかわらず、状況が悪化したような印象ばかり受けてしまう。

 それは、若年貧困層問題は必然的に景気と雇用問題と不可分に結びついていて、若い世代に元気が失われていることと関係ないはずがない。むしろそれだからこそ、受け手が元気になるものを創るというのはきわめて正当な方向性だ。

 広告を見た人が触発されてものを買い、それによって金が回り経済効果が発生する。そんな従来のビジネスモデルは、クロスメディアの時代でネット掲示板がある現在そう単純なものではない。広告を見た瞬間に心の琴線に触れるような「何か」があること。その「何か」とは何かというのは、作り手にも受け手にも両方存在する。「何か」が幸せに繋がれば「心の景気」の回復にも繋がっていく。

 このシンポシオンは、ものを創る側の根源的な問いに対する新たな可能性と限界を垣間見せてくれる刺激的な意見の集大成のように思える。閉鎖した円環に完結するのではなく、その殻を破るようなその一歩先を俯瞰する視点を獲得するためにも、クリエイティブの概念を押し広げることが重要だ。そのためにも「心の景気」の回復はますます叫ばれ続けるだろう。なにせ元気が出ないと何もできないからだ。

 札幌は「テナント募集」とか「広告募集」の看板や公共掲示板など、作り手のための広告ばかりが目立つ。それを不況のせいだけにするのではなく、こんな時代だからこそピンチはチャンスと考える必要がある。

 全ての出来事はありとあらゆるメッセージに満たされている。広告ほどメッセージに満ちあふれたものはない。街をいろいろ見回してみよう。コピーライターがどんな思いをこめてそこのメッセージをこめたのかに思いを馳せることは、漫然とメッセージを受け止めるだけの受動的な行為ではなく、能動的でクリエイティブな思考だ。それはまた幸せなセレンディピティにも繋がることでもあるのだ。


祝・マリオンシネマオープン フォ・ジェンチィ『初恋の想い出』

2009-05-04 00:46:57 | 映画

 マリオン劇場が閉鎖してから約3ヶ月。狸小路2丁目のビル4Fにマリオンシネマとして新たに復活してくれた。厳しい経済情勢の中で新たに映画館を開設するというのは決して容易なことではないと思う。一映画ファンとして新しい映画館が誕生するのは喜ばしいかぎりだ。果敢にチャレンジするオーナーに敬意を表しつつ、これからも定期的に通い続けて応援していきたいと心から思う。

 オープンしたてとあって、壁も床もトイレも全てが新しく、清潔そのものだ。ただ、館内は非常に寒かった。オーナーもまだ空調のコツがつかめていないようだ。

 さて、マリオンシネマのこけら落としはフォ・ジェンチィ『初恋の想い出』である。大学受験を控えた幼馴染みの二人チー・ラン(ヴィッキー・チャオ)とホウ・ジア(ルー・イー)はいつしかお互いに惹かれ会う仲になる。だが、ホウ・ジアの母親はチー・ランとの交際を嫌悪し、チー・ランもまたホウ・ジアとの交際を反対される。実は、子供の頃にホウ・ジアの父は自殺し、その原因はチー・ランの父のせいだと母から告げられる。チー・ランはホウ・ジアの父の死が両親と何か関係あるのかを問うが、明確な答えを得られず、ホウ・ジアと会うことも許されなくなる。
 
 二人は隠れて会うようになり、その境遇をシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に重ね合わせる。だが、ロミオとジュリエットのように自殺を図るが失敗し、両家はさらにお互い嫌悪し合うようになる。そのため、ホウ・ジアは大学卒業後に留学することに決める。7年後、帰国しても二人は会うこともなかったが、末期ガンを患ったチー・ランの父の告白によって、運命は二人を急速に結びつけることになる・・・。

 舞台が1980年代の儒教色の強い中国とあって、当然携帯電話もeメールなど存在しない。そんな時代であるがゆえに、お互いの境遇は手紙か人づてに聞いた噂で境遇を知るしかない。そのすれ違いのドキドキ感は現代ではもはや体感することの出来ない失われた感情だ。

 チー・ランとホウ・ジアの感動的とも言えるほどに強いお互いを思う気持の揺るぎなさは物語の全編を通して優しく描かれている。それは、結ばれる希望のない傷を負い続けるような歳月だ。そんな時間の背後に流れているのは、相手をゆるすことの拒絶が心の傷をいっそう深くし、幸福を先送りするという非常に厳しいこの世の掟だ。それは決して取り戻すことのできない失われた年月という形で、両家全員の人生に重くしかかってくる。それは『ロミオとジュリエット』以上にほろ苦く、とてつもなく切ない傷だ。

 見終わったあと、すっかり忘れ去ってしまったピュアな純粋さを取り戻したというか、心が洗われたような久しく味わったことのない深い感動の余韻が全身のすみずみにまで広がった。ヴィッキー・チャオのすばらしさと予想だにしなかった良作に巡り会ったことに感謝。