L'Appréciation sentimentale

映画、文学、漫画、芸術、演劇、まちづくり、銭湯、北海道日本ハムファイターズなどに関する感想や考察、イベントなどのレポート

コミックふるさと北海道

2012-07-04 00:46:35 | 漫画・コミック

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6年前にこのブログで 北海道出身のマンガ家だけの雑誌を創刊するのは面白いかも、みたいなことを書いた。ようやく今年の5月下旬に、北海道ゆかりのマンガ家12人による饗宴マンガ作品『コミックふるさと北海道』という単行本が出版された(同時バージョンで福岡もある)。北海道庁が全面協力しているようで、巻末には高橋はるみ知事のメッセージが収録されている。パセオの弘栄堂書店では『コミックふるさと北海道』がワゴンで平積みをしていた。こういう地元の作品をキチンとプッシュ&応援するセンスがすばらしい。購入するのがだいぶ遅れてしまったが、感想めいたレビューを記しておこう。

過去に発表された作品の再録もあれば、本書のための描き下ろし作品もある。エッセイマンガやフィクション、モンキーパンチのように完全に文章エッセイになっている作品もあり、幅が広い。マンガ雑誌や連載を集めた単行本を通読するのとは全く違うマンガ体験ができる。というのも、児童マンガ風の動物マンガから20代の女性漫画誌風の恋愛作品まで、絵柄もキャラクターもストーリーも文体も一つとして似通った作品がないからだ。

そんな作品集の中で、共通して描かれているのが、12人の作者による北海道に対する、あふれんばかりの熱い想いだ。どれも北海道抜きには生まれなかった作品ばかりだ。青空大地の「朝まで生き物会議」のようなテーマは心が躍る。大和和紀の「大通公園で子どもしてた頃」は、今の大通公園と比べると隔世の感もある。いくえみ稜が自分の通っていた中学校の先輩であることを知って驚愕。また、香山梨緒「ローソク出せと織姫さま」で初めて知ったのが、七夕(北海道で8月7日)に子供たちが「ローソク出せー」と家を回ってお菓子をもらう風習だ。少なくとも私の育った札幌中央区界隈では初耳である。お母さんが旭川のコールセンターに勤めているところも、地方における産業構造と雇用の関係が読み取ることができる。

道民でもまだまだ知らない北海道がたくさんあるぞ。

3月頃に行われた「ホッカイドウ学的マンガ夜話」で、北海道はマンガ家を多数輩出していることが話題に挙がったが、その理由については結論らしい結論は出なかった。おそらく、北海道の空気、大地、気候、風景が人間にもたらすインスピレーションは、なにか神秘的なアート感覚を呼び覚ます不思議な力があるのだと思う。それがDNAの奥底に眠っている原始の感覚や本能を刺激してアートの創作意欲と結びついて結晶するのではないか。今回収録されている作品を読んで、厳しい冬の自然が猛威をふるっている描写の多さから、そんなことを考えた、モンキーパンチがエッセーで書いているように、『ルパン三世』は北海道だから創作できた。北海道を離れても、在住しても、故郷がマンガ家の作品にもたらす「場所の力」は計り知れない。

今回登場しなかった北海道出身マンガ家たちが独自の視点とスタイルで描く北海道を、もっと読んでみたいと思う。第2弾の刊行に心から期待したい。


「ホッカイドウ学」的マンガ学夜話 その3 マンガに描かれる札幌、北海道、都市

2012-03-09 00:06:06 | 漫画・コミック

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前回の続き。ここからは自分なりに少し考察してみよう。

出身地とマンガの作風がどこまで相関性があるのかは、正直不明なことも多い。北海道出身だからといって、必ず北海道を漫画の舞台に据えて描いているというわけではない。もちろん、北海道を舞台にしている作家も多い。

北海道はとにかく広い。広い空と地平線が描かれていれば、それが北海道らしい風景に見えてしまう。それが、紋切り型的な北海道のイメージだ。そのイメージは、「北の国から」によってある程度作られた北海道であり、日本人が(とあえて言うことにする)思い浮かべるそのイメージの中に札幌も含有されている。だが、札幌とそれ以外の北海道(の一部の都市をのぞいて)では、あまりにも差がある。札幌以外の道民にとっての北海道と、札幌人にとっての北海道の差も大きい。札幌、北海道、日本とで、パブリックなイメージと北海道内部でのイメージにそれぞれギャップがあり、そのギャップが、漫画で描かれる登場人物が抱いている思いや登場する風景に、違和感や既視感を読者に想起させることになる。

そうした複雑な多様性の中で、なぜ首都圏ではなく、物語の舞台として北海道や札幌が選ばれるのか、その必然的な理由が、作品の中でどううまく描かれるのか(あるいは描かれないのか)、どんな役割を果たしているのかなどをマニアックに読み解いていくのも面白い。地方都市が舞台となるからには、必然性がある(宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』で郊外、都市の凝集性、流動性をキーワードに、なぜ宮藤官九郎がドラマの舞台に池袋、木更津を選択したのか優れた考察を行っている)。

札幌は日本の「郊外」だ。だが、北海道の「中心」でもあるという、二重に相反する側面を持ち合わせている。さらに、その独自の文化ゆえに異国性を兼ね備えた希有な都市でもある。極端なことを言えば、北海道は「外国」なのだろう。同じ北海道でも、札幌とそれ以外では大きく異なるので、札幌と非札幌で分ける必要が出てくる。だが、道外から見ると、全てが同一視されてしまう(ことが多い)。

そんな札幌を舞台に、どんなマンガ=物語が生まれるのか。札幌が舞台のマンガは、たとえば、高橋しん『最終兵器彼女』、河原和音『高校デビュー』、エラーダイブ『義男の空』などだ。キャラクターと地元の関係、札幌が単なるバックの風景として登場するのか、登場人物のアイデンティティーと関係するのか。まちという観点から作品群を読み直すと面白い発見があるかもしれない。これは考察する価値があるだろう。

マンガの中で、東京や地方がどう描かれているかを比較してみるのはどうだろうか。たとえば、『こち亀』に出てくる東京とか、魚喃キリコ『Blue』の新潟、瀬尾公治や原秀則の描く地方の高校とか、聖地巡礼の元祖『らき☆すた』などいろいろある。地方と東京を考える上では、上京と恋愛が物語に関わってくる(詳しくは、森川嘉一郎『趣都の誕生』を参照)。格闘技漫画でありながら自分のアイデンティティーがまちにどう受容されるかをうまく描いた森恒二『ホーリーランド』のような作品もある。

比較したところでどうなる、というものではないが、それだけマンガは面白くて、話のネタは尽きないということだ。どう楽しむかは自由だが、ともあれ、「マンガ読み」は、絶えず面白い作品を見出す努力を続けて、深く分析する能力を鍛え上げていかなければならない。


『ハチワンダイバー』と『BAKUMAN』の熱さ

2009-06-12 21:05:24 | 漫画・コミック

 圧倒的にスゴイ漫画を読んでいると、そのページ数や台詞の多さとは全く関係なしに、読むペースがいちじるしく遅くなってしまうことがある。あまりのスゴさ、巧さに感嘆してしまって、気持ちを落ち着かせてるべく呼吸を整えないとページをめくるのが困難になってしまう。それくらいその世界に完全にのめり込んでしまうからだ。また、作品の世界に引き込まれるのと同時に、ネームやコマ割り、絵柄、構成などを客観的に分析してしまう非常に厄介なもう性質が自分に備わっているので、なおさら読む時間が掛かる。だが、そういう体験をするために面白い作品を求め続けるといっても過言ではない。

 最近新刊が出た柴田ヨクサル『ハチワンダイバー』と大場つぐみ&小畑健『BAKUMAN』は、久々にスゴイ作品だ。この二つの作品を読んでいると、作者の漫画に対する途方もない「熱さ」にやられそうになる。両者に共通するのは、それを失うと自分の主体性が崩壊してしまう程に、全身全霊で人生を懸ける男が描かれているところだ。それは人生を懸けた魂の闘いだ。「失うと主体性が崩壊してしまうもの」とは、『ハチワンダイバー』が将棋であり、『BAKUMAN』がマンガに相当する。両作品共に主人公は、亜豆美保、中静そよ(みるく)という魅力的なヒロインへの恋に向かって全エネルギーが昇華されている。

 『週刊少年ジャンプ』(以下『ジャンプ』)で王道マンガ連載を目標にマンガを描くことを『ジャンプ』で連載している『BAKUMAN』の入れ籠構造は、それ自体が「王道マンガ」というセルフパロディーにもなっている。このサイコーとシュージンが漫画を描いて掲載を目指す行為は「バトル」以外の何ものでもない。『ジャンプ』という雑誌でしか決して成立し得ない「王道」だ。単に漫画連載を目指すという展開から、編集者の服部、ライバルである新妻エイジ、アシスタントの中井、福田や三吉とシュージンの関係など、多くの人物・要素が混じり合ってきて、物語性が非常に豊かになってきた。3巻になってますます面白い展開になってきたと思う。

 同じ「ジャンプ」でも『週刊ヤングジャンプ』で連載されている『ハチワンダイバー』の主人公菅田は、学校や社会という「システム」から外れた将棋の真剣師という生き方をしている。11巻になっても1巻からのテンション勢いが衰える気配が全くない。むしろ次々に登場するキャラとの闘いで、そのテンションの高さに一層の拍車が掛かっている。凜に求婚した右角とのバトルは、遥かに超越した世界に達している。そして「ダイブ」の使い方が実に巧い。菅田のコーヒー好きという側面も(もっぱら缶コーヒーかコーヒー牛乳であるが)もますます強調されていく。右角の「強者と将棋を指すのはやっぱ最高だ」というセリフは、能力のぶつかり合いの世界で生きている人間たりえる言葉だ。それは柴田ヨクサル自身も同じことなのだろう。

 こういう作品に出会えると、漫画読みでよかったと心から至福を感じる。作者のマンガに対する途方もしれないくらい高いエネルギーを感じることが出来る。この二つを越えるような作品が早く出てきて欲しいと思う。


福満しげゆき『僕の小規模な生活』2巻から

2008-11-05 01:15:21 | 漫画・コミック

 福満しげゆきの『僕の小規模な生活』が[『モーニング』誌上で一旦終了し(来春再開予定)、単行本の2巻が発売されたのでさっそく購入した。このペースで来春からの連載再開となると単行本化は年1回のペースになりそうだ。

 昨年最も面白いと思った作品は柴田ヨクサル『ハチワンダイバー』と並んで福満しげゆきの『僕の小規模な生活』だった。『モーニング』での連載当初は漫画家志望の主人公と元金髪で年下の妻との日常を描いた作品だったが、この作品で人気が出たためか、青林工藝社から刊行されている福満しげゆきの過去の全著作が書店で並べられるようになった。おかげで貴重な福満しげゆきの過去作品を入手しやすくなったのはとてもありがたい。かつて漫画家志望の青年だった作者も今や駆け出しの域を抜けつつある漫画家になっている。

 この作品を読み始めた頃は週刊連載とはいえ6ページのため単行本になるのがかなり先だと思っていたが、1巻は意外にも早く単行本化された(その理由は作者の生活費のためでもあった)。だが、単行本を読んだときの感想は、『モーニング』誌上で読んだときに比べてなぜか全然パッとしなかった。その後『僕の小規模な生活』(以下『~生活』)の前作に相当する『僕の小規模な失敗』(以下『~失敗』)を読んで、なぜ『~生活』で感じた釈然としなかった理由が全て氷解した。と同時に『小規模な失敗』の方が圧倒的に面白く感じられた

 『~生活』を読んだときに感じた違和感の正体は1巻でありながらも話の途中から読んだような中途半端さが原因だった。というのも、『~生活』は『~失敗』の完全な続編だからである。もちろん『~生活』は『~失敗』を読まなくても独立した作品として読むことも可能だが、実質『~失敗』の2巻目として捉える必要がある。もはや福満作品を語る上で欠かすことのできないキャラである妻との馴れ初めなどが全て『~失敗』で描かれているからだ。

 2巻になると1巻で描かれていたコンビニバイトでのエピソードや団地の隣の部屋での死体発見など、売れない新人漫画家時代の漫画「以外」の多数のエピソードがほとんど消失し、「小規模な生活」が完全に妻や編集者たちのやりとりに閉じられていく。外界との接点は他の漫画家と妻の家族になっていて、ますます「小規模」になっていく。

 連載当時は自分の過去を描いていたが、連載が進むにつれて「現在」と「作品」との時間差がなくなっていき、「作品」の時間が「現在」の時間に追いついてしまった。そのため今の『~生活』が、徐々に完全にまんがを描くこと、特にまんがを連載することと雑誌のネームバリューを持ち出した他誌編集者との微妙な駆け引きのような話に移行していくのは、当然の成り行きとも言えるかもしれない。すなわち「小規模な日常」が完全に漫画を連載することが中心になっている「現在」において、この作品は時間軸が限りなく「今」に近づいたリアルタイムな「日常」(もちろんフィクションだ)となっているわけだ。そこをどう描いていくかというのが今後ますますこの作品の読み所になっていくだろう。

 福満の描く編集者は『カラスヤサトシ』のようにT田という独立した人間キャラに仕立て上げるのでもなく、皆一様に背中と後頭部のみで表現されており、決して顔は出てこない。そのため彼らとの食事シーンなどは人物が書き表されているとはいえ、実質やりとりは台詞のみだ。つまりは漫画家として人間関係の中で絶対に不可避な編集者達は読者に背を向けているのに対し、武道館でミュージシャンを目指している友人やその恋人などは顔も全身も登場している。これは編集者とはあくまでマンガを巡る「関係」であることを一貫して示した文体の一つであろう。

 金髪で情緒不安定だった妻のキャラも主人公を完全に支える存在に変わった。スマートだった体格が2巻の後半なるとずいぶん太めにデフォルトされ、顔も横長に変容していくなど絵柄もずいぶん変化した。「マンガを描く漫画家のマンガ」であるこの作品は、編集者とのやりとりの中で、自分が漫画家としてどういう出版社との板挟みにあいながら、どういう立場に立っているのかを絶えず自問し悩むようになっていく。

 この後どういう「生活」が続いていくのか?それは来春からはじまる続編によってまた明らかにされていくだろう。00年代のマンガ家を描いた新たなビルドゥングス・ロマンといってもよい。作者本人は依頼されたらどうしようと作品で否定してはいたが、エッセイ風漫画だけでなく、ジョジョみたいな漫画もぜひ読んでみたいとも思う。


モノカキ例会にて 『LaLaDX』田中慧デビュー作品「応援ファミリア」とそのお祝いパーティー

2008-10-11 23:47:05 | 漫画・コミック

 モノカキ例会と勝手に称して、1ヶ月半に1回くらいの割合で諸先生方と演劇からマンガ、文学、シナリオ、創作などいろいろ飲みながら語りあう会合がある。メンバーは脚本家の島崎友樹氏(現在どさんこワイドで放映されている「桃山おにぎり店」の作者様)、ライトノベル作家の比嘉智康氏(MF文庫『ギャルゴ!!!!!』の作者様)、蛙鳴堂の中川ヨミ氏がメインメンバーである。今回は中川ヨミ氏の友人である田中慧さんが白泉社の雑誌『LaLaDX』にて読み切り作品『応援ファミリア』がLMG(ララ漫画グランプリ)フレッシュデビュー賞を受賞して掲載されることになったので、そのお祝いがすすきのの鴨サロにて開かれることになった。

Cid_01081011162425_____d903idocom  例会の日がちょうど『LaLaDX』の発売日だったので、集合時間前に某書店に立ち寄って『LaLaDX』を購入。少女マンガ雑誌を買うことには抵抗がないわけではないが、いちいちそんなことなど気にしていられない。本屋にいると時間があっという間に時間が過ぎてしまい、慌てて会場に向かうが道に迷ってしまって少々遅れて到着。島崎先生以外みんな『LaLaDX』を購入して持参していた。現在放送中の桃山おにぎり店の話題や舞台の話題、創作秘話などいろいろ話が多岐に及び(及びすぎて自滅した「事件」もあったが)、お店のスタッフさんが用意してくれた花火付きサプライズケーキ(←写真参照)もあり、とてもにぎやかだった。

 さて受賞作『応援ファミリア』。主人公小牧花子は元来虚弱だったが、誰かの力になるために人を「応援」ことに自分の力を見出し、北国高校入学後応援団に入部する(女子部員もOKで紅一点)。応援団の団長美沢煌の課したきついトレーニングをこなし初応援デビューを果たすが、熱い季節に学ランを着て応援は元々体の弱い花子には体に負担が掛かりすぎて倒れてしまう。だが、負担が掛からないようにチアリーダー(元々男子校のためチアリーダーはいない)の格好で応援ができるように部員みんなが全力で彼女を支えていく。

 この作品のいいところは「人を支えて応援する」ことの力強さが書かれていることだ。看護師だった両親を事故でなくしている美沢は遺言で「人を支える人になれ」の言葉に影響を受けて応援団になる。作中で描かれてはいないが、彼は引き取られた叔父夫婦にもまた密かに「支え」られているわけであり、叔父夫婦が多忙のため留守になることの多い団長の家で部員みんなが集まって彼を支える。花子は応援して人を元気づけ、男子部員もまた花子を支える。それは団員全員の成長でもあり、また支え合う「家族」のあたたかさでもある。

 絵柄はとてもキレイで、身体描写のバランスがとても整っている。そしてキラキラした瞳の描き方がもの凄くキレイだ。ラストで男子部員がチアリーダーの格好をして登場するシーンがおもしろい。人を応援すること、サポートすること、人を支えること、そして愛することの喜びと成長がとても心優しくて元気づけられる作品だ。花子と団長の今後や他の男子部員達の物語などなど、機会があれば別の話も読んでみたい。次回掲載作を心待ちにしたいと思う。

 新人漫画家さん本人に直接会えてデビュー作を読ませていただく機会を得られたのはとても貴重で楽しく時間を過ごせた。遅くまで付き合っていただき、皆様と偶然にもこういう巡りあいがあったことを感謝します。ありがとうございました。