伊達靖宗

伊達靖宗公記

死を与えるべき時

2007年05月21日 | 殺の必要性
今の日本は平和である。それはこの国が歩んできた歴史を見れば理解できる事である。
そんな時代であるにも関わらず、残虐な事件は後を絶たない。
そんな残虐な事件を起こす犯罪者達は、人権と言う言葉によって守られ、更生という道を与えられる。人を殺して許されるモノを上げるならば、誰もが理解できる卑劣な行為に対する復習、暴力団同士の抗争での死など、お互いにその事に対して承知した上での死などである。しかし、自己の問題を抱え、全く関係の無い者を死に追いやる精神異常者達は徹底的な切っていかなければならない。精神病を克服させ、罪の重さを理解させるというのは一つの案であるが、被害者の遺族や友人達の存在を無視しているにすぎないのである。犯罪者に対する甘やかし行為である。ならば更生させた後、遺族に処刑か罪か、社会復帰を定めさせる様にするべきである。現在の悪を裁く法律は悲しみ、怒り、憎しみといったものを軽視しているとしか言えない状態であり、精神的に病み殺人に至ったのならばその時、その人間は精神病によって死んだも同然である。そこに居るのは死を与えられるべき犯罪者である。死の制裁を与え秩序を保ち道徳を守り抜く必要がるのではないだろうか。平和な時代、残虐な現場から目をそむけ、全てを平和的な解決に結び付けようとする風潮は最もあってはならぬべき事であり、加害者=悪の認識をより強くもつべき時代が来ているのではないだろうか。通り魔には即切腹、異常殺人犯は即処刑、目を覆いたくなる残虐犯は同様に苦しみを与え死を突きつける事こそが、異常者達の暴挙を阻止する威嚇になり、本来あるべき裁きである。そして集団の心理に煽られ殺人に加勢する様な弱く、道徳心がなく、己を制御できない安っぽい人間は死がもっとも似合う悪の根底であり、この世に生まれた有害物質である。容赦はいらぬ。
加害者には死を、被害者には救をがこの国には欠けている。