伊達靖宗

伊達靖宗公記

いじめは劣等感のごまかし行為である

2007年05月22日 | 伊達靖宗の名言
己の中にある大きな失点に目を向ける事が出来ない愚か者は、他者の失点を探す事に必死になり、己の劣等感から目を遠ざけるのである。負け犬のごまかし行為であり、最も見苦しく自ら劣等な者であると言っている様なものであり、非常に無様な姿である。自分の劣等感をごまかす為、他者の問題点を指摘、または作り出す事をしている様では、己を見る機会なく、己を見なければ劣等感の克服も、自信を持つ事もないまま、恥と無意味な抵抗に時間をさくだけである。己は常に付きまとい、常に共に行動するもの。自己の失点に目を向け、性格が暗くなれば問題との向き合い、闘いの時期であり克服への道を歩んでいる証である。性格的失点は己に向けるモノではなく、他者に向けるモノにあり。

歴史的な人物である徳川家康も、他者の失点に目を向け攻撃する事を愚かな行為としている。
この様な無様な行為を行うモノを育てているのは親であり、親に自信というものや問題点を見据えるという事が欠けている証である。これは劣等である証である。劣等感は伝播するのだ。名を売る事のない共同作業の土台では、問題ある農民は他者の失点を探し出す事に時間を費やす。己を信じ名を売り出し命を欠けて名誉を狙う武士の家系では、利点を見出し褒める事が行われる。集団主義者ほど一人当たりの価値が少ないものも無いのである。当時の農民が武家が力を持つ時代に軽視されるのも当然の成り行きである。

流行は影響力の大きい方が強くなる

2007年05月21日 | 伊達靖宗の意見
流行という言葉があるが、これほど安っぽいモノも無いのだ。
流行は、今最もカッコいいモノや素敵なモノであり、それに乗る事で自分をアピールする事が出来る。しかし、流行ほど力関係に弱いモノも無い。
例えば、日本で浜崎あゆみが大流行して、浜崎に憧れる人やそのファンである事が自分にとってもアピールという人もいるだろう。田舎で浜崎が知られていなかったとしたら、知らない事がダサいと言う事になる場合がある。この優越感こそが最もな弱点である。このダサいは流行に乗り遅れる、または流行を知らないなどいろいろな場面であるだろう。この流行の弱点の一つは時代の流れ、もう一つはさらに大きな流行である。浜崎あゆみを聞いている事が、北島三郎を聞いているよりカッコいいことだったとしても、音楽の世界では上を行くアメリカに行き、世界的なミュージシャンが欧米を中心に流行っていたら、自分の乗っている流行は一つに地域のモノであり、相手はメジャー、こちらはマイナーという事になってします。この時、より規模が大きくメジャーな存在の前では流行は逆にダサくなってしまうという事である。渋谷や原宿で流行してる方が田舎町の流行より上と思う意識があればそれが起るのである。日本独自の文化であり、それが世界的に知られた場合は問題ない事だが、力関係で違いではなく下に来た時に流行と言うものは弱いものになってしまうものだ。流行ではなく浜崎命の人間には関係の無い事であろう。

集団に属した優越感など安っぽいものであり、理由の後ろには劣等感が潜むものである。

死を与えるべき時

2007年05月21日 | 殺の必要性
今の日本は平和である。それはこの国が歩んできた歴史を見れば理解できる事である。
そんな時代であるにも関わらず、残虐な事件は後を絶たない。
そんな残虐な事件を起こす犯罪者達は、人権と言う言葉によって守られ、更生という道を与えられる。人を殺して許されるモノを上げるならば、誰もが理解できる卑劣な行為に対する復習、暴力団同士の抗争での死など、お互いにその事に対して承知した上での死などである。しかし、自己の問題を抱え、全く関係の無い者を死に追いやる精神異常者達は徹底的な切っていかなければならない。精神病を克服させ、罪の重さを理解させるというのは一つの案であるが、被害者の遺族や友人達の存在を無視しているにすぎないのである。犯罪者に対する甘やかし行為である。ならば更生させた後、遺族に処刑か罪か、社会復帰を定めさせる様にするべきである。現在の悪を裁く法律は悲しみ、怒り、憎しみといったものを軽視しているとしか言えない状態であり、精神的に病み殺人に至ったのならばその時、その人間は精神病によって死んだも同然である。そこに居るのは死を与えられるべき犯罪者である。死の制裁を与え秩序を保ち道徳を守り抜く必要がるのではないだろうか。平和な時代、残虐な現場から目をそむけ、全てを平和的な解決に結び付けようとする風潮は最もあってはならぬべき事であり、加害者=悪の認識をより強くもつべき時代が来ているのではないだろうか。通り魔には即切腹、異常殺人犯は即処刑、目を覆いたくなる残虐犯は同様に苦しみを与え死を突きつける事こそが、異常者達の暴挙を阻止する威嚇になり、本来あるべき裁きである。そして集団の心理に煽られ殺人に加勢する様な弱く、道徳心がなく、己を制御できない安っぽい人間は死がもっとも似合う悪の根底であり、この世に生まれた有害物質である。容赦はいらぬ。
加害者には死を、被害者には救をがこの国には欠けている。

日本国憲法第9条 平和憲法

2007年05月20日 | 伊達靖宗の意見
日本国における憲法第九条とは、戦争の放棄であり、一切の軍備を保有しない、と言う事が記述されている。

この法律は日本の敗戦後、アメリカが自分達にとっての都合を考えて作り上げた法律である。

この憲法第九条の解釈は数多く存在するが、この法律が今の日本の意思や平和を阻んでいる悪の憲法になっている側面があるように思われる。

日本における自衛隊は、この憲法第九条に記述されている、一切の軍備を保有しないという箇所には、少なからず合致しなというところは否定できないであろう。

しかし、戦後日本、日本人から世界を見た場合、闘いに終止符を打たれたかの様に振る舞い暮らしてきたであろうが、近隣諸侯にはソビエト連邦が存在し、朝鮮半島は分裂し互いに争ってきた。

平和になったのは国内とアメリカの軍事的な力、核の傘という後ろ盾によるものであろう。
自衛隊は敵国を攻撃する能力は持たず、防衛の為の戦力を有している。その為、現在日本に攻撃を仕掛けてくる国が存在した場合、自衛隊は日本の領土内で敵と好戦し自国を守るり、その国に対しての攻撃はアメリカ軍が行うといった形になる。

また、アメリカが攻撃を受けた場合や、諸外国で緊急な事態や災害が起った時に自衛隊を送り救出、復旧作業を行う、戦争ではなく平和的な海外遠征と言って良い状態でも大きな障害となるのである。

現在、アメリカの行動は自国の利益の為、世界に軍隊を派遣し、周囲を振り回す国となっている。日本はそのアメリカの軍地基地を国内に設置し同盟関係にあるが、その基地の意味はアメリカのアジア地域での影響力行使など、自国利益の為に他国に対しての攻撃基地でしかない。湾岸戦争当時も同様である。日本が平和で戦争の無い国にするには、このアメリカの基地を追い出し、自国を国防軍で守り、戦争や争いに一切加担しない独立国家になる道が有力ではないだろうか。それが出来ずにアメリカの力、核の傘の下、アメリカという海賊の仲間になっているからこそ攻められないでは、平和な国ではなく海賊の基地、戦争国家の軍地基地でしかない。

確かにアメリカ軍の基地を国内に置く事で数多くの利点もある。高度成長期におても、日本は軍事費に対しての出費を控え、その分経済活動に投資する事ができたという場面もあるだろう。

本当に戦争のない平和な国と言うのならば、スイスの様に中立国ならまだしも、アメリカの戦争を手助けしている様では戦争をサポートしている国ではないだろうか?
戦争や争い事には、何処とも関わる事の必要性のない、無い良い意味での強固な軍隊が今の時代には必要である。戦争と言うのは国と国の争いであり、戦争の無い平和ない国など、たった一国で行えるようなものではない。

また、戦争の無い平和な国といって自衛隊を否定してアメリカ軍を否定し、軍と言うものを全て否定している人間は、理想を掲げているだけであり、中国やロシア、北朝鮮などの国の事も考えず、現実も関係なしに理想を口にしているだけの人間でしかないのだ。。そうなった時の事を現実問題として語る事が出来ないのであれば、それは計画なき妄言でしかない。世界で唯一軍隊をもたない国は南米のコスタリカである。しかし、コスタリカのバックにはアメリカの存在がある事も忘れてはいけない。また日本のような島国であり、経済大国であり技術、産業の発達した国、そして北朝鮮やロシアなどのならず者二流国家が身近にある国とは比べる自体が間違っている事である。
現在でも、日本領空にはロシア機や中国機が相当な数で進入するに近い状態が続いている。それは海の世界でも同様である。この様な物騒な場所に位置するのが日本であり、自衛隊では役不足である。だからと言ってアメリカ軍に依存している限りアメリカの暴挙を永遠に手助けする戦争補助国家のままである。強い経済と産業、技術をバックに、出来る限りの事は自国で行い新の意味での自立が必要ではないであろうか?
自衛隊は常にGDPの1パーセント、約4兆円である。GDPの1パーセントと言うのは諸外国と比べても非常に少ない。4兆円とい額は決して少なくないが、物価の高い日本、一部では兵器が老朽化しているという状態で、多いといえるのだろうか?
やはり、自衛軍として、日本の平和を守るためには足りないと言わざる得ないであろう。
やはり、長期的な戦略として、米軍を縮小させ、国防軍とし自国を防衛し、時には敵国の攻撃基地を破壊する事の出来る力が必要である。他国に影響されず、他国を振り回さず平和を目指すのが良いであろう。北朝鮮問題を自国だけの力で解決する事の出来る力を保有していれば、アメリカのイラク戦争を否定できたのである。自衛隊は北朝鮮からの攻撃を出来るかげり防ぐ能力しかないからこそ、北朝鮮有事にアメリカの力が必要であり、その時の為に意思に反した戦争に加勢する側に立たざる得ないなどという事は、平和な国の行いではないのではないであろうか? そして大日本帝国時代の過ちと言う言葉を聞くが、その当時の世界を取り巻く時代背景を理解し、現在の世界の状態を見て言うならまだしも、『侵略』という言葉だけを見て語っているのでは意味が無いのではないだろうか。どうあるべきか?と言う事を考えなければならない時に来ているという事だ。 

ただ、集団的自衛権に絞った現在の憲法第九条の改正は、アメリカとの関係を重視した形での改正であり、本来あるべき日本の姿とはズレているようにも思えるが、長期的に見て間違いではないであろう。