Ruins Pilgrim

旅をしながら各地の建物を中心とした日々の記録を掲載します。

オオイマツダトーヨーボール

2007-08-22 20:32:37 | Weblog
ボ-リング場の廃墟が曽我梅林の近くにあると聞いて早速出かけてみた。
残暑どころか炎天下の灼熱の日射しのもと、相模大野で小田急に乗り
藤沢経由東海道線で国府津駅へ。そこから御殿場線で2つめの上大井
という駅で降りた。神奈川県も広いものだ。駅へ近づくと左方向に
ボーリングのピンを形どったモニュメントがそびえているのが見え、
ひとめでそれとわかった。線路と橋を渡り、道なりに歩いていくと
古めかしいがしっかりした構えの民家があった。入口に雀蜂の巣の
ような円形の玉作りがぶら下がっている。新酒の熟成を知らしめる
造り酒屋であった。こんなところに珍しいものを見た思いで店内を
覗くとひっそり静まり返っていた。ただ暑く蝉の鳴き声もしない。
10分ほど歩いて国道255線にでた。国道の反対側が野原のように
開けている所があったが、その奥にかなり老朽化した建物が見えた。
屋上にさきほど見たピンのモニュメントが立っていた。ここが尋ねて
きたボーリング場であった。ここは名古屋のトーヨーボールの系列
で著名な一族の経営によるものであったが、一族の没落後は連鎖的に
名古屋に次いで倒産したのであった。名古屋では一時、解体の話も
でて実際、解体作業に取りかかったのだが、アスベストの問題で
中止となり現在も廃墟のままとなっている。
玄関は柵で封鎖されているがその奥は終戦後の焼跡を見るように
草が茂りさまざまな用済の機械工具の残骸が積まれていた。一面野原
のようで、敷地はかなり広いようだ。裏へ回るとこの当たりは民家
が連なり静かだった。建物の裏側から見ると内部はかなり荒廃が進んで
いるように見えた。螺旋階段は赤く錆ついてとても昇る気になれない。
残留物はほとんど撤去されてしまっていてわずかの機械の破片とか
ボールとかが散乱しているだけだった。それにやけに落書きが目立つ、
この種の廃墟は落書きがつきものだが中には芸術的というか、すごく
上手なものがあって、おもわず見とれてしまった。階段の昇り口は
ロープで封鎖され上がれない。注意書きによると高濃度のアスベスト
が2階には充満していて危険だとのこと。とても上がれない。
1階部分はパチンコの店鋪だったのだろう、無数のパチンコ玉が
ボールとともに転がっていて足をとられて、室内を歩くのは危険だ。
これといった残留物はすでになく、ただ廃材とか、壊れたマシーンの
一部とか、鋼材が床に転がっていて危険だ。窓ガラスはすでに割られ
足下に散らばっているので転ぶと怪我をしかねない。
2階は108レーンのボーリング場だったのだろうが、2階への階段
はロープがはられ立ち入り禁止となっていた。2階の部屋はただ広い
だけで薄暗く、無気味だった。そのうえアスベストが充満していると
なれば立ち入る気にはなれない。階段の途中から写真を撮るのが
精一杯だった。ここは解体するにしても名古屋とおなじくアスベスト
問題が大変だろう。それでも、外形は廃墟だけが持つ美しさというか
なんともいえない妖艶な美しさがある、割れれた窓から差し込む真夏
の光り、その役目を終えた赤い看板の禿げたペンキ色の艶かしさは、
ここだけのものなのだろう。しかし、このような場所は常に危険と
隣り合わせにある。ガスマスクでも着けないと内部へは入れないし
階段だって何時崩壊するかわからない。迂闊に踏み込めないのだ。
しばし、周辺から崩れ行く建物の光と影を堪能して写真撮影に
没頭した。1枚でも気に入った写真が撮れればいいのだが。
アスベストのせいか、床に散らばって盛り上がっていた粉末は
アスベストか、帰り際、咽が痛くなった。炎天下、吹き出す汗と
格闘しながら近くのファミレスで何度もうがいをした。
帰る途中、造り酒屋の前を通ったが静かであった。何本ものスポーツ
ドリンクのお世話になりながら御殿場線で帰った。





ベルビュ-富士 (長尾峠)

2007-08-19 21:59:10 | Weblog

2007ー8ー8

箱根のはずれ長尾峠に位置する廃墟ホテル<ベルビュー富士>はかねてより
訪れてみたいと思っていた。ここは峠にあって晴の日には富士山が見える
絶好のポイントであって乙女峠とならんで富士山ファンには馴染みの場所
である。幸い、今日は晴天である。長尾峠も晴れている事を念じて小田急線
に乗る。小田急は本厚木駅を過ぎると急行はすべて各駅停車となる。電車
によっては新松田から先は小田原まで各駅停車であったり、ノンストップで
あったりする。この日は湯本駅まで完全各駅停車であった。特急料金を倹約
するとこういう事になる。湯本からは桃源台までバス。桃源台はロープウエイ
のターミナルになっていて結構な人出だ。丁度、夏休みの家族ずれで賑わう
駅をあとにタクシーで長尾峠へ向かった。路線バスはなく、歩くかタクシー
しか交通手段はないのだ。ハイカー用に長尾峠まで遊歩道が整備されていて
徒歩2時間の行程である。とてもじゃないがカメラバッグさげて炎天下の
道を2時間も歩く気にはなれない。自分の足だとおそらく3時間はかかるだろう。
タクシーのドライバーは長尾峠を知らなかった。地図を頼りの道行きで不安
だったが、道路標識がしっかりしていて助かった。乙女峠は有名らしく
乙女峠へいった方が富士山が良く見えますよと彼はいうが、富士山が目的で
ないので、さりげなく長尾峠の富士山を見たい旨伝えて峠へ向かったのである。
峠の近くにトンネルがあってそれをくぐって少し下がると写真で確認した
<ベルビュー富士>の廃墟建物が見えてきた。晴れていれば横に富士山が
その勇姿を現すのだが、天空は晴れていたが富士山のあたりは雲がすっぽり
被いかぶさってなだらかな稜線は御殿場市街へとのびていた。ガスはなく
空気は澄んで気持ちよかった。夏草の緑の帯が下方に向かっていて風はないが
涼しい感じだった。廃墟ホテルの玄関は例によって<危険につき立ち入り禁止>
の看板と申し訳程度の柵が立ち入りを拒んでいた。実際、建物は10年以上前に
その役目を終えて以来放置され風雪に任せるままになっていたのだろう、老朽化
が外部からでも目立つた。本館の屋根の梁は片方落下していてもう片方もいつ
落ちるか危険な状態であった。玄関を入ったところはロビーになっていて
ただ、広く、ガラス窓も広くおそらく富士山の眺望を思いきり取り入れたかった
のだろうが、富士山だけでは集客もままならなかったのだろう。ここは結婚式場
も兼ねていたのか造作がそのように見て取れた。厨房は薄暗く長年のうちに堆積
した埃と苔が悪臭を放っていたし、ところどころから芽をだした名も知らぬ植物
が青青とその生命を燃やしていた。いろいろと廃墟を見てきたが人間が作り、
その役目を終えた物体のそばで生きる植物のその生命力に圧倒されるのだ。
ロビーの片隅に小型のグランドピアノの残骸が放置されていたが、とても、その
鍵盤に触ってみる気にはなれなかった。音が出るとは思えない。でも往時には
華燭の典に一花添えたのだろう。哀れである。階下も広いロビーで窓が広くとられ
採光と富士山の絶景美を堪能した日々もあったのだ。
階段はところどころ崩れそうで危険な状態であった。客室も老朽化にまかせ、
荒れ放題、部屋によっては、黴が生え、植物が生え、酷い状態となっている。
このまま崩壊していくのを待つしかないのか。
危険な廊下を用心しながら歩いた。ここから少し下に見えるマンションはどうも
廃墟のようであった。上方には新築のマンションがあって、富士山の写真が撮り
たくて、わざわざ、ここへ引っ越してきた人が住んでいるらしい。高階層の新築
マンションは人気が高く、結構住人も増えていると聞く。この老朽化したホテル
を再建する事はもはや不可能な事かも知れないが、なにかしら、有益な方法で
生き残りの道を考えてみてもいいのではないか。廃墟となったいきさつは知らない
がこの絶景の場所は宝であると思った。
しばらく待っても富士山は現われなかったので帰ることとしトンネルを逆に抜けて
出た。丁度、出たところが江戸時代に逆戻りしたような佇まいの茶店があって、
遅い昼食をかねてひと休みする事とした。ここは<見晴亭>という店で気さくな
女将さんと話を弾ませた、ここは電気も水道もなく燃料はガスだそうだ。
水は下から運んでくるので貴重だそうだ。一杯の熱いお茶がおいしかった。
そんなわけだから日暮れとともに店じまいということになるのだそうだ。御苦労
なことだ。 女将さんい勧められて帰りは歩きで桃源台へでることとした。
下り道だが石ころだらけで躓きそうになる事たびたび、公称の2倍以上の時間を
かけて登山口まで降りた。そこからハイキングの家族連れ数組と前後しながら
1時間かけて桃源台まで帰った。快い疲れを感じてバスのなかでは居眠り気がつく
と小田原駅に着いていた。写真はこのホテルの玄関。




鹿行中央病院

2007-08-10 18:07:30 | Weblog
2007ー8ー5

関東も梅雨があけると強烈な真夏の日ざしが戻ってくる。朝、空を見て探訪
の意欲が湧いてきた。今日は身軽にE-410に22mm-44mmの広角ズーム
をつけて、サブにリコーのG100に19mm広角アタッチメントを着けての
出発であった。年をとるとカメラは軽いのがいい。特にデジタルは一眼レフ
の重いのは敬遠したい。G7ぐらいで気軽にいきたいのだが、G7の描写力
はすばらしいとしても広角がついていない、このクラスのカメラなら
最低でも35mm換算で28mmはつけて欲しいものとキャノンにお願いしたい
と思う。先日、テレビでIAEAの査察官がイランへの出張でキャノンの
コンパクトデジタルカメラを仕事で持って行っていた映像を見たが、キャノンの
コンパクトカメラは自分的には好きだしG3から愛用している。今のマーク
?は重すぎてとてもじゃないが携帯に便利ではないのだ。といいながら、
銀塩ではいまだにブロニカの6x6を使っていたりするのだ。
そんなことはどうでもいいので、上野から特急で1時間で水戸へ着いた。
そこから鹿島臨海鉄道に乗り換えて30分で新鉾田へ到着した。路線が廃線
になるまでは鉾田という駅があったが廃線と同時に駅舎も壊され今は地名だけで
路線バスの停留所があるくらいだ。新鉾田駅からタクシーで10分で消防署
へ着いたがその向いが廃墟となっている鹿行中央病院である。相当廃業して
から時が経つのか正面2階の壁は落ちて崩壊寸前である。正面は木造なので
傷みがひどいのだろうか。側面はそれでも鉄筋でしっかりしているように見える。
玄関には<岡村整形外科病院>のちいさな看板がかかっていたが、理由は
わからない。兼務という事か、それとも経営が困窮して間貸ししたのかその
へんのわけはわからないのだ。ドアというドアには裁判所のはり紙がしてあり
中への侵入を拒むように完全に入口は封鎖されていた。要は株式会社 整理
回収機構の申し立てにより裁判所が売却のため平成19年3月某日、法的に
保全したという内容であった。経営者は借金のため夜逃げしたという事だが
その真偽は不明だ。若者達の心霊スポットとか肝試しの場所であったらしいが
このように封鎖されてしまっては本館へはもう入る事はできないだろう。
比較的新しい別棟はがらんとして事務所だったのか、ここはオープンになって
いる。待合室であったような感じでもあるが本館の老朽化にくらべ新しい感じ
がした。
近くに総合病院があり、ここを買い求めた人は病院経営は無理かも知れないが
ここがどう変身して行くにせよ長年放置され荒れ放題に任せた廃墟の一つが
なくなっていく、その存在の役割を終えて消えていく。なんともいいようのない
不思議な気持ちだ。このところ、各地の廃墟が解体され跡形もなく消えていく
現実にまだ存命のうちに多くを探訪したいものだある。写真は正面からのもの。