ボ-リング場の廃墟が曽我梅林の近くにあると聞いて早速出かけてみた。
残暑どころか炎天下の灼熱の日射しのもと、相模大野で小田急に乗り
藤沢経由東海道線で国府津駅へ。そこから御殿場線で2つめの上大井
という駅で降りた。神奈川県も広いものだ。駅へ近づくと左方向に
ボーリングのピンを形どったモニュメントがそびえているのが見え、
ひとめでそれとわかった。線路と橋を渡り、道なりに歩いていくと
古めかしいがしっかりした構えの民家があった。入口に雀蜂の巣の
ような円形の玉作りがぶら下がっている。新酒の熟成を知らしめる
造り酒屋であった。こんなところに珍しいものを見た思いで店内を
覗くとひっそり静まり返っていた。ただ暑く蝉の鳴き声もしない。
10分ほど歩いて国道255線にでた。国道の反対側が野原のように
開けている所があったが、その奥にかなり老朽化した建物が見えた。
屋上にさきほど見たピンのモニュメントが立っていた。ここが尋ねて
きたボーリング場であった。ここは名古屋のトーヨーボールの系列
で著名な一族の経営によるものであったが、一族の没落後は連鎖的に
名古屋に次いで倒産したのであった。名古屋では一時、解体の話も
でて実際、解体作業に取りかかったのだが、アスベストの問題で
中止となり現在も廃墟のままとなっている。
玄関は柵で封鎖されているがその奥は終戦後の焼跡を見るように
草が茂りさまざまな用済の機械工具の残骸が積まれていた。一面野原
のようで、敷地はかなり広いようだ。裏へ回るとこの当たりは民家
が連なり静かだった。建物の裏側から見ると内部はかなり荒廃が進んで
いるように見えた。螺旋階段は赤く錆ついてとても昇る気になれない。
残留物はほとんど撤去されてしまっていてわずかの機械の破片とか
ボールとかが散乱しているだけだった。それにやけに落書きが目立つ、
この種の廃墟は落書きがつきものだが中には芸術的というか、すごく
上手なものがあって、おもわず見とれてしまった。階段の昇り口は
ロープで封鎖され上がれない。注意書きによると高濃度のアスベスト
が2階には充満していて危険だとのこと。とても上がれない。
1階部分はパチンコの店鋪だったのだろう、無数のパチンコ玉が
ボールとともに転がっていて足をとられて、室内を歩くのは危険だ。
これといった残留物はすでになく、ただ廃材とか、壊れたマシーンの
一部とか、鋼材が床に転がっていて危険だ。窓ガラスはすでに割られ
足下に散らばっているので転ぶと怪我をしかねない。
2階は108レーンのボーリング場だったのだろうが、2階への階段
はロープがはられ立ち入り禁止となっていた。2階の部屋はただ広い
だけで薄暗く、無気味だった。そのうえアスベストが充満していると
なれば立ち入る気にはなれない。階段の途中から写真を撮るのが
精一杯だった。ここは解体するにしても名古屋とおなじくアスベスト
問題が大変だろう。それでも、外形は廃墟だけが持つ美しさというか
なんともいえない妖艶な美しさがある、割れれた窓から差し込む真夏
の光り、その役目を終えた赤い看板の禿げたペンキ色の艶かしさは、
ここだけのものなのだろう。しかし、このような場所は常に危険と
隣り合わせにある。ガスマスクでも着けないと内部へは入れないし
階段だって何時崩壊するかわからない。迂闊に踏み込めないのだ。
しばし、周辺から崩れ行く建物の光と影を堪能して写真撮影に
没頭した。1枚でも気に入った写真が撮れればいいのだが。
アスベストのせいか、床に散らばって盛り上がっていた粉末は
アスベストか、帰り際、咽が痛くなった。炎天下、吹き出す汗と
格闘しながら近くのファミレスで何度もうがいをした。
帰る途中、造り酒屋の前を通ったが静かであった。何本ものスポーツ
ドリンクのお世話になりながら御殿場線で帰った。
残暑どころか炎天下の灼熱の日射しのもと、相模大野で小田急に乗り
藤沢経由東海道線で国府津駅へ。そこから御殿場線で2つめの上大井
という駅で降りた。神奈川県も広いものだ。駅へ近づくと左方向に
ボーリングのピンを形どったモニュメントがそびえているのが見え、
ひとめでそれとわかった。線路と橋を渡り、道なりに歩いていくと
古めかしいがしっかりした構えの民家があった。入口に雀蜂の巣の
ような円形の玉作りがぶら下がっている。新酒の熟成を知らしめる
造り酒屋であった。こんなところに珍しいものを見た思いで店内を
覗くとひっそり静まり返っていた。ただ暑く蝉の鳴き声もしない。
10分ほど歩いて国道255線にでた。国道の反対側が野原のように
開けている所があったが、その奥にかなり老朽化した建物が見えた。
屋上にさきほど見たピンのモニュメントが立っていた。ここが尋ねて
きたボーリング場であった。ここは名古屋のトーヨーボールの系列
で著名な一族の経営によるものであったが、一族の没落後は連鎖的に
名古屋に次いで倒産したのであった。名古屋では一時、解体の話も
でて実際、解体作業に取りかかったのだが、アスベストの問題で
中止となり現在も廃墟のままとなっている。
玄関は柵で封鎖されているがその奥は終戦後の焼跡を見るように
草が茂りさまざまな用済の機械工具の残骸が積まれていた。一面野原
のようで、敷地はかなり広いようだ。裏へ回るとこの当たりは民家
が連なり静かだった。建物の裏側から見ると内部はかなり荒廃が進んで
いるように見えた。螺旋階段は赤く錆ついてとても昇る気になれない。
残留物はほとんど撤去されてしまっていてわずかの機械の破片とか
ボールとかが散乱しているだけだった。それにやけに落書きが目立つ、
この種の廃墟は落書きがつきものだが中には芸術的というか、すごく
上手なものがあって、おもわず見とれてしまった。階段の昇り口は
ロープで封鎖され上がれない。注意書きによると高濃度のアスベスト
が2階には充満していて危険だとのこと。とても上がれない。
1階部分はパチンコの店鋪だったのだろう、無数のパチンコ玉が
ボールとともに転がっていて足をとられて、室内を歩くのは危険だ。
これといった残留物はすでになく、ただ廃材とか、壊れたマシーンの
一部とか、鋼材が床に転がっていて危険だ。窓ガラスはすでに割られ
足下に散らばっているので転ぶと怪我をしかねない。
2階は108レーンのボーリング場だったのだろうが、2階への階段
はロープがはられ立ち入り禁止となっていた。2階の部屋はただ広い
だけで薄暗く、無気味だった。そのうえアスベストが充満していると
なれば立ち入る気にはなれない。階段の途中から写真を撮るのが
精一杯だった。ここは解体するにしても名古屋とおなじくアスベスト
問題が大変だろう。それでも、外形は廃墟だけが持つ美しさというか
なんともいえない妖艶な美しさがある、割れれた窓から差し込む真夏
の光り、その役目を終えた赤い看板の禿げたペンキ色の艶かしさは、
ここだけのものなのだろう。しかし、このような場所は常に危険と
隣り合わせにある。ガスマスクでも着けないと内部へは入れないし
階段だって何時崩壊するかわからない。迂闊に踏み込めないのだ。
しばし、周辺から崩れ行く建物の光と影を堪能して写真撮影に
没頭した。1枚でも気に入った写真が撮れればいいのだが。
アスベストのせいか、床に散らばって盛り上がっていた粉末は
アスベストか、帰り際、咽が痛くなった。炎天下、吹き出す汗と
格闘しながら近くのファミレスで何度もうがいをした。
帰る途中、造り酒屋の前を通ったが静かであった。何本ものスポーツ
ドリンクのお世話になりながら御殿場線で帰った。