嵐先生は野球部でもそうだったように、後輩思いでした。
自治医大の後輩:根本鉄太郎先生が当院で研修することが決まってからは、勉強会や診療での態度もちょっと変わってきました。指導医や上級医の話を聞くだけでなく、どうやって後輩に教えるかをいつも考えてくれていました。毎日行っている私との勉強会でも「研修医が聞いておいた方がいい質問」をわざと自らしていました。また毎週行っている週末カンファレンスという勉強会でも、便通異常や放射線被曝の問題についてわかりやすく講義していました。
研修病院のガイダンスにも出かけて行って、医学部の学生にプレゼンテーションもしていました。
2011年3月11日東日本大震災の時は、自分の危険をかえりみず患者さんの救出に当たりました。(当院は建物の老朽化も手伝って、入院病棟が半壊しています。)
また避難所の診療も積極的に行っていました。
2011年4月からは瓦礫の山とかした勉強会室を片付け、後輩のために毎朝の心電図勉強会を再開させました。
2011年4月12日嵐先生と鉄太郎先生と私で当直をしました。これが最後の当直になりました。一年前とは別人のようなしっかりした・患者さんにやさしい立派な対応でした。私が口をはさむ所はありませんでした。
2011年4月19日帰らぬ人となりました。心臓突然死でした。
残念でなりません。言葉がでません。
人より苦労して医者になったのですから、もっと医者の良さを味わわせてあげたかったです。教えたいことももっともっとありました。
嵐先生も無念だったと思います。残された研修医室には新しく買った医学書や医学雑誌がたくさんおいてあります。また読みかけの論文もたくさんあります。最初に指導したように、自分が進みたいと考えていた緩和医療の分野だけではなく各診療科の幅の広い分野にわたって時間とお金をかけて勉強していました。
残された御家族のことを思うと、その悲しみを推し量ることすらできません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
嵐先生から見せていただいた昨年の4月に書いた自治医大の野球部の文集に以下のくだりがありました。
「十五年という野球人生が・・・最も輝いていた・・・」
そんなことはありません。医者になったこの一年も、野球をしていた頃と同じかそれ以上に輝いていました。患者さんに愛され・病院スタッフに愛され・後輩に愛され、これからも記憶の中で輝き続けます。嵐先生の最期のお着換えをしてくれたのは夜遅くまで残っていてくれた嵐先生を慕っている外来の看護師さん達で、お見送りには病院のスタッフが大勢かけつけたのですよ。
野球部の文集は最後にこう結ばれています。
「今、彼は、近所の野球部の練習の掛け声が聞こえる病院にいる。 そう、あの夏、ベスト8で負けた相手校の近くで、野球のない生活を始めようとしていた。 止まったままの時間が、今、動き出した。 Continued on your memory.」
佐藤 嵐先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
嵐さんは、引退後、国試前もグラウンドに来て、お医者さんになってからも忙しい合間を縫って栃木に車を走らせて来て下さりました。
試合や練習、バーベキュー、新歓、忘年会、、、と引退後も色んな場面で野球部のコーチ、一先輩としてたくさんの思い出や言葉を残してくれました。もちろんお亡くなりになる直前の試合も来てくれ、新しいノックバットを置いていってくれました。
嵐さんは野球の技術だけでなく、野球に対する姿勢がずば抜けていたので、試合のたびにプレーのことや姿勢のことで、次に期待を込めているといった感じで、たくさんの叱咤激励をいただきました。
今一番思い出されることは、去年の東医体のことです。
チームはベスト4で勝てば決勝という試合で9回の相手の大逆転により負けてしまったという悔しい試合がありました。
その試合後、現役部員やOBOGが集まったときに、普段、寡黙で冷静な嵐さんが「本当に悔しいです…」と号泣してくれたことです。
その時私は、引退しているのに、こんなに応援して悔しがってくれる熱い先輩を持てて幸せだと思いましたし、そんな先輩のためにも、自分が次の幹部で挑む来年の東医体は絶対に優勝してやると思いました。
私は去年の秋から幹部として、秋リーグ、冬練をこなし、今は春リーグ、そしていよいよ東医体というところでした。もちろんこの半年ずっと嵐さんが支えてくれていました。
もう少しで来る夏のグラウンドに嵐さんはいないと考えると、悔しくてたまりません。
今でも試合や練習をしていれば、ひょこっと黒い服をきた嵐さんが来てくれるような気がしてしまいます。
自分たちが嵐さんに感謝とご冥福をこめてできることは、やっぱり野球しかないと思うので、これからもがんばっていきます。
長文、乱文失礼しました。
御生前の御姿を偲び、心より御冥福をお祈りいたします。
私の最高傑作のドラえもんの絵を、最後まで「似ていない」と馬鹿にしていました。
三括で看護師と仲良くなれる方法を外科の先生に聞いた後には、自分のポケットにも忍ばせようとしていました。
病棟対抗ボーリング大会でも研修医のくせにトップのスコアで優勝していました。
先生が突然いなくなることで、泣き崩れるスタッフもいます。
早すぎます。
突然すぎます。
どう・・・受け止めていいかわかりません。
ただ、ただショックです。
今回、嵐先生に関する一連の記事は、宗像先生がUPしています。もちろん、ブログをUPするかどうか、また、して良いのかどうか悩まれていました。個人的には、この記事をUPしていただきとても感謝しています。このような形で嵐先生との思い出を共有することで、今ここに元気な嵐先生がいるような気さえしてきます。まだ心の中で生き続けている嵐先生に思いを馳せながら、ゆっくりと自分の中でこの悲しみを昇華させていきたいと思います。
にしても、いい研修医生活ですね。いい仲間がいっぱいですね。いつもはぶっきらぼうな感じで、飲み会では別人のよう。高いモチベーションとありあまる体力。私の弟が「嵐先生すごいんだよ。俺あんな研修医になりたいよ。」と言っていました。つい最近のことです。嵐先生、ほんとうにありがとう。
嵐先生の文集は、これから医師として大きく羽ばたいていこうとする主人公(嵐先生)の気持ちを綴ったものでした。医師を目指す強い気持ちと、繊細な気持ちとの織り交ざり。野球が彼の人生を豊かにしてきたという誇りと自信。複雑な気持ちの交叉をああもうまく書けてしまう文才。先生の才能は、医療の分野でも遺憾なく発揮されるはずでした。残念でなりません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
入学当初、周りの同級生と比べて一際落ち着いた雰囲気をもった男、それが嵐君でした。
上下黒の服装と茶髪がトレードマーク。
寡黙な男かと思いきや、野球や学園祭の運動会では人一倍リーダーシップを発揮し、運動神経も抜群。頼れる兄貴的存在でした。
飲み会ではこの人は心から酒が好きなんだなぁというような満面の笑顔で、端の方に座り酒を飲んでいました。まわりの同級生や後輩をいじっては楽しそうにしていたのが印象的です。
今でも飲み会を開いたら、いつもみたいに「酒の一滴は血の一滴」と書かれたTシャツを着て何食わぬ顔で現れるんじゃないか…そんな気がしてなりません。
僕たち33期生の中でもいまだに困惑しており気持ちの整理が出来ていません。ですが今はただただ彼の事を思い偲ぶしかありません。そして彼の無念の思いを汲んで、前に進んでいくしかないのだと思います。
彼と過ごした6年間の学生生活は本当に私たちの宝物です。
嵐、本当に本当にありがとう。
心よりご冥福をお祈りいたします。
あまりに突然のことで、いまだに信じられません。嵐先輩のことだから、あのはにかんだ顔でひょっこり現れるじゃないかと思ってしまいます。
一か月というとても短い時間ではありましたが、嵐さんとの研修はとても充実したものでした。嵐さんとの当直の日、嵐さんの診察はとても研修医2年目とは思えないもので、幅広い知識と、的確な判断力を身につけていました。嵐さんのいつもの落ち着いた雰囲気や、話し方は患者さんやスタッフを安心させ、後で見ていた僕はただただ、来年はこんな研修医になりたいと、心から思いました。嵐さんの医師としての姿を見れてよかった。でも、本当はもっと見ていたかったです。
来年、嵐さんのようにかっこいい研修医になれるよう、あのときの嵐さんの背中に追いつけるよう精一杯がんばります。
嵐さん、長い間、こんな生意気な後輩の面倒をみてくださり、ほんとうにありがとうございました。どうかやすらかにお眠りください。
電車の中でしたので、涙を必死に堪えながら読みました。
ベスト8で敗れたあの夏を思い出し、とても胸が詰まる思いです。
このような日記を書いて頂きありがとうございました。
心に残るエピソードの数々・・・
嵐先生の素晴らしい医師人生をこうした形で
拝見出来るのは、素晴らしいと思います。
有難う御座いました。
嵐先生の分も、これからも一緒に福島で学び、
少しでも学生や研修医の先生たちの応援をしていきたいと思います。
嵐先生のご冥福をお祈りしています。
びっくりしました。
私は昨年夏の新潟のIDATEN感染症セミナーでお会いし、夜の飲み会で連絡先を交換して佐藤同士頑張ろうと声を掛け合った仲でした。
昨年末に四日市の踏切事故で命を落とした後輩の研修医のことが脳裏に浮かび、人の命のはかなさを感ぜざるを得ません。
ご冥福をお祈り申し上げます。
嵐先生の屈託のない笑顔、かわいかったね。
ある方から言われました。
「これだけの医者がいてもどうしても助けられない命があって、だから、生きる人は精一杯生きなきゃいけないんだと思います。」
と。
『生きていることは奇跡だ』なんて言う人は大袈裟だと思っていました。
でも、今、生きていることは奇跡なんだと思っています。
嵐先生のご冥福を心からお祈りいたします。