文化大革命を生きて

1956年に中国遼寧省で生まれ、10歳から20歳まで続いた文化大革命を生き抜いてきた体験談などを綴ります

配給制

2009-12-13 13:30:55 | 日記
大串聯に行かなくても、労働者はみな「停産閙革命」と称し、仕事をしなくなりました。
生産が停滞し、生活用品と食料品は不足になりました。

国は大混乱でした。
もともと文化大革命の前から綿製品と食料が配給制でした。
一人につき、年間12尺?の布票が配給され、生地も既製服もお金があっても布票がなければ買えませんでした。
食料は食料店でしか売ってないし、品種も限定されました。
年齢に応じて、配給量が決まり、新生児は月1kg、年々1kg上げて、15歳で大人と同じ15kgになります。
でも、無職の大人は14kgでした。
レストランで主食を頼むときも食糧票が必要だし、店ではパンやお菓子類も食糧票がなければ買えませんでした。
私が住んでいた瀋陽では、白米と小麦粉の配給量が少なく、主食はトウモロコシの粉か高粱米でした。
白米や小麦粉は細糧といい、お客さんが見えたり、休日や誕生祝の時しか食べなかったのです。
油は初め一人あたり月に250gでしたが、当時の遼寧省の最高指導者陳錫聯司令が150g(3両)に下げてしまったことがあり、
それ以来みんなは陰で陳司令を陳3両というあだ名で呼ぶようになりました。

建国記念日やメーデー、旧正月のときににだけごま油25gや落花生250gなどが臨時配給されました。
なので我が家で料理にごま油を使うのはごく稀で、それに正真正銘の一滴しか入れませんでした。
そのときの名残で、物が豊かになった現在になっても、母はごま油を数滴しか入れないのです。

文化革命が始まると、肉、魚、豆腐、砂糖、石鹸、ほとんどすべての日用品がいろんな票によって制限されました。
油の配給が少ないため、限られた肉をみんな脂身(脂分)を好んで買い、
その脂分を焙り出して料理に使いました。
その頃は、食料品店の店員さんが一番もてました。
店員さんのご機嫌を取り、少しでも油がある部位を売ってもらいたいからです。

家では太刀魚を蒸して料理し、油を使わないだけでなく、魚からでた油分を大事にとって、料理に使いました。
自由市場もなくなって、国営商店でしか買い物できませんでした。
農民も革命に励むようになったせいか、商店の野菜売り場はいつも空っぽでした。
たまに近所の店に野菜が入るといううわさを聞くと、すぐに走って行き、列に並びます。
でも、やっと長い時間をかけて、買う番が近づくと、今度は横から割り込んでくる人たちと圧し合い罵り合い、我先にとお金を差し出す大混乱が待っています。

押し出されないように如何に踏ん張っていたことでしょう。
私は細かった割りに良く頑張りました。
時々姉と妹が私の両脇を支えてくれましたが、買い物はほとんど私の役割でした。
1kgのインゲンの戦利品を持って、人の渦から出た私は汗まみれ、泥だらけになりながらも意気揚々でした。
そのときから、私は男の子のような性格(中国語で仮小子:偽の男子といいます)に変わりました。

老達房中学校

2009-12-02 23:02:50 | 日記
私たちが下放された村には学校がありませんでした。
各大隊に小学校一校、各公社に中高一貫学校一校がありました。

妹は隣の村にある曹家小学校に通うことになりました。

私と姉は村から15里(中国の1里=500メートル)離れる公社の中学校にいかなければなりませんでした。片道徒歩で1時間半かかりました。雨の日には、靴を脱いで、裸足でかよいました。物不足の時代で、靴を一足しか持ってませんでした。

田舎の学校ということで、肥料が大事な収入源?のため、学校に行く道中、篭を背負って馬車馬の糞を拾いながら通いました。毎日拾った糞の量を記録され、競争心をあおられました。学校に近づくにつれ、学校に近い生徒に綺麗に拾われたので、私は家を出てから拾い始めました。途中で満杯になって、20kg以上の糞を背負い、残りの数キロを歩くのはしんどかったです。

その時の鍛えのおかげで、今も少々長く歩いても平気です。

人間って強いもんですね。

文化大革命中の小学校時代

2009-12-02 21:55:24 | 日記

文化大革命が1966年に始まり、その年の夏休みから中国の学校がすべて「停課閙革命」といって、教師や中学生以上の学生は革命運動に励み、授業がなくなりました。
その時私はまだ小学校4年生で、訳が分からないまま、一生懸命革命に参加しました。毎日毛沢東の語録を手に、毛沢東を讃える歌やダンスを商店や路面電車に乗り込み披露しました。唱忠字歌、跳忠字舞といいます。
毎朝のほかに夕方も地域の空き地に総出して唱忠字歌、跳忠字舞をしました。
父は文化革命の初期に紅衛兵運動を支える仕事をしていたため、私たち姉妹はある中学校の紅衛兵組織「毛沢東思想紅少年」のリーダーと知り合いになり、その組織の仕事を手伝いました。ビラを蝋の紙で刻版、油墨で印刷、そして町に撒きました。
私は近所の子供たちを家に集めて、毛沢東の語録を勉強するという口実で読み書きを教えたりもしました。 革命的な名前が流行って、私たち姉妹は勝手にペンネームを作りました。姉は文革、私は向陽、妹は名前の「倩」の字を茜(赤い根の意味をとって)に変えました。 髪は革命風に短く切ることが原則で、繁華街などで紅衛兵たちがパーマや三つ編みにしている人を見かけると、説得して半ば強制的に短く切ってしまう光景を沢山目にしました。可哀相に思いましたが、何も言えませんでした。

紅衛兵組織の間には、自分達こそ本物の造反派(毛沢東に批判された官僚や知識階級と戦う)と言い張り、自分達以外を保皇派と罵るといった派閥がありました。次第にそれらは争い合うようになり、それがだんだん激しくなって、ついて武力闘争にまで発展してしまいました。
男達が刀や槍、時には本物の銃まで持って、トラックに乗りこんで戦闘に行くのです。そんな光景を毎日見ました。夜は窓に向かって発砲されることも度々ありました。まるで戦争中です。カーテンをしっかり締めて、電灯も布を被せて明かりを隠しました。

遼寧省は「遼革」、「遼聯」と「八三一(毛沢東が天安門広場で紅衛兵を接見した記念日8月31日にちなんで)」という三大派別に分かれていて、最終的には遼革派が政権を取りました。
政府の上層部に多い遼聯派は破れ、保皇派に指定されてみな職を追われました。八三一は造反派として生き延びました。両親は遼聯派だったので、批判される対象になってしまい家に帰ることができなくなりました。

ある日、父は頭を低く下げ、両手を後ろ縛られに高く上げ、首に「反革命分子」と書いた看板をぶら下げられた状態でトラックに乗せられて、遊街されました。その様子を見た友達が私たちに知らせたのです。
状況が一変しました。近所の男の子たちは家の窓を叩き、私たちを反革命分子の餓鬼と罵り、いじめました。私たちは人前に出たくなくなり、家に篭りがちになりました。毛沢東を讃える時間になると、ベッドの下にもぐり、息を潜め、居留守をしました。そんな中でも、女の子の友達が相変わらず仲良くしてくれたのが救いでした。隣人も親切に面倒を見てくれました。

そうして私たち姉妹は祖母の家に預けられました。 姥姥(母の母)と二舅(母の二番目の弟)と老舅(四番目の弟)としばらく一緒に暮らしました。二舅は多才のひとです。バイオリンや二胡を上手に弾き、詩や書道に長け、絵画も得意で、中国将棋も強い。
その頃は毎日二舅の二胡を聞かされていたので、飽きてしまって外に逃げ出したこともありました(笑)。今、日本にいて二胡の音を聞くたびに当時を思い出して懐かしくなります。 老舅は高校三年生でしたが、文化革命のせいで大学受験が出来なくなり、毎日モンゴル相撲を取り、遊んでいました。おばあちゃんにそれを叱られる度に、「80歳になっても遊ぶよ」と答えていたことを今でも覚えています。