文化大革命を生きて

1956年に中国遼寧省で生まれ、10歳から20歳まで続いた文化大革命を生き抜いてきた体験談などを綴ります

初めての田舎生活

2009-11-30 14:25:46 | 日記

 房東(大家さん)雷爺さんは50歳代、雷婆さんと末子の雷叔父さん(20歳?)と三人暮らしで、ご長男は解放軍の団長(連隊長)で送金してくれたので、当地で極めて裕福のほうでした。
ご一家はとても親切でした。ランプに点灯する方法や井戸から水を汲む方法、大きな竃にトウモロコシの茎の乾燥したものを燃料として火をおこす方法、大きな鍋に一度でご飯すべて作れる方法(主食大餅子:ダアビンずと読む、トウモロコシの粉を捏ね、発酵、苛性ソーダか重曹で中和させ、ナンのように熱した鍋の内縁の周りにパシッとつけて、鍋の中にお粥かお湯を、その上に二本の木を架け、その上におかずになるものを載せて蒸かす)など、生きるため必要な知恵を手を取って私たちに丁寧に教えてくれました。
その後も鶏と豚の飼い方、山野菜の見つかり方食べ方、枯れ草や柴の取り方などいろいろ教えてくれました。
トイレ作りも手伝ってくれました。
田舎のトイレは外にあります。壁に続いて、トウモロコシや高粱の茎を立てて、横棒も同じ茎を使って、枯れ草の縄で縛ってフェンスとドアを作り、地面に大きな穴を掘って、その上に木の板二枚を載せて足場とします。屋根がありません。両親は下放され、元の職場を離れましたが、給料がそのまま貰えたので、田舎ではかなりの金持ちでした。そのトイレの穴にかめを埋めて、蓋も作りました。もっと貧しい家では穴もなくて、地面のままでした。

私には次のような経験があります。
農忙時期、学校がよその公社の水田の草取りの支援をした時に、泊まった農民の家ではトイレは地面だけで、ドアもありませんでした。私が大きいほうをしている傍を雌豚が待っていました。私が立ち上がった瞬間、その豚は出したばかりのそれを食べました。それはとても緊張して怖く、あの情景は今でも鮮明に覚えています。
トイレットペッパーは贅沢品でした。普通の農家の人はトウモロコシの茎を割って、内側の白くやわらかい部分で用を済ましました。私たちは書き終わったノートの紙を使いました。
部屋に火炕オンドル)以外暖房器具がありませんでした。火炕もご飯を炊く時以外は火を入れませんでした(平野なので木があまりなく、燃料として使うとうもろこしの茎や高粱の茎は一年間持たせなければなりません)。その時代は地球温暖化がまだ始まっていません、冬は氷点下20度~35度くらい大変寒かったです。朝起きた時、部屋の中に水分あるものは全部凍りました。洗濯物を外で干すと忽ち凍られて硬い板になりました。
村には店がありませんでした。買い物は15里(中国の1里=500m)離れた公社所在地で十日ごとに開かれる市に出かけるしかなかったのです。集(ガンジイ)と言います。農民は現金収入がなく、集の時に自家製の籠や玉子等を売り、生活用品を買いました。


田舎下放40周年

2009-11-28 19:47:32 | 日記

今日から40年前の1969年11月28日、
私は中国有数の大都会、瀋陽市から遼中県にある
老達房公社の曹家大隊小楡樹村に家族とともに下放されました。

 その時の私の家族構成は父方の祖父(77歳)、父(41歳)、母(39歳)
姉(15歳)、私(13歳)と妹(10歳)でした。

朝6時ごろ、トラックが来て、少ない家財道具と私たちを乗せて出発しました。

通学途中の友達数人が見送りに来てくれました。
家の飼い猫が盗まれたばかりだったので、

幼馴染の一人が猫をプレゼントしてくれました。

一緒に下放された大勢の人たちと合流してバスで遼中に向かい
遼河を渡るため浮き橋を乗る前に一旦下車した時、車酔いの私は
吐き出しました。生まれて初めての体験でした。辛かったです。

小楡樹村に到着したのは夜の8時半にもなり、
その村にはまだ電気がなく真っ暗でした。
トラックから降りた途端、ずっと抱っこしていた猫が逃げ出してしまいました。
それっきり、二度とその猫と会うことはありませんでした。
悲しく、悔しかった。

村の雷爺さんが一間の部屋を貸してくれました。
中国東北農村部の家は普通南向き三間続きで
玄関は真ん中の部屋の南側にあり、
竃、大きい水かめと両側の寝室に通るドアもこの部屋にあります。
寝室に土レンガでできたオンドルが寝床になります。
竃に火を焚くと、熱い煙がそのオンドルの中を通り抜け、
さらに壁の中の煙道を通って、外に出ます。
火を止めてから、壁の煙道の上の所に板を奥に挿し込んで
オンドルを暖かい状態に保ちます。
雷爺さんは東側の部屋を使っていて、西部屋を貸してくれました。

マイナス20℃~35℃にもなる寒い冬の時季に
電気も水道もガスもない
それまで想像もしなかった田舎暮らしを
こうして始めなければなりませんでした。