この世には『赦し』が必要なようです。
たくさんの赦し。
本当にいろんな、たくさんの事が起こっているように見えていても本質的には何も生じていない。
この真実。
それを理解して赦す。
ああ、世界は自分の心の投影なんだと。
ただあるだけで何も起こってはいないと。
どんなに受け入れがたいことでもそのことによって苦しみから解放される。
お釈迦様の教えも、
量子物理学によって解明された宇宙論も、
この世の本質は実体がないということを示しています。
では何故、さまざまな物事が生じるように感じるのかというと、
それはそのような設定がなされているからです。
それがこのかたちある世界であり、
私たちの身体であり、
取り巻く環境であり、
…それら諸々が設定されているということは、
あくまでそれらは『設定』
つまり仮の姿にすぎない。
この設定を通して、経験をする。
学ぶ。
学ぶということはかたちある世界でしかできない。
精神に成長はない。
精神にあるのは拡張。
エリアを広げるということ。
そしてその精神の拡張は身体を使った学びの上にしかできない。
だから人はこの世に生まれてくる。
身体には学びがある。
経験を通して学ぶ。
だからどんなにくだらないと思うことや、情けないと感じることや、怒りがわくようなことでも学びのためにあるわけなんです。
そして本質的には何も生じていない。
何も生じていないのが本質。
そしてそれが神の世界。
神の世界を広げるために人間はこの世界に来るんです。
そして神の世界への帰り方を教える人たちが霊的な指導者です。
それがお釈迦様であり、イエス・キリストです。
中山みきもそうです。
赦すってことによって、神の世界に人間は帰る。
神の世界に帰るということは、心が真実と一体になるということ。
というか「心はもともと真実と一体である」ことを思い出すということ。
赦すとはこの世界には実体はなくすべてが設定の中のことなんだということを認めるということです。
法華経には「無生法忍」と記されています。
「ものは本来生じることはないと容認する知」
というような訳語が当てられています。
赦しによって到達する覚りはこの無生法忍です。
般若心経の「色即是空、空即是色」も同じカテゴリーの話ですが、ここには『赦し』からの覚りが含まれていません。
無生法忍とは実体のない世界でのありのままを赦すことが覚りだという教えです。
容認、と訳された真実の意味です。
ただある。
すべては自分自身を投影した世界。
世界は本来ひとつであり他人のように見えてもそれも自分の一部分。
深い。
深すぎますよね。