つとめはワシの教えの“像”や。
シンボルやな、今ふうの言葉で言うたら。
ワシの身体がもたんようになって来とった、あの明治二十年の頃でさえ何かにつけて『認可認可認可行かしてくれ』と、その話ばかりじゃった。
認可されて安心したいと、誰も彼もそればかり。
まあそれも無理もないがな。
この世の律とぶつかって苦しむ胸のうちはわかる。
妥協したくなるのが人間思案というもんや。
じゃが、ほんまに妥協したらおわりじゃ。
真実やないものと真実が合い容れることはない。
ワシの教えを消さすわけにはいかん。
ワシが五十年かかったもん、なみの人間にはでけんやろ。
だから後々まで伝えてもらわなならん。
ワシも含めて人間は平等じゃ。
それは教えてあるから、よう思い出せ。
とにかくじゃ、あのころはもう本真実は伝わらんようになって来とったということや。
そこでじゃ。
どんちゃん賑やかにやるつとめをせいと、しつこく言うたんやな。
つとめをする以上、世間は無視できんやろ。
覚りの言葉が込められた祭りじゃ。
人目から隠すことはできん。
じゃから教えは弱っても今に伝わっとる。
ワシは陰気なもんやから、賑やかしいのは苦手やったんやで。
知ってるやろ?
だからつとめの手をつけるんも、歌をつけるんも得意なもんにやらせて、
「ここはこうや」
「あそこはこうせい」
と注文をつけたんや。
詞はワシのもんやで。
ワシが神の世界から持ち帰ったもんや。
この世を救うためのもんや。
じゃからつとめを神棚に祀りあげてはいかん。
それは儀式好きな連中がいいようにしただけじゃ。
つとめは賑やかにやったらええで。
行儀悪ろうてええで。
かしこまらんでええ。
そもそも江戸の時代を思てみ?
ワシも含めて農家ばかりじゃ。
土にまみれとったんやで。
とにかく「つとめ」はそういうわけじゃ。
「応法」に呑まれんようにするワシの知恵やったわけなんじゃ。
「おかげが降る」言うて騒いどったから、あれからヒントを得たんじゃ。
人間はあざないもんじゃからの。
うまくいったな?
おかげでこうして今、教えに触れてくれているわけやしなあ。
人間の知恵はこういうところにある。
決して学問ではない。
つとめはな。
元気が出えへんとき、ワシを思うて賑やかにやってくれたらええ。
さんざん世間に迎合し「応法の道」やというて迷うてきたなあ。
かわいそうになあ。
じゃがな。
すまなく思うことはないで。
改めるのに遅すぎるということはない。
人間はみな平等じゃ。
そしてこの生において救われる。
世間に笑われ、そしられてもワシの「つとめ」という旗を上げ続けてきたかわいい子供たち。
なんで見捨てよう。
それとな。
『ひながた』いうて語り継いでくれてるアレな。
あがめるもんちゃうで。
たどるもんや。
覚りへの道やで。
ワシかて初めから覚っとたんとちがう。
ワシは五十年かかって歩いたで。
でもあんたらはそんなにいらん。
長くて三年や。
伊蔵には言うておいたから知っているはずや。
この世界は心や。
マインドや。
ハート…心の臓ではないで。
「扉を開くとは」精神が身体の幻想から解き放たれるということじゃ。
じゃから身体の死に見えるものは、
「古着を脱ぎ捨てたようなもの」
と教えたんじゃ。
わかったか?
マインドにおいて『ろっくの地』にならす。
それをこの世界に顕す。
これがワシの想いじゃ。
人間は精神において、上級も下級もない。
みな兄弟や。
他人というものもない。
そしてな、
「先に生まれたからとか」
「先に教えを知ったからとか」
「伝えた者が伝えられた者より偉い」
というような、あらゆる分け隔てはない。
これが真実や。
目を覚ますんやで。
しっかり生きるんやで。
いつも見ているで。