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人間を越え、覚りに到達する人のブログ

中山みき様と私たち

中山みき様の教えから始まった教団に縁がある私たち。
私たちにとって、この教えが伝える真実は何かを理解することは非常に大事です。
迷信や習俗にとらわれず、神の子として自覚を持ち生きる。
『神はあり、人は目覚めることで救われる』
これが中山みき様の教えの中核です。
どんな時代にどこに生きていようとも意義の変わらないメッセージです。
みき様は天保九年の神がかりになってから神同然になったわけではありませんでした。
寄せ加持に端を発する一連の出来事によって神そのものになられたという解釈は当時の人々の理解の範囲としてはやむを得ないことでした。
しかし、原初の宇宙の謎に迫ろうという現代の知見からすればこの解釈には無理があります。
あの一連のことは、みき様の霊的感覚の目覚めの始まりであったのです。
この霊的感覚というものはこの物理宇宙の法則を越えたもののことです。
宮池に身を投げようとしたり、蔵に十三年もこもっていたりということからもわかるように、道は順風なものではありませんでした。
もし仮にあの時いわゆる神になっていたとして、その神が人間を救おうとしていたとしたらこんな回りくどいことはしないでしょう。

この世界とは何か。
人間とは何か。
みき様は自らの心を通じて、真実の救いを捉えようと自らの心を通じて神との対話を繰り返しました。
この世界に縛られている感覚からすると大変なことです。しかしみき様にとってはやめろと言われる方が苦痛だったのでしょう。
家族や親戚に反対されるたびに身体の調子が悪くなったわけですから。
みき様は神様が降りてきて、神様のスピーカーになったわけではありません。
みき様は神の声を聞く、という選択をした人です。
心を通じて聞こえる神の声を、この世界の何よりも大事にしたのです。
そして、その声を頼りに生きたのです。
これが中山みき様というお人です。
この『人としての究極の生き方』を手本にしようと『ひながた』という表現を本席が用いました。
これは大工の経験に裏打ちされた巧みな喩え。
みき様を、「あるときから神様になった、ただ一人の特別な方」と考えるとその生涯を手本にする『ひながた』という言葉は矛盾していて、実現不可能なものになってしまいます。
目には見えずとも今も私たちの傍らにいるのは、人として生きて目覚めこの世界を離れたお方。
人としての生涯を通じてなされたことだからこそ、私たちも同じ道を歩くことができます。
人として生き、迷いながらも目覚めていく。
それが有意義な人生です。
みき様は目覚めの道、つまり救いの道があることを示したのです。
これがみき様の『神一条』の生き方です。

かしもの・かりものの教えを深く洞察すると、今の私たちというのは仮の姿であるということがわかります。
ここにいる自分というものは永遠、普遍のものではない。
私たちの真実とは一体なんなのでしょうか。
神の創造性とは何か。
残念ながらこれについては決定的なことをみき様は残していません。
教典に記されている『元の理』の話。
『元の理』のもとになった和歌体の書き物は、当時そばにいた人々がみき様の指示に基づいて話を聞き書きしたものですが、誰が書いたものにもみき様は「それでいい」とはいわなかったと伝えられています。
人間存在の本当の始まりをわかるように語るのはみき様といえども困難だったのかもしれません。
『どろうみこふき』とよばれるように、「このよふの元始まりはどろのうみ」と始まりますが、その泥海はどのように起こったのでしょうか?
この世界の本当の始まりの話であるならばその前があるはず。
『元の理』は人間が生み出されることになった経緯については語られていますが、前提となるこの世界についての記述がない。
だから根源的に語っているとはいえません。
神とは無限のことです。
神とはすべてを包摂するものです。
神とは永遠に変わらない存在のことです。
そして私たちは神から生み出されたわけですから、本質においては同じです。
しかしこの世界に生きている感覚ではそれは感じられない。
私たちとは一体なんなのでしょうか。
この人間存在の本質への問いを、問い続けるのが本当の信仰です。
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