
今まであちこちの国を訪ね歩きましたが、私が旅先で必ず行く場所の一つが映画館。
もともと映画が大好きな私ですが、旅先で観る映画ってなぜか日本で観る時とは微妙に違った感覚があります。私が東京で映画を観ている時、一番心に残るのはやっぱりその映画の内容そのものです。自分のホームタウンで映画を観る、という行為はあまりにも日常的なので、特に他のことに気を取られる理由もないわけです。でもそれが海外の場合、内容よりもそれとはまったく関係のない付随的な事、それもかなり些細な事により、しっかりその映画が記憶に刻み込まれることがあります。
映画は周りの人とおしゃべりしながら観るものじゃないし、一人の世界に没入してるから、周りに誰がいようと関係ないはずなのに、現地の人たちに紛れて映画を観ているだけで、不思議と現実感が微妙にぶれているのを感じます。そんなこんなで映画の内容に加えて、その「アルファ」な部分が楽しくて、日本にいたらたぶん観ないであろう作品しか上映していない時でも、割と気軽に映画館に入っては楽しく鑑賞して来ました(料金が安いのも、ぶらっと立ち寄れる理由の一つ。日本は高すぎ!)。これって「好きな人と初めてデートした時に観た映画」的感傷に似たものなのかもしれません。
その「アルファ」な部分の要素はいろいろです。映画館の構造とか、上映中、現れては消える100%読めない字幕スーパー(タイ語とかヘブライ語とかアルファベットを使わない言語)とか、日本では当たり前のパンフレットが売ってないとか、本編が始まるまでのながれとか、かなりどーでもいいこととは言え、さまざまな事で「ここは外国なんだなぁ・・・」と、ひしひしと感じ入ってしまうことが多いんですよね。

むしむし暑い一日が終わって陽も暮れる頃、上海の街の中心はそぞろ歩きの人でいっぱいになります。そんな賑やかなある晩、「“ダンテス・ピーク“ねぇ・・・。ま、いっか」とぶらりと映画館に入った私。が、客席へ通じるドアを開けた瞬間、思わず唖然。一体、ここのキャパは何人なんだっ!?とたまげるほどの広大さ。う~む、さすが中国だわい・・・と感慨を深くしました。
この映画はご存知のとおりアメリカ映画なので、当然、セリフは英語です。中国語の字幕スーパーが付くのですが、中国で外国映画を観る時の日本人の強みは、漢字の字幕ゆえ、な~んとなく意味が汲み取れちゃうということ。正直言ってこの映画、大した内容じゃないし、心に残る1本とはとてもじゃないけど言えません(事実、内容はほとんど覚えてない)。そんな中で唯一、印象にしっかり残ってしまったのが、登場人物の1人が放った「son of a bitch!」と言うセリフ。これは「(あの)クソ野郎!」とかいう意味のアメリカ英語のスラングですが、この中国語字幕がなぜか「雑種!」となってたんですね~。何かかわいいですね。そりゃ、直訳すれば「雌犬の息子!」だけど、「雑種!」と出た瞬間、なぜか秋田犬と柴犬のつぶらな目をした雑種犬がぽっと頭に浮かんでしまい、白熱したシーンだと言うのに思わずほのぼのとしてしまい、困りました。この「雑種!」があまりにも面白かったため、映画自体の空疎さも何となく許せちゃったんだよなぁ・・・。

初めてタイの映画館で観たのがこの作品。内容もとても印象深い映画ではあるのですが、そんなものよりもっと印象深かった、というか内容を遥かにしのいだのが、本編上映前に行われるタイの映画館の慣習。
本編上映前にどーでもよさげなCMが入るのは日本と同様ですが、違うのがその後。「あ~、外あぢ~。中は涼しくて天国だね、こりゃ」などと、シートにだらしなく沈み込んでいた私。しばらくしてやたら士気高そうな歌が流れ始めた途端、場内の客が突如、一斉に立ち上がったのでした。なんだなんだっ!?と泡食ってるとスクリーンには誰だか分からない男性の映像が・・・。家族とのショットやサックスを吹いているショット、どこかのお偉いさんと握手してるショットなどが次々流れています。誰だ、これは??と、ぽかんとしているうち、ようやくこの男性がタイ国王だと判明。そして、この歌と映像が終わると同時に着席するタイのお客さん・・・。そう、タイの映画館では本編上映前に国王賛歌と映像が流れるんですね~。
この体験があまりに強烈だったため、これをまた体験したいがため、タイでは何度も映画館に足を運びました。しまいにこの慣習にすっかり慣れた私は、他の客同様、スマートに立ち上がれるようになり、以前の私のようにまごまごしているヨーロッパ人のカップルなどを、「ふふん」とあざ笑う余裕さえ出てきました。やな奴ですね~。でも、けっこう病みつきになるんです、この慣習。国王の映像を毎回、映画館で流すのもすごいけど、国王に対する国民の忠誠心と言うか、敬意がごく自然に日常生活に浸透しているタイってすごいと思いました。ちなみに映画館以外でもこの国王賛歌が流れている間は、その場に立ち止まって直立不動の姿勢を保っていないといけないそうです。う~む・・・。

はい、そうです、これはウッディ・アレンの作品ですね。ローマの映画館で観た時は、イタリア語の吹き替えで上映されてました。基本的に吹き替えが苦手な私はしぶしぶ観始めたのですが、その結果、この作品には相当笑わせて頂きました。それも内容ではなく、あの世界に名をとどろかせるニューヨーカー、ウッディ・アレンがイタリア語をしゃべっている、という事態に。
ウッディ・アレン、イタリア語がぜんっぜん似合わね~!
ティム・ロスもエドワード・ノートンもイタリア語。ジュリア・ロバーツもドリュー・バリモアもイタリア語。しかし、ダントツでウッディ・アレンのイタリア語、笑えます。でも、その吹き替えをしているイタリア人の声の質自体は、いかにも神経質なダメ男・ウッディ・アレン的で、秀逸ではありました。
かように日本では観る機会がほとんどない、日本語以外の吹き替え映画。これは意外にハマってしまいます。パリで「スクリーム」を観た時も同様で、このB級ホラー・ジェットコースター映画をフランス語で観ていると、なぜか深遠な作品に思えてくるから不思議です。あの不気味なマスクを着けた奴も、包丁をぶんぶん振り回しつつ、フランス語で若い連中を追っかけてました。

私の大好きなイギリス人監督、マイク・リーの作品に、なぜかエーゲ海の小さな島で出会ってしまいました。ミコノス島に滞在し、パロス島経由テッサロニキ行きのフェリーに乗り込んだ私。夕方に到着したこの島でフェリーを乗り換えるわけですが、テッサロニキ行きのフェリーはなんと4:45AM発!そんな時間までどーやって時間をつぶせばいいんだあ!と途方に暮れていると、目に付いたのがこの映画のポスター。フェリー乗り場近くの屋外シアターで11:00PMから上映開始との案内に、おおっ!マイク・リーの新作が観られる!時間が有意義につぶせる!と喜び勇んだのでした。11時までどうにか時間をつぶした後、この屋外映画館に飛んで行くと、こじんまりした場内には白い砂利が敷きつめられ、その上に雑然と並んだパイプ椅子、というヒジョーに素朴な劇場です。もちろん空に広がるは満天の星・・・。そんな中で観た「秘密と嘘」、心に染みたなぁ~~・・・・。
今でもこの映画を時々見直しますが、体を動かすたびにパイプ椅子の下できしんだ砂利の音、港に打ち付ける静かな波の音、屋外のせいで奇妙な響き方をしていたセリフや音楽、潮の香りなどを、観るたびに思い出します。

台湾のホウ・シャオシェン監督、一青窈と浅野忠信主演。これは以前、このブログでも紹介したことのあるIFI(Irish Film Institute)というインディペンデント系映画館で観ました。この映画を観たのは、モーレツに英語の勉強に明け暮れていた時期。映画が始まりしばらくすると、突然、気がついた事実。
に、日本語が分からない・・・。
その頃、日本語を使う機会がほとんどなかった上、100%英語の環境で生活して半年を過ぎた頃。私の脳はすっかり英語モードに移行していたらしく、反射的に日本語が理解できなくなっていたのです。これには慌てましたねー。登場人物のセリフを理解するのに一瞬、間を置いた後で脳に届く、という感じ。この状態にイライラした私は、しまいに日本語の会話を聞くよりも英語字幕を読んでました(まぁ、しばらくするとさすがに脳の「日本語モード」が復活しましたが)。英語圏で生活してる分には喜ばしいことではあるのかも知れないけど、これには本当にびびりました。日本の家族や友人に手紙を書くたび、適切な単語や言い回しがどーしても思いつかず、そんな自分にぎょっとしていた時期なので余計に怖かったっす。
石畳の道が残るテンプル・バーの真ん中で、神保町の古書店だのオレンジ色の中央線だの御茶ノ水駅だの、自分にとって馴染み深い場所を眺めている事も、ものすごーく不思議な感じでした。言語とは覚えるは難く、忘れるのは何と早いことよ・・・、としみじみ感じ入った思い出深い映画の一つです。

テリー・ギリアムの作品は、どこにいようと飛んで行って必ず観ます。一人旅のニューヨーク、日中はこのハイパーアクティブな街のエネルギーに呑まれてワクワクしっぱなしなんだけど、夜はちと困ることになります。レストランはほぼグループかカップルで占められ、1人では入りにくい。オペラやミュージカルなんかは名物ではあるけど、どちらにも興味がない(それに入場料は高い)。かといって、ここはニューヨーク、夜遅くに1人で無目的にブラブラするのも不安だ。一人旅のニューヨークの夜、何だか手持ち無沙汰だなぁ・・・。ということで、私の逃げ道は当然、映画になりました。
ニューヨークに着いて初めて観たこの映画、さすがギリアム先生、期待に違わず最高に面白くてもう夢中。しかし、映画が終わりに近づくにつれ、気がつくとその興奮に不安感が混じり始めていました。その不安とは、この映画はそろそろ終わりに近づいている、そしたらこの映画館を出て、一人でホテルに帰らなくてはいけない・・・、という事。
当時の私はまだ若く、これが2回目の海外旅行。しかも初めてのニューヨークです。この映画を上映していた西54丁目のジークフェルド・シアターはビジネス街にあり、周囲は夜になると人通りが少なくなるエリア。当時、ミッドタウンのホテルに滞在していたので、映画館からは割と近い距離にあったのですが、歩いて帰るのはやだなぁ、おっかないしなぁ・・・と考えていました。が、タクシーをつかまえるにしても、映画館の入り口の前で(映画館スタッフの目が届く所で)拾えるのか、タクシーを待っている間、周りにだ~れもいなくなったら?道の向こうから明らかにラリったジャンキーとか挙動不審な奴が歩いてきたら?と、不穏な想像が暴走してしまい、映画を観ている間中、この映画の面白さとは別の意味の緊張感から、「お願い、終わらないで~、私を一人にしないで~!」と密かに祈っていた私なのでした。
その夜は何事もなく、無事、ホテルに戻ることができました(ホテル前でタクシーを降り、向かいのサンドイッチ・チェーン、「SUBWAY」に立ち寄った時、ウィンドウの外に立っていた挙動不審の男と目が合ってしまい、その男が店の前にたたずんでひたすら店内の私を目で追っているのにびびってしまい、そいつが立ち去るまで店を出ることができなかった、という出来事はあったものの)。あれから長い年月を経た今でも、この映画のしびれるオープニング(アストル・ピアソラの曲をバックに、たくさんの赤い猿の絵がぐるぐるとらせんを描く)を観るにつけ、あの時感じたざわざわした不安感、孤独感、若かった自分、そしてこの映画に対する純粋な感動を思い出します・・・。