2016年7月23日、ほぼ半年前になってしまった安陽旅行をまとめた。数日前、河北などに大雨が降り被害がでたが、河北省に隣接する安陽市も大雨で安陽河が氾濫し、死者12人以上の被害がでた。殷墟の近くにある安陽橋もニュースには紹介されていたが、市区内の被害は報道されていない。
2016年2月10日、洛陽を昼過ぎに出発。G55二広高速に入り、北上してG30連霍高速を横切り、黄河を渡り、済源市からS28長済高速に折れて東進し、さらにG5512晋新高速を東へ進み、新郷市でG4京港澳高速に入り北に進み、鶴壁市を過ぎ、安陽北インターで高速から一般道に出た。高速道路の走行距離は約300KMで、すでに夕方になっていた。安陽市区東地区にある安陽迎賓館というホテルに宿泊した。2014年にオープンしたホテルでコストパフォーマンスに優れた中国5星のホテルだったが、殷墟などの案内・旅行パンフレットなどが置いてなく、フロントに問合せたら現在パンフレットを新旧入れ替え中で、まだ新しいものが用意できていませんと言われた。仕方がないので部屋に置いてあった安陽市の紹介パンフレットを見てみると、抗日戦争が行われたことが書かれていた。自宅に戻ってから調べると安陽戦役(1945年7月)という最後の抗日戦闘があったそうだ。日本軍側は河北方面の警備と治安維持を行っていた独立混成第1旅団が敗退したそうだ。この旅団は邯鄲で敗戦を迎えた。割引券をもらったので夕食にはホテルでバイキングを食べ、ホテル内をぶらぶらと歩き早めに就寝した。
二日目は、殷墟、中国文字博物館を見学した。あまり考古学の知識はないので、周が善、殷が悪というイメージがあり、紂王や九尾の狐の話などが頭に浮かんでくる。九尾の狐は妲己となり紂王を誑かし暴虐をつくし、天竺に行き妃華陽夫人となっては、班足太子を誑かして暴虐をつくし、褒[女以]になって周の幽王を誑かし、吉備真備とともに日本にわたり、玉藻前になって鳥羽上皇を誑かした(高井蘭山『絵本三国妖婦伝』)が、九尾の狐は殷の紂王の時、妲己としてデビューした。殷墟は、殷墟宮殿宗廟遺址と殷墟王陵遺址の2地区にわかれている。殷墟宮殿宗廟遺址には、殷墟博物館があり司母戊鼎(複製品らしい)などの青銅器が展示されているほか、小さい細工の玉が展示されていて造形がとても気に入ったので、20元の土産品を一つ買ってみた。殷代車馬坑展示庁があり、殷代の道と車馬遺跡が展示されていた。こちらの方が古いようだが、洛陽の周王城天子駕六博物館が見栄えがしているように思えた。宮殿遺跡跡を歩いてから婦好(周王の武丁の妃で武勇に秀でた女性)の墓を見学した。
殷墟
殷墟博物館
殷代車馬坑展示
婦好墓
この後、殷墟王陵遺址に車で移動して見学したが、こちらにはレプリカの司母戊鼎が設置されていた。
殷墟王陵遺址
</>
マクドナルドをさがしたが見つけることができなかったので、昼食としてケンタッキー・フライドチキン(文峰区解放路拱辰広場というショッピング・センター)でハンバーガーを食べた。少し道を間違えたせいや、駐車場探しに手間取ったせいで、中国文字博物館についた時は遅くなってしまい、閉館時間まで30分しかなかったが、駆け足で見学した。夕飯は文明路と東風路の交差点近くにある盛徳利という安陽料理レストランで、安陽烩[火會]菜、血糕[米羔]、粉漿飯を食べた。
中国文字博物館
夕飯は文明路と東風路の交差点近くにある盛徳利という安陽料理レストランで、安陽烩[火會]菜、血糕[米羔]、粉漿飯を食べた。
安陽料理
三日目は、朝食後、周の文王が殷の紂王に幽閉された羑里城を見学。安陽市の南部の湯陰県の北側にあるが、天気が悪く大気汚染がひどかったので、こんな所に幽閉されるのはつらいという思いが離れず、子供の肉で作ったスープを飲まされた話などと相まって陰鬱な感じが続いていた。
羑里城
羑里城をあとにして湯陰県の中心部にある岳飛廟に行ったが、こちらはとても混雑していた。嶽飛の墓は杭州にあるものがよく知られているが、こちらも重要文化財に指定されている。嶽飛は国民的民族英雄として人気があるが、彼が戦った相手は女真族でその主要な後継民族は満州族であるから、女真族(満州族)も中華民族を構成している民族の一つなので、岳飛は漢民族の英雄というべきなのかもしれない。
岳飛廟
岳飛廟は湯陰県安陽市中心から20KMぐらいのところにあるが、次は安陽市中心から北西へ20KMぐらいのところにある馬氏荘園を見学。馬氏荘園は、西蒋村出身でさまざまな役職を歴任し広東省巡撫になった馬丕瑶という官僚が19世紀末に建てた屋敷で、慈禧皇后が西安に避難する時に宿泊し、鄧小平等が1947年に軍指揮所にしている。また、馬丕瑶の子供は実業家、民主運動家として活躍したそうだ。
馬氏荘園
安陽市中心部にもどり、天寧寺の文峰塔を見学したが、残念ながら補修工事中でよく見ることができなかった。
天寧寺
この後、袁世凱の墓所である袁林を見学。自ら皇帝になった袁世凱が朝鮮への派兵指揮官だったことや近代化に努めたことなどをはじめて知った。夕飯は(どこにでもある)澳門豆撈という火鍋料理を食べた。
袁林
四日目の朝、霧がひどくG 4京港澳高速が閉鎖されていたため、一般道路を走行することになり、G5512晋新高速、S28長済高速、G 55二広高速は走行できたが、霧で視界不良が続き低速で運転せざるを得なかった。洛陽に戻り白馬寺を見学したいとも思ったが、あきらめてG30連霍高速で西安に戻った。G30連霍高速では大雨になったが、陝西省に近づくにつれて徐々に雨は小降りになった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます