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ホクトベガの追憶

2013-04-03 07:46:12 | ギャンブル
新・優駿たちの蹄跡 ホクトベガ~誰がために(前編)~ (KCGコミックス)新・優駿たちの蹄跡 ホクトベガ~誰がために(前編)~ (KCGコミックス)
価格:(税込)
発売日:2012-12-20


ホクトベガと言う馬が鮮烈に記憶に残っている。

今から遡ること、16年前の今日。

ホクトベガが散ったのである。

当時の4歳(現3歳)牝馬最強決定戦「エリザベス女王杯」・・・ここでは春競馬で圧倒的な力を見せた「ベガ」と言う馬が一番人気だった。そして、当時の私も額の流星が美しいベガがお気に入りであった。
ところが、このレースを制したのは当時は中穴人気程度だったホクトベガだった。実力には定評があったホクトベガだったが、誰もG1を勝つなんて思ってはいなかったはずだ。「ベガはベガでもホクトベガ!」と言う有名な実況アナウンスに代表されるように。
(私的にもベガはかっこいい美人馬、ユキノビジンは本当にかわいい馬だったので、無骨なホクトベガは目立たなかった)

しかし、それはホクトベガの苦難の道の始まりだったのである。
G1馬なのにオープンレースに出場すると言う大顰蹙の末、ユキノビジンにあっさり敗退。それがケチの付け初め(だと思う)、その後もなかなか勝てないレースが続く。いわゆる幾多の名牝が味わってきた「牡馬との壁」がホクトベガに立ちはだかったのである。

エリザベス女王杯と言う栄冠を手に入れたのだから、そのまま引退してお母さんになってもよかったのである。しかし、同期の牝馬たちが次々と結婚引退していく中、ホクトベガは勝利を求めて走り続けたのだ。

さて、芝レースでは限界を感じたのか、陣営はホクトベガをダートレースに挑戦させる。
これも当時はビックリだった。今でこそフェブラリーSというG1レースが設けられているものの、当時はどうしても格落ちの感は否めなかったものだ。しかも、ホクトベガはG1馬。これも異例中の異例だった。

ところが、1995年エンプレス杯。ホクトベガのダート転向初戦。ここでホクトベガはなんとビックリ18馬身差をつけての圧勝と言うおそるべき性能を見せる。
その後も、ダートレース7連勝。しかも、どのレースも並みの勝ち方ではない。全く他の馬が相手にならないほどのエンジンの違いを見せ付ける。当時、ダート最強だったライブリマウントさえ子ども扱いしてしまうほどに。
そして、そのおそるべき強さをして、いつしかホクトベガは「砂の女王」と呼ばれるようになった。

国内ではもはや敵がいなくなったホクトベガ。
彼女は引退レースとして世界最大のダートレース「ドバイワールドカップ」へと参戦する。

1997年4月。アラブ首長国連邦。
ホクトベガはレース途中で骨折。そして、そのまま異国の地で帰らぬ馬となった。

ホクトベガ、異国に散る。

当時、外電でそれを知ったワタシは目の前が真っ白になった記憶がある。まさに戦死である。

IFが許されるのならば・・・同期であるベガはアドマイヤベガ、スターバレリーナはグランパドドウ、ノースフライトはミスキャストといったところをターフに送り込んでいる。ホクトベガももしもドバイへ行ってなかったら、今頃、その血を後世に伝えていたのだろう。
「負け犬」なんて言葉が流行った時期がある。走り続けたホクトベガも、牧場で悠々と子供を産んでいる同期と比較すると、その概念からすれば「負け犬」なのかも知れない。

しかし、ファンの脳裏から忘れることができないのはホクトベガなのだ。その思いは「ホクトベガメモリアル」というレース名に今も残されている。

そして、ホクトベガをきっかけに、毎年、何らかの馬がドバイに挑戦するようになった。今年もジェンティルドンナをはじめとする馬が世界の壁に挑み、私のような競馬ファンを一喜一憂させた。

その全ての始まりは、ホクトベガだったのである。

命あるものを競わせる競馬と言うスポーツを堪能することは、人間の深き罪と贅沢を同時に感じさせるものである。